瞭さんが逝ってしまった・・経過

  よく頑張る人でした。4年前の早春、ちょうど各大学で華やかな卒業式をしている頃に、胆管癌の大手術を受けました。その後の生への執念・・というより、「普通の生活をしたい」という想いの深さは凄まじいものがあり、お陰で体調も持ち直し、2年間は元気よく、楽しく暮らしていました。3年目に入った頃から数値(腫瘍マーカー)が異常に上がり、気になりながらもこれと言った体調の変化の自覚もなく、普通に暮らしていました。

 昨年の秋頃から、「もうあまり生きられないかも知れない」と言うようになりました。Second Opinionでお世話になっている苑子先生も、夫の状態が非常に悪いと心配して下さっていました。でもまだ普通に暮らしていました。10月8日、小学館児童出版文化賞の審査員で東京へ行くときには、私もついていきました。夫はパーティの会場にヒロスケも呼び、自分の最後の仕事姿を見せたかったのでしょうか。東京の大勢の方にお別れを言いたかったのでしょうか。11月23日、リユニオン、12月1日、今江祥智さんのパーティ、12月15日、晩年学フォーラムのパーティ、と出て、多くの方にお会いしてきました。この頃になると、熱が出たり、顔も体も腫れてきたり、かなり状態は悪くなっていましたが、それでも「普通の生活をしていたい」という想いで、寝込むことはありませんでした。寝たら楽だろうけど寝たきりになるから、と。12月27日、酸素の装置が家に置かれ、鼻にチューブを付ける生活になりました。外出用にはボンベがあります。これを付けて大晦日にはホテル日航プリンセスへお昼を食べに行きました。

 年が明けると、腫れはお腹だけでなく、足もパンパンに腫れ、Pまで腫れてオシッコするのも苦労するようになりました。それでも普通の生活を続け、外出もしていました。この頃から、夫を心配して色んな方が家へ来て下さいました。平素はお客嫌いな夫でしたが、このときにはとても喜んで迎えていました。色んな人に会っておきたかったようです。甲斐甲斐しく動いて下さる村瀬先生には、自分のお葬式の相談から、あとの始末までお願いしていました。

 1月20日、携帯電話を2つ契約しました。ケータイなんて大嫌いだった夫ですが、とても喜び「これなら寝ながらでも電話できるね」と。隣の部屋から、また同じ部屋でテーブルを挟んで、夫から電話がかかりました。でも本当に悪くなったのはこの日からでしょうか。死ぬ6日前です・・。1月22日、電動ベッドを頼みました。夫の希望で新しい羽毛布団と敷き布団もすべて綺麗なものにしました。この日から私は高熱が出てました。24日、25日と先生の往診で、夫と二人並んで点滴を受けました。

 1月25日も昼間は何人かお見舞いに来て下さいましたが、夜になるとかなりしんどそうで、眠れないようで、私にもベッドに入るように言い、窮屈なベッドで背中をさすったりしていました。山口百恵さんのCDを聴きながら。朝の4時半くらいから、テープに録音してくれと言い、喋りはじめました。別に遺言ではなく、誰にともなくのお喋りです。

 一睡もしないで明けた26日、「ボクの今の状態をホームページの日記に書いてきてほしい。卒業生たちが読んでくれるから」と夫が言い、私はなぐり書きのような簡単なものを書いて、夫のベッドへ戻りました。呼吸が苦しくなり先生に来てもらいました。お昼12時半点滴。夕5時頃先生の携帯にまた電話しました。先生は都ホテルでのパーティを抜けてきて下さいました。夜9時半頃、ベッドから椅子に座りたがって、しばらく座った後、「今度ベッドに寝たら、もう生きて起きられないからね」と言う。「いや!」と泣いてしまい、夫は「あんたの面倒を最後まで見たかったのに、ダメになったよ」と・・。夫をベッドに戻すときに失敗して、義妹の幸美さんに助けを求め、すぐ家族4人、車で飛んできてくれた。11時、先生を呼ぶ。パーティの2次会を抜けて来て下さった。点滴。義妹たちが帰り、私は一人で夫を見守り、「ヒロが朝一番の新幹線で来るからそれまで頑張ってね!」と祈るように夫の手をさすりながら泣きながら言い続ける。心細い。夜中1時に義妹の幸美さんがまた来てくれ、ホッとする。その直後、苦しそうに呼吸していた夫の息がパッと止まる。どうしよう!「お父さん!」「お父さん!」どうなったの?

 先生に来ていただき・・・夫は、26日の夜中1時10分、27日の未明にこの世に別れを告げたました。涙、涙、涙・・・・・。

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