イスラマバードの風 NO.1   2007年4月16日発行

  アッサラーム! イスラマバードから石原武司&郁子です。
   (”アッサラーム”とはウルドゥー語で”こんにちは”という意味です)
お便り遅れてごめんなさい。私たちの滞在するゲストハウスには無線LANが敷いてあって、メール・インターネットは簡単にできるのですが、なぜかHPの更新はいくら試みてもダメでした。実は今日(こちらに来てちょうど2週間目)、有線LANも使えることを発見し、遅ればせながら第1報をお届けする次第です。
  私たちは、2007年3月30日午後3時に成田を発ち、現地時間30日午後11時(パキスタン時間は日本より4時間遅い)、無事イスラマバード空港に到着しました。経由地の北京で1時間費やしたので、正味の飛行時間は11時間でした。イスラマバード空港は夜の11時だというのに熱気ムンムンで、口ひげをたくわえ、パキスタン民族服(シャルワーズ・カミーズ)にジンナー帽をつけた男たちでごった返していました。私たちはとうとうイスラム世界に足を踏み入れたのです。
 今回パキスタンに派遣されたSV(シニア・ボランティア)は5名。そのうち、私はイスラマバード勤務。パキスタン人(本当は日本国籍をもっているので日本人)のAさんと紅一点のMさんはイスラマバードの隣町、ラワルピンディ勤務、自動車部品製造指導のSさんはカラチ勤務、生産管理のYさんはラホール勤務です。Aさんのことをもう少し説明すると、彼はパキスタンの大学を終えたあと、留学生として来日。そのまま日本で就職・結婚(奥さんは日本人)、日本在住30年を越える方です。Aさんには大変お世話になりました。出発前はパキスタンについての詳しい情報をいただいたし、到着後の2日間の休養日にはイスラマバードの町を案内してもらいました。
 イスラマバードの町を歩いてみて気づくのは、緑が多く、道路が広く、町全体が整然としていることです。ただ、パキスタンも今景気がよくて、イスラマバードでは町のいたるところで工事が行われていて、埃っぽいのが難点です。でも、ちょっと住宅地域に入ると、家々の庭先には花が咲き乱れ、イスラマバードは今が一番美しい季節です。
 昔、パキスタンの首都はカラチ(現在の人口は1200万人)でしたが、カラチが余りにも無秩序に巨大化したため、旧都ラワルピンディの北側の地への移転が計画されました。建設は、ギリシャ人建築家のマスタープランのもとに1960年から始まり、現在も続いています。イスラマバードの現在の人口は約80万人です。イスラマバードの高級住宅街にはパキスタン人の金持ちと外国人が住んでいます。イスラマバードにも庶民の住む住宅街はありますが、パキスタン人の多くは隣接するラワルピンディに住んでおり、その人口は140万人といわれています。
 イスラマバードの町は、東端にある議会、大統領府を起点に、東西および南北に走る100m幅の道路によって碁盤の目のように作られています。ひとつの区画は1.5km×2kmで、各区画の名称はアルファベットと数字の組み合わせ(例えば、私の滞在するゲストハウスはF7、勤務先のNISTEはH8)でつけられており、区画の名称を知ればその位置がわかります。また、区画内の番地のつけ方も規則的なので、その家が所属する区画名と番地がわかれば、難なく家を見つけることが出来ます。また、どの区画でも中央部分にはマーケット(地図の茶色部分)が配置され、数十軒の店舗が軒を連ねています。区画によってマーケットにも特徴があり、わざわざ隣の区画のマーケットに買い物に行ったりします。
 パキスタン料理はインド料理とほぼ同じですが、中東・中央アジアの影響も受けています。カリー料理(チキンカリー、マトンカリー、豆カリー等)をチャパティーやナンですくうようにして食べるのがポピュラーなパキスタン料理です。まずまずおいしいけれど、油っこいので毎日となるとつらいところです。米のご飯にみそ汁が恋しいのですが、ゲストハウスでは自炊ができないので、イスラマバードにたくさんある中華料理店で、ワンタンスープなどあっさりした中華料理を注文して我慢しています。
 さて、到着後2日間の休養後、4/2(月)からJICAパキスタン事務所で現地研修が始まりました。JICAパキスタン事務所は、国会や大統領府や各国大使館のある区域にあり、COMSATSビルという建物の3・4階を借りています。JICAパキスタン事務所は、青年協力隊員20名、SV12名、専門家16名を抱える比較的大きな在外事務所です。ここで、「パキスタンにおけるJICA事業の概要」「パキスタン国別援助計画」「安全対策」「健康管理」「パキスタンの教育・産業の現状」「現地業務費執行上の注意」等、5日間みっちり講義がありました。講義の合間を縫って、銀行口座開設、自動車免許申請、援助庁・配属先への表敬訪問がありました。週末からは家探しも始めました。
