イスラマバードの風 NO.8   2007年9月27日発行

 みなさん、こんにちは。石原郁子です。
 今日は9月24日やっと少し涼しくなりました。日中でも室温30度から31度というところです。こちらの普段着、シャルワールカミーズをちょっと着てみようかな?という気持ちになる温度です。

 ☆ 友あり,遠方より来たる。また楽しからずや。
 9月9日(日)早朝、遠来の客二名が、イスラマバードの国際空港に降り立ちました。私はゲストハウスの車に乗って空港に向かっていました。空港付近の警戒は厳しくなかなか空港の中に入れません。やっと入れたときにはもう乗客は外に出ていました。折からイギリスに亡命していた前首相(現アフガニスタン在住)ナワーズ・シャリーフとその弟(前パンジャーブ州知事)が、大統領選挙に出馬のため近日パキスタンに帰国するというニュースが流れていました。その支持者のデモや自爆テロを警戒して、政府は最高警備態勢を敷いていたさなかのことです。
 彼女たちはインドに1週間滞在した後、デリーからラホールを経てイスラマバードに来てくれました。インドも暑いので、こちらの暑さもそう気に掛ける様子もなく、二人ともとても元気でした。長野県に住まいする彼女Oさんは、私の若い頃からの友人で、縁あってアフリカのザンビアにも南太平洋のバヌアツにも来てくれました。もう一人は彼女の知り合いで、埼玉県に住むMさんです。こんな厳戒態勢下の国へホントによく来てくれました。7月初旬のレッド・モスク(現地名、ラール・マスジット)の銃撃戦が日本で連日大きく報道され、とても危険な国だと思われたにちがいありません。それでもなんとか9月までには静まっているだろういう周囲の思惑は、見事に外れてしまいました。
 ともあれ彼女たちはとても元気なので、さっそく首都イスラマバードの観光に出かけることにしました。石原の専用運転手(?)ラフィークの車(スズキの軽四タクシー。冷房なし)に我々夫婦も同乗しました。サンドイッチやジュースを買い求め、ピクニックきぶんで出かけました。
 緑が多く碁盤目に整備された高級住宅地イスラマバードを彼女たちはとても美しいといってくれました。予想していたのとかなり違っていたようです。ダマネコー展望台で市内を見下ろし、みごとに整備された公園内でサンドイッチの昼食をとりました。その後白亜のシャー・ファイサル・モスク、レッド・モスク(今は白く塗られています)、大統領府、国会議事堂、最高裁判所(丹下健造さんの設計。入り口には平等な裁判を行うという意味を持つ秤が飾られています)を、車でゆっくり通過しながらラフィークの名ガイドを受けました。そして最後はペシャワール・モール(日、火、金営業の大型オープンマーケット)での買い物です。彼女たちはマンゴーが大好きです。もう季節が間に合わないかと心配しましたが、おおきなマンゴーが1キロ80ルピで売っていました。大きいのを6個買い350ルピ(700円)支払いました。ここではキュウリやトマト、子いもなどの野菜類も安く、それらは天秤ばかりを使って測っています。こちらではよく見る光景ですが彼女たちにはとても珍しいのでしょう!少女のようにはしゃいでいました。
 パキスタンでの衣装に欠かせないドゥバタ(ショール)をプレゼントすることにしました。どれにしようかと選んでいる二人をみるのもまた、たのしかったデス。最後にさとうきびのジュースを飲みました。目の前でさとうきびをレモンと共に機械に入れ絞ってくれます。フレッシュでとても美味しかったと喜んでくれました。
 次の日(10日)はシャリーフ前首相一行の飛行機がパキスタンについたのでJICAから禁足令が出ました。その日は外出を断念し、一日保養日にしました。前首相一行は現大統領パルヴェーズ・ムシャッラフが強権を発動したため、パキスタンに降り立ったのもつかの間、すぐに国外退去にさせられました。
 ともあれ彼女たちはウチの家で簡単な夕食をとり、Mさんと私はジンナーマーケットへおみやげの買い物に出かけました。気に入ったのがあったようで、彼女はあれもこれもと気前よく買っていました。
 さて次の11日、このところ気持ちのよい晴天が続いています。彼女たちと我々夫婦はレンタカーに乗り一路タキシラへ。イスラマバードから約32キロ西へ行くとタキシラにつきます。ここはガンダーラの東の都でした。往時その首都であったペシャワールとその近郊を探索するコースは1500年前玄奘三蔵のたどった道です。JICAは今ペシャワールに行くことを禁じているので、タキシラのみの見学です。私は冷房車に乗るのは久しぶりです。気分良く出発しました。途中、派手な装飾のパキトラ(パキスタンのトラック)に何台も出会いました。

