波連峯=趙小燕さんと、遺族:趙清海さん

 波連峯さんは1944年10月に日本港運業会大阪支部安治川へ連行されたと記されています。死亡診断書では、45年6月26日、23歳で「戦災死、湊屋1丁目2ノ1地上死亡」となっています。
 また、港区に於ける空襲被害者の名を中国人も含めて記載する西栄寺(港区)の過去帳では「6月26日、沈連峯」となっています。西栄寺の分は住職が60年に港区役所の火葬許可証と思われる資料から転記された際の誤記あるいは区役所資料での誤記と思われます。私たちも毎年の追悼会で「波連峯」の名を掲げてきました。

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 2005年、河南省原陽県で調査を続ける張忠杰さん(同じ安治川の遺族)から、「波連峯の替え玉として安治川へ行った人の遺族が見つかった」と連絡を受けました。連行された人が趙小燕さんで、その弟趙清海さんを発見したのです。そこで、趙清海さんに除幕式の報告とあわせて質問の手紙を書き、その返事として以下の手紙を頂きました。それにより初めて当時の状況の一端が明らかになりました。

趙小燕の連行(クリックで手紙へ)

 趙清海さんの話により、替え玉というよりは偽名だったようです。呉文華さんは安治川に二人いた隊長の一人、実名・呉明海。張子敬さんの名は安治川にも川口にも見つかりません。隊長の呉文華さん共々隊員も日本に連行されるのですが、第六支隊については詳しいことが分かっていません。
 この呉文華隊長が多くの情報をもたらしたようです。

呉文華隊長から伝わる(クリックで手紙へ)

 趙清海さんは、ここ数年の間に、同じ安治川に連行されていた幸存者、張修正さん、趙百英さん、毛淵林さんにも事実を確かめました。毛淵林さんからは趙小燕さんが安治川200番だったことも教えられます。
 こうした経緯を経て、波連峯さんが実は趙小燕であることが確かめられました。
モニュメントのプレート 空襲犠牲者モニュメントのプレート
 ピースおおさかのモニュメントについては袁景林さんの項を参照してください。
死亡診断書 ※「死亡診断書」について
中国人を強制労働させた戦時下統制団体が46年に外務省に提出したもの。
戦争犯罪追及から逃れることを目的にしているため、正直に記載しているかは疑わしい
地図・遺族所在地
 ●遺族の所在地
多くの人にとって連行された人の故郷のまま
 
ピースおおさかモニュメント
  ピースおおさかの空襲犠牲者モニュメント
 

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