 翌週の4/9(月)からはいよいよ配属先に入ることになりました。私の配属先は、National Institute of Science and Technical Education(国立科学技術教育学院)、略してNISTE(ニステ)と呼ばれています。日本では、NISTEは理数および工業の先生たちの研修機関と聞いていましたが、理工系教員養成大学を併設していることをこちらに来て知りました。ただし、私はTraining Unit(現職教員研修部)に所属し、学生ではなく理科の先生たちの研修の世話をするのが仕事です。これまでは前任者のいない職場でしたが、今回のポストは私が3代目です。したがって、今回はこれまでの仕事の流れを理解した上で仕事を始める必要があります。
 出勤初日は、所長のDr.ハビブがTraining Unitの責任者のMr.アッバスを紹介してくれ、Mr.アッバスが所内を案内、Training Unitのスタッフ27名(アカデミックスタッフ18、補助スタッフ9)に引き合わせてくれました。私のカウンターパートは2人いて、ひとりは物理が専門の男性スタッフ、Mr.イムラン(28歳)、もうひとりは化学が専門の女性スタッフ、Miss.サバ(?歳)です。Mr.イムランはやる気十分で、「Mr.イシハラからたくさんのことを学びたい」と言ってくれました。Miss.サバもなかなか活発な女性で、パキスタンでは女性の写真を撮るのは難しいのですが、「撮ってもいいか?」と聞くと、あっさり”Please"と言ってくれました。
 勤務時間は8時30分〜17時ですが、現職研修が入っていないときは3時頃にみんな帰ってしまいます。先週一週間は、午前中はMr.イムランと実験器具作りをし、午後は前任者の報告書を読んだり、教科書を読んだりしていました。最初にどんな実験器具を作ろうかと思案していましたが、前任者が紹介していない真空ポンプを作ることにしました。Mr.イムランに自転車の空気入れか大きな注射器を用意するように言っておくと、翌日両方とも用意していました。そこで、初日は自転車の空気入れを使った真空ポンプを、2日目に注射器を用いた真空ポンプを作りました。両方ともうまくいって、二人で”We succeeded.”と言って喜び合いました。Mr.イムランはうれしくて、Miss.サバにも真空ポンプを見せに行きました。
 3日目と4日目は、Miss.サバも入れて空き缶分光器とCD分光器を作りました。これも二人とも初めての実験器具で、うまく作れてとても喜んでいました。私の感触では、彼らはザンビアやバヌアツの教師より理解力が優れているように感じました。それもそのはず、午後に読んだ9年生の物理の教科書に、「1979年、ノーベル物理学賞を受賞したDr.アブダス・サラムはパキスタン人である」と書いてありました。
 こうして、私は二人のカウンターパートの信頼を勝ち取り、順調なスタートを切ることができました。
 ひとつ困っているのは通勤です。宿舎から職場のNISTEまで約6kmあるので、毎日タクシーを使って通勤しています。こちらではタクシーのことをスズキと言います。それは、大部分のタクシーがスズキ自動車パキスタン工場の作った軽四輪を使っているからです。たいていのスズキは10年もの、20年ものでボロボロ。それはかまわないのですが、運転が荒っぽく、追い越し、割り込み、何でもありで、手に汗をかき、祈る思いで毎日座席に座っています。それと運賃交渉。6kmだから50ルピー(約100円)でいくのですが、運転手は80ルピーとふっかけてきます。結局、60ルピーくらいで妥協するのですが、一日2回それをやるのは疲れます。でも、「こんなことも楽しめるようにならねば」と自分に言い聞かせています。
 まずは元気にやっているのでご安心下さい。ではまた。

パキスタン5人組(派遣前研修で)


JICAパキスタン事務所屋上で


イスラマバードの地図


イスラマバードの広い道路


国会議事堂と大統領府


F7にあるジナーマーケット


チキンカリーとナンの昼食(80円)


妻、JICA事務所入り口で


私、配属先のNISTE玄関で


カウンタパートのMr.イムラン


もう一人のカウンタパート Miss.サバ


パキスタンのタクシー、スズキ