30(a) しかし私は、引き続く個所の中にさらにもっと重要な事柄があることを示そうとした。すなわち、彼は次のように述べた:我々は以前にキリストに希望を置いていたのであり、世界の設置以前に、しかも我々が我々の身体の中に生れる以前に、我々は天において祝福され選ばれていた。彼はそのように述べた後で、再び、彼のあの「別の人」を引き合いに出して、次のように言う:『我々が前生を持っており、この身体の中に生きる前にキリストに希望を置いていたというその教えを認めない別の人は、彼なりの仕方でその問題を理解するように我々を仕向けるだろう』。この段落の中で、その「別の人」は――それが誰であろうと――彼の嫌味の一切を表した。そこで、我々がこの身体の中に生きる以前に、我々が存在しキリストに希望を置いていたというその見解――その見解のゆえに彼は、オリゲネスを断罪するように我々に求めた――を認めないこの「別の人」によって、彼は誰を意図しているのか、彼に言わせることにしよう。彼は、この「別の人」によって誰を理解するように我々に期待しているのか。その人は、彼自身と対立する人か。偉大なる師よ、あなたは何を言うのか。あなたは、あなたの弟子たちに語るのが大好きなあの両刀論法によって窮地に追い詰められている。すなわち、もしもあなたが、諸々の魂が身体の中に生きる以前に実在したことを認めないこの「別の人」によってあなた自身を意図していると言うなら、あなたは、先の段落の中に隠されていた秘密をうっかり漏らしたことになる。あなたがいま断罪を求めるすべての教えを作り出したあの「別の人」が、あなた自身の告白によって、あなた自身であることが見出された。しかし、もしもあなたが先の段落の「別の人」であることを我々が信じず、したがって、あなたがいま非難する諸々の教えはあなたに帰されないとすれば、その場合、我々の諸々の魂は我々が身体の中に生きる以前に実在したことを認めない「別の人」はあなたである見なす権利は、我々にまったくないことになる。あなたの放免の根拠として、あなたはどちらかお好きな方を選びたまえ。あなたがしばしば持ち込むその「別の人」を、我々はあなた自身であると理解すべきか、誰か別の人であると理解すべきか。あなたは、彼が我々によってカトリックであると理解されるべきだと望むのか、それとも異端者であると理解されるべきだと望むのか。彼は放免されるべきであるか、それとも断罪されるべきであるか。もしもあなたのあの「別の人」、すなわち、先の段落で次のように言った人――この可視的な世界の以前に我々の諸々の魂は、み使いたち間に住居を持っていたのであり、その他の天の諸々の力は、上にあるエルサレムにおける天的な諸々の場所の中に住居を持っていた。そしてそれらは、この世の中への誕生における諸々の違いや、それらがいま服従しているその他の諸々の境遇の違いを引き起こす経綸を受けていると言った人――がカトリックであるなら、それらの教えは、カトリックの諸々の教えであると見なされねばならない。そして我々は、カトリックであるものを断罪することは不敬虔であると知っている。しかしもしもあなたが、この「別の人」を異端者と呼ぶなら、諸々の魂が身体の中に生れる以前に実在しキリストに希望を置いていたことを認めない「別の人」にも、あなたは異端者の烙印を押さなければならない。私の師よ、あなたはどの道を辿ってこの板挟みから脱け出すことができるのか。あなたは、どちらの方向に突進するのか。どんな場所にあなたは逃げるのか。どの道に進もうとも、あなたはすぐに行き詰まるだろう。あなたが退却できる通りはまったくない。一息つける余地さえあなたにはない。あなたがアリストテレスに関するアレクサンドロスの諸々の注解とポルフュリオスの序文から得た利益とは、これに尽きるのか。あなたが教育を受けたと我々に語ったあの偉大な――ギリシア人やラテン人の、さらにはユダヤ人の――すべての哲学者たちの勉学の成果がこれなのか。彼らは結局、あなたをこれらの脱出不可能な窮地に連れていき、あなたは哀れにもそこに閉じ込められて、あのアルプス山脈も避難所をあなたに提供できないほどなのか。

 

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