内久保の伝説
続・野々村郷発祥の地内久保



内久保ルポ2
 プロローグ
 畑中徳三先生の論文は内久保に於ける木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の事跡を辿って伝説という形態で述べられたものです。
 この物語の背景は大化の改新以前(約1500年程前に)、日本書紀に書かれている、昔々の物語である。
 歌物語万葉集からの引用ですが、・・・
其の頃、衣通郎女(そとおりのいらしめ)という女性がいました。その身の肌の美しさが、着ている衣を通して、光リ輝くほどだったところからこう呼ばれました。
絶世の美女でしたから、様々な逸話が語られています。
 日本書紀では、彼女は允恭天皇のお后、忍坂大中姫の妹で、天皇に愛された故に、姉の嫉妬に心を痛め、恋に苦しむ女性として描かれています。
 古事記では、允恭天皇の皇女、軽太娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)と同じ人物とされている。
 允恭天皇の亡くなったあと、皇太子であった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は
即位するまでの間に、同母妹である軽太娘皇女と通じてしまいました。
物忌みの期間中に、こともあろうか妹と通じてしまった木梨軽皇子から臣下の心は離れ
弟の穴穂皇子の人気が高まってしまいました。
 軽皇子と弟の穴穂皇子の間で戦いが起こり兼ねない状態になってしまったのです。
人の心は穴穂皇子に傾き、木梨軽皇子は囚われて伊予(愛媛県)に流罪となった。
 このような背景から、・・内久保の伝説(内久保ルポ2)が始まります。
管理人  2004・11・9


内久保レポ2
内久保の伝説  畑中徳三

 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は今から約1500年前、第19代、允恭天皇の
第一皇子である。
皇子は生来粗暴で非行があったので、父の帝の怒りに触れ、伊予(愛媛県)に流された。
允恭帝崩御の後、第3皇子(穴穂尊「穴穂皇子」)が即位し安康天皇となる。
木梨軽皇子は之を知り、密かに都(今の天理市田町)に上がり大前の宿称らと謀り、
天皇を殺さんとしたが、返って朝廷軍に攻められた。敗れて自殺したと見せかけて数名の者を連れて、丹波の山奥河内谷の御所ヵ谷に隠れ、ここに10年住まわれた。
 この時皇子に従って来た者の子孫は大同年間(807年)同苗講を結び、
建暦3年(1213)には16株になった。
 大前、保瀬、和泉、前長田、堂前、小馬、上手、大下、下伊豆、木下、柏下、石原、
水口、長田、嶋、畠中、の16であり、家数25軒である。
天保14年には50軒に増え、上久保(今の内久保)4株、大内10株、荒倉2株に別れ
住んだ。尚、弘仁2年(811)弁財天を本尊として安養寺を建てた。境内南北25間、東西11間。
 
 安康天皇は即位後3年(456)眉輪王に殺され、末帝が即位して雄略天皇となり、世も
治まったので、河内谷を出て、そして今の内久保に出て田野を拓き(上カルノ、下カルノ)
この地に住まわれた。
 木梨軽皇子は後に河内の国古市郡に出られ73歳で逝去去れたと云う。
皇子に一子があり、後に大内に居館を設け(紫摩城)加原の上、西山、上の山に城を
造り所領を守った。
後の野々村郷の東端は上ヶ城(カミガシロ)で、上ヵ城は外敵に対する物見の人々の城であろうと考えられる。

 150年程後、(620年)推古天皇の時、聖徳太子がこの地に、天皇家の子孫が住むのを知り、野々村の姓を与え大内村と名ずけ、この地方(後の野々村郷)を所領された。
武烈天皇12年(500)五瀬命、神武天皇の祭りの後に、木梨軽皇子を併せ祭った。

 聖徳太子は小字前田(この辺を古来宮田と呼び不浄を避けた)にある、巨石の上に
霊司を造立された。
木梨軽皇子より12世後の水難により、川下に流れ宮脇に止まる、
一宮道相大明神(・・・・現在は無し)郷社道相神社となった。
尚、「熨兩雅」(メシガ)に載せられた軽野社は、この社のことで道相神社を一つの宮とし、
二つの宮を市場(今の静原)天満宮、三の宮を中村(静原)八幡宮として、
是を軽野3社と云う。

