102 彼が、悪の自覚に押されて、自分が偽証と虚偽の弁明で断罪されていることを自白さえすれば、我々は、数々の非難のもう一つを晴らすことに移るだろう。他方、彼が、私の言っていることを否定しようと試みるなら、私は、私の兄弟たちを何人でも証人として引き出すことができる。彼らは、私がオリーブ山に建てた数々の修室の中に暮らしながら、キケロのほとんどの対話編を彼のために写したのであった。私はしばしば、彼らが筆写したそれらの対話編を手元に持っていた。そして私はみずあらそれらにざっと目を通した――彼が、他の種類の諸々の著作に普通に支払われる以上のはるかに多い報酬を彼らに支払ったと知りつつ。彼自身もまた、ベツレヘムからエルサレムにいる私に会いに来た――キケロの一つの対話編とギリシア語で書かれたプラトンの対話編とを含む一書を持参して。彼がその書を私にくれたことを否定したり、彼がしばらく私の許に留まっていたことを否定したりしないだろう。しかし、日の光よりも明らかの事柄にそんなにも長々しく留まって何の利益があるのか。わたしたが述べた一切のことに対して、次の付言が為されねばならない。そうすれば、すべての註釈は余計なものとなる:すなわち、彼は、ベツレヘムの修道院に落ち着いたこと、そして、そんなに昔のことではないが、彼が修辞学の教師の役務を引き受け、「彼自身の」マローと喜劇作家たちと叙情詩人たちと歴史家たちを、彼に託された若者たちに説明し、彼らに主への畏れを教えようとした。こうして彼は、実際に、それらの異教の作家たちの学識における教師になった。ところが彼は、彼らに関して、一度でも彼ら(の書物)を読むなら、彼はキリストを否定したことになるだろうと、誓っていたのである。

 

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