宋保学さんと、遺族:宋慶和さん

 宋保学さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部築港(第2次)へ連行されました。死亡診断書では、44年10月23日「慢性胃腸カタル」により33歳で死亡となっています。この日は、中国の村から長い苛酷な連行の末大阪に到着した翌日です。
 宋保学さんは13年7月11日生まれ。42年に日本軍に連行されました。宋保学さんには宋保栄さんというお兄さんと、宋保坤さん、宋保福さんという二人の弟がいました。宋保学さんは、日本に残された資料では「宋保雪」さんとなっていました。

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 10年以上前に中国保定市の河北大学の調査によって判明した消息を教えてもらい、大阪からの報告は送ってきたのですが、大阪で亡くなった人の詳細を教えてほしいとあらためて手紙を出すと、宋保学さんの甥の宋慶和さんから初めて手紙が届きました。
 宋保学さんの人柄と連行時の経緯について次のように語っています。

村長にさせられた末(クリックで手紙へ)

 残された家族の状況を続けて話してくださいます。

夫の行方を尋ね回って(クリックで手紙へ)

 そして最後にこう結ばれました。

 「私たち家族が受けた苦しみは、幾千万の中国人民が受けた苦しみと同様です。私が歴史を振り返るのは、歴史を忘れないためです。私たちが亡くなった人々を追悼するのは、後に続く人々に警鐘を鳴らすためです。子や孫の世代に、隣国に暮らす中日両国人民が気持ちを通じ合わせる、その大切さを分からせるためです。悲惨な歴史は永遠に過去のものとしましょう。中日両国人民は永遠に敵になることのないよう、子々孫々友好を保ち続けましょう。」
            (06年1月22日の手紙)

 私たちも同じ思いでこれからの活動を続けていきたいと思います。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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