イスラマバードの風 NO.9   2007年10月18日発行

 アッサラーム・アレイコム!。石原武司です。
 (あなたの上に平安あれ!=こんにちは)
 イスラマバードの夏は5月に始まり、9月に入っても寝苦しい毎日が続いていました。一体いつになったら夏が終わるのかと思っていましたが、「暑さ寒さも彼岸まで」というのはパキスタンでも真実でした。彼岸が過ぎると、急に涼しくなりました。10月に入ると爽やかな秋晴れの毎日が続き、朝夕は肌寒く感じる程です。それとともに、八百屋の店先からマンゴ、スイカ、メロンといった夏のくだものが姿を消し、ぶどう、ナシ、ザクロ、柿といった秋のくだものが並び始めました。
 長くて過酷なパキスタンの夏に閉口していた私たちも、やっと元気を取り戻した感じです。

◆ ラマザン(イスラム歴9月、断食月のこと)について
 今年のラマザンは9月14日から10月12日まででした。イスラム圏では太陽暦ではなく太陰暦が使われていて、ラマザンの始まりもイスラム教指導者による月(新月)の観測によって決まります。今年のラマザンは9月13日からという人と14日からという人がいましたが、最終的に14日からということになりました。
 ラマザン月の断食はイスラム五行(イスラム教徒の5つの義務)のひとつです。他の4つは、
@ 信仰告白:自分はイスラム教徒であるとアラーに宣言すること
  具体的には、毎日の祈りの中で、「アラーの他に神はなし、
  ムハンマドはアラーの使いです」と唱えます。
A 1日5回の祈り:1日5回、メッカの方角に向かって祈ること
  お祈りの時間になると、町々のモスクのスピーカーから、お
  祈りを呼びかける大音響の「アザーン」が流れてくる。お祈り
  は、やり方が決まっており、ちょっとした柔軟体操のようです。
B 喜捨(ザカート):財産に応じて貧しい人にお金や物を施すこと
C メッカへの巡礼:聖地メッカ(サウジアラビア)に巡礼すること
  特に12月8〜10日、世界中のイスラム教徒が集まってくる。

 さて、ラマザン月の断食についてですが、イスラム教徒はこのひと月の間、日の出の1時間前から日の入りの5分後まで、一切の飲食を断ちます(厳格な信者は、唾さえ飲み込まない)。
 断食の意義は、次のようなことです。
・ 食欲という本能を抑え、精神が肉体に勝ることを自覚させる
・ 食べ物への感謝の気持ちを持たせる
・ 食事さえ満足に出来ない貧しい人々の気持ちを知る
 パキスタンは97%がイスラム教徒なので、国民の大部分がこの断食に参加します。ただし、子供や病人、妊婦、旅行中の人、戦場の兵士は参加しなくても許されます。私たちはラマザン中にフンザ旅行をしましたが、その時の添乗員のシャンは昼間も私たちといっしょに食事をしていました。彼は、「自分はイスラムの教えに何度も違反しているので、死んでからすぐに天国に行くことは出来ない、地獄で何日か罰を受けた後にしか天国には行けない」と言っていました。
 ラマザン中、人々は朝食を朝4時頃に摂り、そのあとお祈り。夕食は日没後7時頃に摂ります。だから、約15時間飲まず食わずです。私は最近出てきたお腹を引っ込めるために、冗談で「私もやってみようか」と言うと、同期のSVで、日本国籍のパキスタン人であるAさんが、「やれるもんならやってみなさい」と少し気色ばんで言いました。長期間の断食は毎年やっている人でも辛いようで、生半可な気持ちではできないと言いたかったのだと思います。
 私の専属運転手のラフィークはクリスチャンなので断食はしませんが、「この国民的行事に敬意を表して、この期間、人前では食事はしない」と言っていました。私もそれに習って、職場では飲食をしないことにしました。ということは職場では昼食を摂らないということですが、幸いなことに、ラマザン中の公務員の勤務時間は朝8時〜午後1時までなので、それほど苦しくはありませんでした。
 ラマザン中、夕方7時頃マーケットに行くと、数人の店主が寄り集まって食事をしている光景が見られます。1日の断食をやり終えて、「今日も1日よう頑張ったな」とお互いをたたえ合っているような感じです。また、ラマザン明けの4日間はイードの休日で、国民全員でラマザンの終了を祝います。イードはキリスト教のクリスマス、日本のお正月のような行事で、おいしいお菓子を食べたり、プレゼントを交換したりします。そのため、ラマダンの後半にはいるとイード向けのバーゲンセールが始まり、夜のマーケットはとてもにぎやかです。
 ラマザンを経験して、私はイスラム教が少し分かったような気がしました。1ヶ月の断食は、誰にとっても苦しい。イスラム教徒は、老若男女、貧富の差にかかわらず、同じ苦しみを体験する。このことはきっと国民的連帯を生み出すことでしょう。ラマザンを終えたイスラム教徒は同じ喜びを共有する。このことはきっと国民的連帯を強めることでしょう。私は、ラマザン月の断食はイスラム教の根幹をなすものだと思っています。
 
