婁紀民さんと、遺族:婁紀春さん

 婁紀民さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部川口へ連行されました。死亡診断書は残っていませんが、死亡顛末書というのがあります。そこには、45年(46年と誤記)1月12日以来「肺結核」により静養中10月10日、21歳で亡くなったとされています。帰国目前でした。

 婁紀民さんの拉致の現場を知る人は誰もいません。今残されている遺族はいとこの婁紀春さんです。2001年1月1日河南省原陽県の自宅を訪れました。
婁紀春さんの写真 2001年1月1日訪問時の婁紀春さん
 婁紀民さんは長期雇いの小作農でした。長期雇いとは実質的に奴隷同然だったといいます。両親は、麦・豆・たばこ・落花生などの行商でした。いとこの婁紀春さんもまた土地のない貧農で小作でした。それぞれ別の所で縛り続けられているものにとって別の場所での拉致は知るよしもなかったのです。
 46年川口の婁占標隊長が帰国後知らせを持ってくるまで何処に連れて行かれたかも分かりませんでした。隊長の知らせは簡単なものだでした。「婁紀民は日本に行って日本で死んだ。」それ以上の情報は誰からも伝わることなく、小作の仕事はそのまま続きました。

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 2000年に、同じ原陽県の安治川の遺族・張忠杰さんが婁紀民さんを見つけるまで何の情報もありませんでした。私たちも婁紀民さんの詳しいことを何も伝えることが出来ませんでした。
 01年1月の自宅訪問について会報で次のように記しました。

婁紀民が永遠に消えてしまう(クリックで会報へ)
婁紀春さんの写真2 2001年1月1日訪問時の婁紀春さん
 その実践は実現することが出来ていません。今このホームページで分かっている限りを紹介することが精一杯です。婁紀春さんには手紙をずっと送ってきました。07年3月に次の返事が来ました。

あの世の魂たちを二度と失望させられない(クリックで手紙へ)
死亡顛末書 ※「死亡顛末書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
 
 

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