32 この段落の中で、疑い関わる一切の余地が除去された。以前の段落で、あなたは次のように言った:前もってキリストに希望を置いた人たちは、彼らがこの可視的世界における諸々の身体の中に生れる前に、天の内に住み、キリストに希望を置いていた。しかし、そのことがあなた自身の見解であると想定されるのを防ぐために、あなたは別の解釈――すなわち、すべての膝が主なるイエスに曲がるとき、天にあるものもの、地にあるものも、地下にあるものも、ありとあらゆる被造物は、みずから進んで、あるいは強制によってという二通りの仕方で彼に服従するという解釈――を持ち込んだ。そしてあなたは、付け加えた:宣教の言葉を通して彼をいま信じているすべての聖人たちは、みずから進んで彼に服従しているのであり、「事前希望者たち」、すなわち、前もってキリストに希望を置いた人たちと呼ばれる。他方、強制によって彼に服従している人たちは、み言葉の宣教によっていま信じている人たちではない。しかし彼ら、たとえば悪魔とその使いたち、および、彼らとともに強制によって信じるのを余儀なくされた者たちは、もはや彼を拒むことができないだろう。それらすべての者たち、彼らの中でも悪魔とその使いたちは、後で信じるようになるから、事前希望者とは呼ばれないだろう。その名称は、前もってキリストを信じ、みずから進んで彼に希望を置いた人たちに属している。ところが彼らは、後になって、しかも強制によって初めてそうしたのである。さらにあなたは付け加える:したがって彼らは、ことなった報いを受け取るだろうと。しかしあなたは、すべての者たち――いま信じていない者たち、すなわち悪魔とその使いたちにも、劣っているかもしれないが諸々の報いを付与する。そして、あなたは、断罪に値する別の人――その人は、悪魔はいつか刑罰の執行猶予をもつこともあり得ると考えている――の熟慮した判断でではなく、単なる意見をいま保持しているにもかかわらず、彼を神の国にまで連れて行き、第二の報酬を受け取らせる。あなたは、次のことも、我々わが理解するように望んでいるのだ:すなわち、キリストが真実に宣べ伝えられるか、強制によって宣べ伝えられるかは問題でなく、我々が強制によって信じるか、みずから進んで信じるかは些細なことであると。

 

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