31(a) しかし我々は、今のところ彼を容赦しよう。我々は、諸々の書物の検討に向かわねばならない。なぜなら、彼自身の言葉を使わせてもらえば、偉大な作品は、眠る時間をまったく与えないからである。とはいえ、彼自身は誰も容赦しないし、理にかなった発言をするどころか、自分が望む相手を彼自身の舌の鞭で鞭打っている。そして彼にへつらうことを拒む者は誰でも、彼の諸々の論考と世界のすべての地域に発送された数百の手紙の中で、異端者という烙印を押されることを覚悟しなければならない。しかし我々は、彼の例に従わず、むしろ太祖ダビデの例に従うことにしよう。ダビデは、洞窟の中で彼の敵サウルに遭ったとき、彼を殺害することができたのに、それを拒んで、彼を容赦した。ところがあの男は、言葉と行いにおいてどれほど頻繁に私に同じことをしたかよく知っている。もしも彼がそのことを告白しようとしなくても、彼は少なくとも自分の心と良心の中にそのことを留めている。私は彼を赦そう、彼が決して他の人たちを赦さず、いかなる思いやりも愛情もなしに他の人たちを彼らの諸々の言葉のゆえに断罪するとしても。そして私は当分の間、この落とし穴から彼に出てもらうことにしよう――我々全員が力を合わせてどんなに望みどんなに奮闘しても救い出せない別の落とし穴に彼が落ちるまで。彼は、次のことがどうして起こったのかを説明しなければならない:すなわち、神の義を擁護しようとする教えが主張された最初の段落で、彼は本当に他の誰かについて意図的に語り、しかもその人は、彼が断罪したいと願っていた当人だったはずなのに、第二の段落――そこでは話者は正反対のことを述べ、前に述べられたことを認めない――では、彼が語る「別の人」は、彼自身を指していることである。これこそ彼が意図していたものだと彼は確かに承知していたが、そのことを明白に書き表すことができなかったということもあり得る。我々は、彼のために有利に解釈しよう。そしてこの後の段落における「別の人」は彼自身であり、身体における我々の生活が始まる以前に我々の諸々の魂が実在しキリストに希望を置いていたと主張する教えを認めなかったのは彼であると想定することにしよう。私はその段落全体を引用して、明確で注意深い探求を遂行し、それが何を目指しているのかを見極めることにしよう。彼は次のように言っている:
『身体における我々の生活が始まる前に我々の諸々の魂が実在しキリストに信頼を置いていたというその教えを認めない別の人は、その文章の意味を変えて、次のことを意味するようにさせた:すなわち、我々の主なる救い主の来臨において――そのとき「彼の名において天にあるものも地にあるものも地下にあるものも、すべての膝が曲がり、すべての舌がイエス・キリストは主であると告白し、父なる神に栄光を帰し[1]」、すべてのものが彼に服従させられる――ある者たちはみずから進んで服従させられ、他の者たちは強制によってのみ服従させられるだろう。そして彼の到来以前に彼に望みを置いていた者たちは、彼の栄光の賛美に向かっているゆえに、「事前希望者[2]」と呼ばれる。しかし、悪魔や彼の使いたちでさえも王としてのキリストを拒絶することができなくなるとき、強制によってかろうじて信じているように見える者たちは、単に「希望者たち」と呼ばれるだけで、彼の栄光の賛美に向かっていない。そして我々は、このことが今でも部分的に成し遂げられているのを見る。なぜなら我々は、自ら進んで神に従う者たちの報いと、強制によって彼に従う者たちの報いを区別することができるからである。しかし、「見せかけであれ真実にであれ、キリストは告白される[3]」べきである。ただし、「希望者たち」も「事前希望者たち」も、自分たちの希望の違いのゆえに、それぞれ異なる報いを受けるだろうということを理解すべきである』。
[1]
Ph.2,10-11.
[2]
原語はラテン語ではなく、ギリシア語(prohlpi,kotej)で、「前もって希望した者たち」を意味する。後出の「希望者たち」(希望した者たち)も同様。
[3] Cf.Ph.1,18.