 約1月前私はゲストハウスのマネジャーにレンタカーを頼みました。その時こうお願いしていました。「グッドルッキングの運転手をお願いね!」と。マネジャーは「OK!Ok!ワシと同じようないい男を頼んでやるよ!」といいました。その時点で私はあきらめざるをえませんでした。そしてやって来たのはとても無口な、むくつけきおのこでした。
 タキシラミュージアムは第1月曜が休みです。入場料はパキ人が20ルピ{40円)、外国人は400ルピ(800円)です。
 ミュージアムを見学してから都市遺跡のシルカップやジョーリアン(紀元2世紀に栄えた仏教遺跡)を訪れました。その台座には仏陀や菩薩(悟りをひらく前、道を探求している途上にある者)、像、獅子、天空を支える巨神アトラスなどの化粧漆喰の彫刻がありました。
 彼女たちは12日にデリーに帰り14日には無事日本に帰国しました。
 なお、Oさんはインド在住の日本人僧侶(74歳)の活動を支援、サールナート法輪精舎友の会の運営を手伝っています。そのURLは次の通りです。  http://www.geocities.jp/i_loveindiajp/

 ☆ フンザ旅行記 その@
【旅立ち】
 9月13日早朝5時、旅行社のむかえの車に乗って一路イスラマバード空港へ。荷物を預けボデイチェックを受けた後もまだフライトOkがでません。イスラマバードからフンザ(飛行場があるのはギルギット)へは毎日2便ありますがフライトキャンセルが最も多いルートなのです。飛行機が飛ぶ確率は実に1/5.北方地域へのフライトは、有視界飛行なのでインダス川沿いに渓谷の間を縫っての飛行となるため天候によって運行状況が左右されるからです。昨日もその前も飛びませんでした。また、ギルギットの手前まで飛びながらイスラマバードに引き返したということも多々あり、本当にギルギットに着くまで安心できません。また、帰るときもギルギットには飛行機がないので、イスラマからの飛行機を待たねばなりません。飛んでこないと帰れないのです。ならば確実な陸路で行きたいところですが、このところの不穏な動き(北部辺境州でおこった自爆テロや、カラコルムハイウェイー(KKH)でのおいはぎの出没)に、JICAは「往復空路のみフンザ行きを許す」というお達しを出しました。
 私たちは4泊5日の予定ですが、飛行機次第でいつ始まるか、いつ終わるかわからないという何とも不可思議な旅に出発することになりました。
 待つこと1時間。6時45分AMついにフライトOKが出ました。ラッキーです。乗客の顔が一瞬ほころび皆ぞろぞろと歩いてPk−605に乗り込みました。約50人乗りのプロペラ機です。飛行機の撮影は許されません。満員の乗客を乗せて約1時間10分経過、飛行機は7〜8000m級の山々が連なる一帯を通過していきます。右手に8126mのナンガパルバットが見えてきました。雲の上はるか大きな頭を出している7〜8000m級の山々がいくつも連なっています。こんなに高くてもそのほとんどに名前がありません。日本の名峰富士山は3776m、姿形の美しさでは負けてはいないけど規模が全く違いすぎます。私はマウンテンフライトなみの眺望を楽しみながら、右や左の窓をキョロキョロと見ていました。窓際のパキスタン人に写真を撮ってもらってる間にギルギットに無事着陸しました。

