34 人はみずから建てた建造物に有罪を宣告することができるなどということを信じるのは前代未聞である。したがって私は、そのことが信用を得るのは難しいというのを疑わない。そして私は、あなたの願っていることは、私が、可能ならば、彼の諸々の書物から、それに関する疑いの余地のまったくない諸々の例を引き出すことでないかと思っている。その諸々の例とは、すなわち、彼のお気に入りのあの「別の人」の名前が一度も挙げられていない諸々の語句である。そこで、私はそうすることにしよう。同じ書の中で、彼は自分の信仰を明らかにしている:すなわち、代の終わりに、キリストと彼のすべての聖人たちが悪霊たちの上に君臨し、悪霊たち自身も彼らに君臨するキリストと彼の聖人たちとの意志に従って振る舞うだろうという信仰。彼は、「来るべき諸々の代に彼は、キリスト・イエスにおいて私たちのための慈しみの溢れるばかりの豊かさを示すだろう[1]」という使徒の言葉を注解してから、次のように言う:

 『かつて地下の場所の律法に縛られ、我々の諸々の悪徳と諸々の罪とによって肉の諸々の業と罰とに引き渡されていた我々は、いまやキリストともに君臨し、彼とともに着座する。しかし我々は、どこかの低い場所に座るのではなく、すべての主権と力と支配とを超えて、この代においても来るべき代においても命名されるあらゆる名を超えて座るだろう[2]。なぜなら、もしもキリストが死者たちの中から復活し、天の諸々の場所において、一切の主権と力と支配とをはるかに越えて、そしてこの代においても来るべき代においても命名されるあらゆる名を超えて神の右手に座っているとすれば、我々もまた必然的に、キリストとともに座り君臨し、彼とともにすべてのものを超えて座るにちがいない。しかし、注意深い読者なら次のように尋ねて、探求するかもしれない:いったい人間は、み使いたちと天のすべての諸力よりも偉大なのかと。大胆に過ぎるが、私は次のように答えたい:諸々の主権と諸々の力と諸々の支配、ならびに、この代においても来るべき代においても命名されるすべての名は――すべてのものはキリストの両足に服従させられるのであるから[3]――それらの内の善き方に関係するのでなく、反対の方に関係しているのでなければならない。使徒は、それらの言葉によって、反抗的なみ使いたちと、この世の君と、かつて明けの明星だったルシフェル――彼らの上に、キリストによって特権を与えられた聖人たちが、キリストとともに座るにちがいない――を意図している。それらの力は、いまは地下の諸力であり、諸々の悪い目的のためにみずからの自由を乱用し、あらゆるところを歩き回り、罪の数々の深みに駆け下る。しかし、キリストと聖人たちがそれらの上に据えられた諸々の玉座に座とき、それらは、それらに君臨する者たちの意志に従って支配され始めるだろう』。

 確かにここには、いかなる曖昧さもない。その段落は、その諸々の論点を明らかにしてくれる人を必要としない。彼は、極めて判明な諸々の言葉で、しかも「別の人」の口を借りずに、次のように語っている:反抗的なみ使いたちとこの世の君、そして、かつて明けの明星だったルシフェルは、最終的に、キリストがご自分の聖人たちとともに彼らの上に座し君臨するとき、彼の国ばかりでなく彼の意志の追従者にして共有者になると。なぜならキリストと彼のすべての聖人たちの意志に従って行為することは、祝福の頂点に到達したことだからである。我々が主の祈りの中で父に求めるように教えられた完成の状態とは、彼の意志が天においてと同じように地においての行われる他ならない。



[1] Ep.2,7.

[2] Cf.Ep.1,21.

[3] Cf.Ep.1,22.

 

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