◆ フンザ旅行記 そのA
 私は宮本輝の小説「草原の椅子」で、初めてフンザという地名を知りました。「草原の椅子」は朝日(?)新聞に連載されていて、主人公は当時の私と同じく中年なのに、妙に青春の香りのする小説で、毎日楽しみに読んでいたことを覚えています。ただ、小説ではフンザは砂漠につながっていて、幼児虐待を受けていた子供が砂漠の中を歩くシーンがありましたが、これはきっと作者の創作で、フンザには砂漠はありません。
 フンザはフンザ川がつくり出した深い渓谷の急斜面にへばりついた村です。私たちが訪れたとき、フンザはリンゴとジャガイモの収穫時で、道路脇にジャガイモを詰めた袋が山積みになっていました。こんなに条件の悪い土地でよくもこれだけ採れるものだと思いますが、それはフンザの人たちが働き者であることと、背後にあるフンザピークの氷河のお陰です。氷河は溶けて、生活用水と同時に潅漑用水となり、ジャガイモやリンゴや杏を育てます。牛や羊の食べる牧草も氷河の水が育てます。フンザが桃源郷といわれるのは、カラコルム山脈の壮大な眺めとともに、フンザが豊かな農村だからだと思いますが、その豊かさの源は氷河、もっと遡るとカラコルムの山々にあると言えるでしょう。
 氷河の溶けた水というと冷たく透明な水を想像しますが、冷たくはあるが決して透明ではありません。山岳氷河は万年雪が圧縮されて氷になったもので、多量の砂を含んでいます。したがって、溶けた水は濃い灰色です。溶けた氷河の水を集めたフンザ川も灰色の濁流で、魚は全く住んでいません。
 フンザ2日目の午後は、フンザ川をはさんでフンザと反対側にあるナガルの村を訪ねる予定になっていました。ところが、妻は午前中のハセガワ・メモリアル・スクール訪問とガニーシュ村見学で疲れてしまってダウン、私ひとりが添乗員のシャンに連れられて行くことになりました。
 私はフンザ川を渡ればすぐナガルの村だと思っていましたが、ジープはフンザ川の支流であるナガル渓谷に沿ってどんどん入っていきます。途中、大理石の切り出し場あたりから川を離れ、山を切り開いてつくった道を登ってゆきます。片方は絶壁、片方は千尋の谷という細い凸凹道をジープはかなりのスピードで登ってゆきます。私は生きた心地がせず、ジープの手すりを必死で握り、ひたすらアラーの加護を祈っていました。延々2時間、途中いくつかの集落を通過し、やっと目的の村に到着しました。
 村ではじゃがいもの取り入れが家族総出で行われていました。こんな山奥にも人が住んでいて、力を合わせて生活している姿に私は感動しました。フンザはだんだん観光化されて、いつか桃源郷ではなくなるかもしれませんが、この村が観光化されることはまずないでしょう。ひょっとしたらこの村こそ最後の桃源郷かもしれません。
 実は添乗員が私をこの村に連れてきたのは、ホッパー氷河を見せるためでした。村の一番奥に小高い丘があり、そこに登ると眼下に氷河が見えるのです。この氷河も山岳氷河なので、氷のように見えません。灰色の土砂のように見えますが、まぎれもなく氷河です。片道2時間、往復4時間、氷河を見たのはせいぜい30分程でしたが、やはり来てよかったと思いました。
 フンザ3日目の朝は5時半に起きて、ホテルの裏山に日の出を見に行きました。妻はこれも大事をとってパス、添乗員と二人で見に行きました。日の出と言っても、太陽そのものを見るわけではありません。太陽が山の頂上を照らし出すのを見るのです。ゴールデン・ピーク、ディラン、ラカポシと、太陽は東の山から順番に照らし出します。私は夢中でデジカメのシャッターを押しまくりました。後で数えてみると、50枚以上も撮っていました。
 今回のフンザ旅行で私はすっかり山が好きになりました。でも、ラカポシ、ディラン、ウルタル、日本の山もろくろく知らない私が好きになるのは、ちょっと身の程知らずかもしれません。
 

ファイサルモスク


近所(F7/1)のモスク


隣町(F7/4)のモスク


ジナーマーケット内のモスク


アッパラ(G6/1)にあるモスク


ジナーマーケットにある祈祷所


イード休みのジナーマーケット


川の手前がフンザ、向こうがナガル


収穫したジャガイモ


氷河の水


ナガルの村をバックに


ホッパー氷河


朝日に映えるラカポシ