 醍醐天皇の頃(923年)黒田芹生の里に潜居していた、菅原道真の庶子慶能法師が
当地に来り((年齢26歳位)皇子16代(?)の孫、野々村紫摩守元勝の娘、徳世姫
(一説には野々村左近の保姫とも云う)と遺俗して結婚し、野々村頼房と名乗り、
其の子、5男1女に野々村郷33村を六つに分けて与えた。
野々村頼房は天暦3年(949)大野で没した。字大野天満宮境内に慶能塚がある。

 天正の頃(1575年)信長に属して有名を馳せた野々村三十郎は頼房の子孫である。
光瑞寺第4代住職祐海の妻は野々村出雲の息女で名は種と云う。
野々村六番とは、平屋、丸山、和泉、高野、大野、樫原、の六つで今の、平屋、宮島、
大野の全部と、今村、栃原、砂木、棚村であり、昔は全部が道相神社の氏子であった。
野々村庄は応永年間(1410年)室町幕府の頃は建仁寺領となり、戦国時代(1531年)は川勝豊前守光照とその子孫が領した。尚(1567年)頃、石川伊賀守が所領したが、
永禄の兵乱後、没収された。

 江戸時代は園部藩小出氏が領主となった。
大野は川谷以外は篠山藩領奥庵祖廟堂のある地は古来御稜地或いは宮墓といい、
通称夜泣地蔵と称する。
石仏のある処は木梨軽皇子の子(幼名豊丸)の墓所ではなかろうか。
 全述同苗講の株家の家紋は、輪なし丸枚笹と梅鉢と梅紋であり、一宮の神紋は
九枚笹である。
株家には破風板(草屋根の三角窓の処)を挙げることが許されていた。



内久保レポ2   補遺訂正
 1 安康天皇が眉輪王に殺された年、468年を456年に訂正。
 2 砦(山城)は井戸(加百の上)西山、上の山の他に上ヵ城ヒロデにもあった。
 3 聖徳大使の霊祖造立、云々は前述(武烈帝12年)の五瀞令、神武天皇を
   木梨軽皇子の子孫が祭ったと混同していると思われる。
 4 聖徳大使から野々村の姓を与えられたのは皇子より5代の孫で野々村左近である
 5 慶能法師(野々村頼房)の墓は元大野小学校の校庭に在ったのを、野々村株の
   株墓へ移葬した、天満宮境内には無い。
 6 野々村庄ノ内、菅野、大野、岩江戸、小笹屋、肱谷、向山、音海だけは篠山藩、
   青山氏の所領であった。
 7 郡誌(大正12年)に大野宮島村の伝説に慶能法師は菅原道真の弟とされているが、
   菅原公と法師の、年齢等を比較すると、法師の年齢は100歳近い年齢となり、
   野々村頼房となって後、6人の子を設けたことを考え合わせると、弟(或いは叔父)
   と云われることは全くの誤りであり、菅原公8番目の子(房子)と言うのが正しい。
 8 前述、宮田(小字前田)の他に馬場田(小字池ノ谷)、札場(小字丁田頭)、的場
   (小字廿小畠)などの通称地谷がある。
 9 大内、上久保から増える戸数は荒倉に伸びて行ったと考えられる。
   幕末荒倉戸数、15戸。
10 慶能法師、軽野法師と言い習わしたのは、何時の程にか、慶能の字に当てたので 
   はなかろうか。         野々村美好氏、説。



あとがき
ここに掲載している論文は古谷家、古文書ついて言い伝えられていた内容を基に
書かれたものであるか、定かではありません。然し古谷三代吉が生まれ、
幼年期を過ごした京都の美山町内久保に伝わっている伝説物語を、
「明治の建築家ののこしたもの」別館「三代吉記念館」公開を記念して管理人が書き写したものです。

次回掲載予定、[内久保ルポ3] では内久保の家と紋章の起源について述べてみたいと思います。
管理人  2004・11・9

[注]  畑中徳三氏の論文はレポ4からレポ2・・レポ3といったように掲載する順序が異なりますが、
管理人の独断でこのような形式にしました。次回はレポ3を掲載する予定です。
ここで掲載している、畑中徳三氏の論文について、ご意見、ご感想、お待ちしております。
読みにくい箇所、誤字等多々あるかと思います、訂正してご覧ください。 2004・11・9



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内久保の家と家紋
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