31 しかし、これは終わりにしておこう。なぜなら引き続く個所がもっと重要だからである。(悪口の)容疑という非常に重大な重荷から神が私を解放してくださったことを、私は神に感謝する。彼が修辞学の技法に従って「別の人」について語ったとき、彼が自分自身のことを意図していたことを私がほのめかしたとき、おそらくある人たちは私が論争的中傷的に振る舞っていたと思うだろう。しかし、彼は、自分の聴き手の人たちの心の中にこれ以上の疑いがまったく残らないようにするために、彼は、みずからそのとおりであると明言したのである。自分の諸々の発言についていかなる曖昧さも自分の生徒たちの心の中に残ることを願わない真実に善き教師として、彼は、非常に善良にも、自分が以前に話題にしたあの「別の人」が誰であったをとても明瞭に示した。実に彼は言う:『しかし、実のところ、「前もって」という接頭辞の付加は、我々が前の個所で必要であると主張した諸々の考えに従って、それを説明するように我々を導く』。あろうことか、彼は、前の個所でそのように主張したのは、誰であるかまったく分からない――と、あなたなら考えただろう――或る別の人でなく、『彼は、キリストにおいて、天の諸々の場所の中で、あらゆる霊的な祝福でもって我々を祝福した[1]』という言葉を説明していたときの我々であると言っているのである。それは、そこで言われていることは他の誰かによって言われたことであると考えるあまり聡明でない人たちに対処するためであり、オリゲネスについての彼の考えがどのようなものであるかを分かってもらう目的でそれらの書物を読むように彼が願った人たちの心の中に何らかの誤解が残らないようにするためである。彼は、いまや、その(オリゲネスについての)意見が彼自身のものであることを認め、もはや「別の人」について語ることなく、我々が以前に引用した事柄を語る。すなわち、神は以前、キリストにおいて、天の諸々の場所の中で、一切の霊的な祝福でもって我々を祝福し、世の設置の前に我々を選んだ。こうして我々は、以前のあの時代に――すなわち我々が、天において、選ばれ、予定され、祝福されたあの時代に――キリストに信頼していたと言われるのである。したがって彼はみずから、彼自身の証言によって、私が――「別の人」は彼以外の「別の人」ではないというとき――悪口を言っているという容疑から私を放免してくれたように私には見える。



[1] Ep.1,3.

 

次へ