【カリマバードにて】
 空港からジープでKKHを約3時間北上、フンザの中心地カリマバードに入りました。峡谷の斜面にへばりつくように家々が並んでいます。私たちは標高2500mにたつホテルフンザエンバシーに落ち着きました。まだ昼前です。ホテルのデッキの前は絵に描いたような景色がパノラマ状にひろがっています。右からラカポシ(7788m)、ディラン(7257m)、スパンティーク(ゴールデンピーク、7027m)フンザピーク、ウルタルT、U峰(7388m)と名だたる山々に取り囲まれているではありませんか!
 山々は私の近くにありながら、まるで別世界のようです。昼間の強い太陽に輝く白銀の峰々とその高さ故に陰となる山々は黒々として私たちを睥睨(へいげい)するかのようです。デッキの下にはなだらかな丘陵が続き、所々緑の牧草地になっています。牛、羊、やぎなどがのんびりと草をはんでいます。どこまでもまっすぐに伸びる緑のポプラ並木のむこうにフンザ川が流れています。ここでは時間が止まってしまったようです。まさに別天地にまぎれこみました。雲ひとつない真っ青の空に雪をいただいたラカポシ(雪のある山の意)の勇姿に私はすっかり魅入ってしまいました。

【登山家・長谷川恒男さん】
 次の日、長谷川さんの「メモリアルパブリックスクール」の見学に出かけました。長谷川さんは1991年当時未踏峰だったウルタルU峰に挑戦し雪崩により遭難されました。彼の意志を受け妻の昌美さんや友人たちの協力で男女共学、英語教育による私立の幼小中校ができました。私たちは8時の全校朝礼を見学させてもらいました。モスリムの学校はお祈りから始まります。5〜6人の少女たちによる歌のようなコーランの朗読と全員によるパキスタン国家の斉唱と続きます。朝礼のあと幼稚園児(3歳〜5歳)のいる教室を見学させてもらいました。先生は前に3人後ろにふたり。教室いっぱいに150人ほどの幼児がいました。 先生たちは歌うように語りかけるように英語、ウルドゥ語、プリシャスキー語(フンザの民族語)で質問します。子供たちは元気いっぱいそれぞれの言葉で答えていました。でも全然わかってない子もいます。私たちの方ばかり見ている子もいます。こづきあいをしている子、あらぬ方を見ている子などいろいろいましたが幼い子供のかわいさあどけなさは世界共通ですね。
 こんな小さいときから英語が話せるように、簡単な会話や質問を矢継ぎ早にしています。フンザでは英語ができないと仕事がないのが現実です。ここは他地域と異なりイスマイール派の村です。宗教指導者(イマーム)はアガ・ハーンで、アガ・ハーン基金により学校や病院などを建設したり社会福祉に貢献しています。この宗派は特に女性の教育の重要性を説き社会への参加を積極的にすすめています・そのためフンザでは今まで姿を見ることも少なかった女性がバザールで買い物をしていたり英語をしゃべったりしています。断食もありません。
 私たちはもう出発しなければなりません。最後に子供たちはサンキュウダンスを踊ってくれました。3名のこどもが手を挙げて得意のステップをふんでくれたのです。 他の子らは手をたたいてリズムをとります。
 「ありがとう!シュウクリア〜」子供たちのひとなつっこい、はじけるような笑顔に手を振って次の目的地ガニーシュ村に向かいました。

【いつかある日】
 ジープに揺られながら、石原が口ずさみました。
♪いつかある日 山で死んだら 古い山の友よ 伝えてくれ
  母親には 安らかだったと 男らしく死んだと 父親には
  伝えてくれ いとしい妻に 俺が帰らなくても 強く生きよと♪

 二十歳の頃、私はこの歌を聴いて大粒の涙をこぼしました。あまりにも悲しすぎると思ったからです。30歳の頃、この歌を聴いて「男は身勝手だ!」と思いました。憎げな妻でなく、いとしい妻がいるなら「山など行くな!」と。その頃の私は幼い二児を抱えていたのです。60歳を越えた今この歌を聴いて「ウーン」と思いました。あの神々しいばかりの、ラカポシ、ディラン、ゴールデンピーク、ウルタルを見たせいです。神か魔に魅入られた男の短かい一生を「運命」と思えるようになったのです。
                         それではまた 

ダマネコー展望台で友人とラフィーク


ピクニック気分


シャー・ファイサル・モスク


ファイサルモスク内


タキシラミュジアム内


瞑想する仏陀像



マンゴーを切るOさん


居間でくつろぐOさん


黒装束のMさん


ナンガバルパット


フンザの女性


ラカポシをバックに


ホテルフンザエンバシー


フンザの里


エキゾチックなフンザの女の子


長谷川学校中高生の朝礼


幼児でいっぱい


サンキュウダンスを踊る子


長谷川学校より見たウルタルU峰