33 以上の諸々の事柄は、あなたが我々を差し向けた注解から、我々が学んだことである。それらは、あなたが我々に教える信仰の混乱の諸規則[1]である。あなたは、あなた自身が内密に教えていることを、我々が他の人たちにおいて断罪するように望んでいる。もしもあなたが、我々の諸々の魂は諸々の身体に結ばれる以前に天において実在していたと主張する教えを認めない「別の人」であれば、あなたは疑いもなく、悪魔とその使いたち並びにすべての不信仰者たちに赦しを与えるだけでなく、彼らは二流の報いを授けられるだろうと約束する人物である。しかしもしもあなたが、この第二の教えを否定するなら、あなたは、我々が最初に検討した事柄の原作者でなければならない。彼の諸々の書物――彼はいまそれらについて推賞しつつ書いている――を読む有能で博学な人たちは、彼が私をモグラと呼んでいるゆえに私を嘲笑するかもしれないが、彼らは、私が指摘した諸々の事柄が彼の諸々の本の中に埋め込まれていることが分からず、彼によって私以上にはるかにモグラ扱いされていることに気づかないかもしれない。実際、彼らが読むばかりでなく理解することもできると彼が考えるなら、彼は、他ならぬ彼自身が教えている諸々の事柄を断罪するために、それらの書物の写しを入手するように求めなかっただろう。なぜなら彼が我々に断罪するように迫っている諸々の事柄は、それらの書物の中に極めて明晰判明に含まれているからである。とにかく私は、次のことを示した:すなわち、彼が他の人の諸々の書物においては断罪されることを願った諸々の教えを、彼の選りすぐりのそれらの注解の中で彼自身が主張しているということ。その教えとは次の通りである:諸々の魂は、この世において諸々の身体の中に生れる前に、天において実在したこと、すべての罪人たちと不信仰者たちは、悪魔とその使いとともに――天にあるものも、地にあるものも、地下にあるものも、すべての膝がイエスに曲がるとき――赦しを受け取るばかりでなく、二流の報いを受け取るために呼び出されるだろうと。



[1] 原語はregulae confusionis fidei:「信仰の規則」(regula fidei)をもじったものだろう。

 

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