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このページは、想い出のページなので、時間的概念がありません。時代を行ったり来たりします。
<東京ドーム>
俺が東京に出た時、後楽園球場はまだ野ざらしでした。
水道橋の近くにある学校に通いながら、
毎日ドームが建造されてゆくのを見ていた。
いよいよ空気を流しこんで天井が膨らんだ。
何時間もかけて、一日かけてゆっくり膨らんでいく。
それまでは、外にいてもスティービー・ワンダーとか、
マドンナ、矢沢英吉とかのライブが聴けたのに、
天井に包まれてしまい、聞こえなくなってしまった。
もっとも、後楽園球場がドームに変わったわけではない。
建設中だって野球の試合はしてたのだから。
若い人は、以前の球場に屋根を被せた・・・。
というイメージを持っているかもしれないなー。
東京ドームシティと呼ばれる建物の場所が野ざらし野球場だった。
今のドームは、後楽園競輪場。自転車が競走してた場所。・・・らしい
俺がいたころは、ジャンボプールとかゴルフ施設だったと思う。
いずれにしても、外タレがライブしたり、巨人戦が荒れたりしたときは、
マヂメに通学している俺は迷惑したものだ。
ウォークマン 録音機能買ったのに 球場外で唖然茫然
ユニホーム はたまたキッスのコスチューム まみれて潰され 茗荷谷
いよいよ東京都ともさよなら。
4年間ありがとう。1989年の初春。
友達が用意してくれた大きいワンボックスに荷物を詰め込む。
人通りの多い駅前の路地。しかも一方通行。
人通りが途切れるのを待って真夜中に荷出し。
まるで夜逃げです。
が、たちまちタクシーとかが入ってきてクラクションを鳴らす。
仕方なしに車を出して、大周りしてまた駅前路地に帰ってくる。
大急ぎで荷物を再び積み込む。
放り込む。
細かい物はアルバイト先からかっぱらってきたダンボール箱に入れて、
あらかじめ実家に送ってしまった。
ワンボックス積んだ大きいものは単車と、冷蔵庫、コタツ、ステレオ、食器棚だけ・・・。
これだけあれば、これからも生きていける。
拾ってきたけど映らなかったテレビは、塀を越えて都バスの大塚車庫に捨てちゃう。
積み荷の隙間に布団とか枕を押し込んで、
穴のあいたヤカンとか、マグカップ、ヘルメット、ギターを数本押し込む。
電話線のコードを抜く。
最後に、4年間照らし続けてくれた裸電球を「パチン」と切る。
階段を降りる。
もう一度見上げる銀嶺荘。
灯りの消えた213号室。
また、次の住人が自分史を刻んでいくのだろう。
永劫に・・・。
出発は夜だから、寝てる管理人のオバサンの部屋に鍵を返して、
ワンボックスは春日通りを走り始める。
間もなく右の窓に大黒湯が見えた。
行先は、栃木県のインターン先。
またオンボロ借家。
そこで2年ほど修行するのです。
護国寺で首都高に乗ったワンボックスは、一路北へ北へと走る。
サイドミラーに映るサンシャインビルが遠ざかる。
東京が遠ざかる・・・。
田舎を離れて4年間、勝手気ままをさせてもらいました。
あと2年、待っててくれ母ちゃん。
一人前になって帰るでな・・・。
街の灯りが遠ざかる。もう、ここには住民票もない。
ロング・ロング・グッバイ東京・・・。茗荷谷・・・。銀嶺荘・・・。
東京都 花の都大東京 遠いあの日々 忘れな草
また独りぼっちの旅立ち。
ってか、その栃木県でマチコちゃんに出逢ったのだが^^
その名も 第一銀嶺荘
Googleの地図でストリートモードという機能で見た現在の第一銀嶺荘。
・・・まだ残っていた・・・。なんか、緑の網をかぶされて改装中みたい・・・。
まだまだ生き残るつもりらしい。
その地図の機能で、この建物に最接近して、この細い路地を指定して、
ストリートモードにすると、今、自分がそこに立ってるような画像になる。
もちろん、大都市圏だけだけど・・・。
どういう仕組みになってるのか分からないけど、この路地に立って、
360度回転できる。
んで、昔の写真に一番近いアングルまで歩いて行って、角度を決めて撮影。
もっと接近して、銀嶺荘に正面向かう・・・。
下のテナントだった どさんこラーメン が不動産屋になっていた。
あの白い長靴のオヤヂは、今どうしているんだろう。
管理人のオバチャンはまだ生きてるのだろうか?
背中を向けると、反対側の駅ビルは華やかになっていた。
当時はコンクリート打ちっぱなしだったのに。
銀嶺荘 遠く離れて500キロ 仕事場から存在確認
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