イスラマバードの風 NO.28      2009年5月4日発行

皆さん、こんにちは。お久しぶりです。日本から石原郁子です。

 私たちは 4/3の夜11時に無事帰宅しました。1年ぶりに見る懐かしい(?)我が家です。次の日から私の大掃除が始まりました。
 小さな庭は「やえむぐら 茂れる宿の・・・」様で、足の踏み場もないほど雑草が生い茂り、木々は伸び放題・・・。
 家の中はかろうじて それなりに掃除ができていました。家守役の次男(独身)は、1年間の ちらかしを急遽1〜2日でなんとかしょうとしたようで、如実にその形跡を残していました。

 まずは庭掃除・・・・・。
 昨年5〜6株ほどしかなかった鈴蘭が大繁殖していました。小さな白色6弁の壺状の小花をつけるユリ科の多年草です。君影草という何やら心ときめく和名を持つこの愛らしい清楚な花は、実はとても どう猛系(?)で、他の花を押しのけ、枯らして自分たちの生殖地を広げていました。「一見 愛らしく、実はしたたか!」日本女性の典型のような(?)花なんだと感心しきり・・・。この果実は有毒というのもうなずけます。これは強心剤や利尿剤としても使われているようですが・・・。

 今頃(5/4)イスラマバードでは、青紫のジャカランダの花が咲いていることでしょう。これは のうぜんかずら科の一属で熱帯アメリカ原産と言われる高さ10M余りの落葉高木です。この花が散って辺り一面紫のじゅうたんを敷き詰めたようになる季節はまた、デイゴの強い橙色の大きな花が咲くときでもあります。
 美しいイスラマバードの街。高木の緑一面の中に映える真っ白のモスク。貧しい人も富める人もみんな着ているシャルワール・カミーズ。年中長袖長ズボンスタイルで、どんな体型の人も着られるダラダラとした服装。それが一日5回のモスリムの礼拝に(立ったり、座ったり、コーランの一節を唱えたりの)一連の作法によく合っていて、私たちはオープンの礼拝所(ジナーマーケット内)での彼らの祈りを 飽きもせず見つめていました。

 市井の人たちはホントに親切で、マーケット内を歩く私の足が、ぬかるみに入ってしまった時など、あちこちからバケツに入った水を持ってきてくれました。全然知らない人たちなのに・・・。
 そこはジナーマーケットの警察の近くで、最近自爆テロがあり、数人が死傷したことを知りました。
 罪の無い人たちがある日突然死んでいく・・・。とばっちりを受けて・・・。私の大事な第四の故郷パキスタンに、イスラマバードに、早く平安が訪れますよう心から祈っています。

 長い間「イスラマバードの風」をお読みいただき、ありがとうございました。私は一年間、孫守のため週4日息子夫婦の家(自宅から車で15分ほど)へ、通います。4人の孫たちは、6年、3年、1年、2才。それぞれ違った個性を持つ強者ぞろいです。またいつか、”孫通信”なるものを発行するかもしれません。
   その時はどうぞよろしく。  さようなら。  石原郁子

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 アッサラーム・アレイコム!石原武司です。
 パキスタンの生活は予想以上に厳しかった。まず、夏(5月〜9月)の暑さが尋常ではなかった。特に、6月は最も暑く、日中は40度を越え、夜でも35度を下らない日が何日も続く。それに加えて停電、毎日6回、延6時間の停電がある。夜、停電になると、クーラーはおろか扇風機も使えないので、寝苦しい日々を過ごさざるを得なかった。
 また、アルコールが飲めない、豚肉が食えないのも長期になるとつらかった。お好み焼きの豚玉で冷たいビールを飲む夢をこの2年間に何度も見た。だから、帰国後一番に食べたのは、今回は寿司ではなく、お好み焼きだった。

 一番耐え難かったのは、娯楽の全くない生活だった。車がないので、水泳・テニス・ゴルフといったスポーツは出来なかった。スポーツはもっぱらジョギング、娯楽はNHKワールドを見るのと、日本人会で借りた本を読む、サンデーマーケットに買い物に行くこと位だった。
 私は仕事が半分趣味なので、日曜日にすることがないと、1日中ビデオ編集をしていた。日曜日に仕事をしている私に、妻は最初よく文句を言っていたが、水彩画を始めてからは、文句を言わなくなった。
 
 パキスタン人は、こんな禁欲的な生活によく耐えられるなぁと思うが、私の知っているパキスタン人は、毎日3度の食事と5回のお祈りさえ保証されれば、娯楽は午前と午後のティータイムに、家族・友人とおしゃべりすることで十分と考えているようだった。

 このようにパキスタンでの生活は、ザンビアやバヌアツより厳しいものであったが、自分としてはパキスタンが一番思い出深い国になったような気がする。それは、ひとつには今回の仕事であるビデオ制作はパキスタン人との共同作業で、仕事を通して同僚のパキスタン人との間にとてもいい人間関係が作れたからだと思う。イムラン、ムバシール、ショエバ、サバ、サイマとは、これからも連絡を取り合おうといって別れた。
 もうひとつは、ビデオというあとに残るものを作れたことだ。残念ながら、ボランティアが2年がかりでした仕事は、そのあと2・3年もすれば跡形もなく霧散してしまうが、今回制作した58本のビデオは少なくとも10年くらいは使ってもらえそうだし、NISTEのホームページ(
http://www.nistepkscience.com/)にもアップしたので、英語圏に派遣されたJICA青年協力隊の理数科教師隊員にも使ってもらえそうだ。また、このHPにはアクセスカウンターを取り付けたので、いったい何人の人がこのHPを見てくれたを知ることが出来る。これからの私の密かな楽しみにしたいと思っている。

 この通信、これが最後の号と思っていたのですが、どうも続きを書くことになりそうです。実は小生、この6月からスタートする”パキスタン初等理科教育改善プロジェクト”(生徒中心、探求過程重視の理科教育の推進)の一員として、再びパキスタンに行くことになりました。この年で仕事があるだけでも有り難いことなのに、一国の理科教育の改善という大きな仕事に関与できることは、とても幸せなことです。それと同時に、責任の重大さに身が引き締まる思いです。

 今度はパキスタンに住居を構えず、3年間、年に3回程度(各2〜3ヶ月)単身出張で行くことになりそうです。まだ、書けないでいることもたくさんありますし、最新のパキスタン情報をお知らせできればと思っています。
 次号は9月にと思っています。ではまた。

日本人会コーラス部発表会(3/8)


コーラス部集合写真(打ち上げ会)


Mis.Tahira・ Mis.Shoaiba・Mrs.Ishihara(3/22)




おいしかったミックス・ベジタブル(35Rs)


コムサット大学食堂で最後のランチ


NISTEの女性リサーチ・オフィサー
(送別会の日)


NISTE所長から記念の楯贈呈


じゅうたんもいただいた


妻は花束をいただいた


イスラマ市内を行くロバ商隊