趙清海さんからの手紙

 45年、労工たちが帰国したとき、私の村の呉文華さんは兄の骨箱を天津まで持って帰ってくれたそうです。そのころ天津では戦闘が続いていたので、骨箱を郷里まで持って帰る方法がなく、天津の大学に置いたままにしてきたのだそうです。兄の遺骨のことについては、それ以上のことは分かりません。

 呉文華はその頃すぐには私たちに何も話してくれなかったので、母は自分の息子がもはやこの世にいないことを知らないまま死んでいきました。

 呉文華が郷里に帰り着いてから、まだ生きておられた頃に、私は兄のことを聞きに呉文華さんを訪ねたことがあります。そのとき彼はこう言いました。『おまえの家にとって兄さんが唯一の労働力であることは分かっていたから、家族のために兄さんを早く帰してやろうと思っていた。しばらくしたら帰すつもりだったので、波連峯という名前を名乗らせていたのだが、まさかたった10数日後に捕まってしまうとは思ってもみなかった。兄さんは日本の大阪の安治川というところで、俺と一緒に働かされていた。俺は隊長だったので、特別におまえの兄さんの面倒はみていたつもりだが、安治川の仕事はきつくて、人間扱いされない毎日だった。殴られたり怒鳴られたり、牛馬にも劣る虐待を受けていた。おまけに食べるものはわずかしか与えられていなかったから、兄さんはとうとう病気になってしまった。ある日爆撃機が飛んできて、みんなは走って逃げたが、兄さんは病気だから走ることができない。それで爆撃を受けて死んでしまったんだ』。当時私はまだ子供でしたから、呉文華さんが私に話してくれた内容は、これぐらいのことでした。
                (06年2月15日の手紙)