野々村郷伝説
野々村郷発祥の地内久保



内久保レポ4

はじめに
建築技師古谷三代吉のルーツを探訪す。
 この論文は、三代吉の三男、三郎が晩年に三代吉の生まれ育った地、京都府北桑田郡美山町内久保に数回訪問し、光瑞寺住職、原田祐章氏から先祖の家系、
過去帖、本家の屋敷跡等々など聞き及び又視察に及び、そして畑中徳三氏のレポート(論文)を紹介され、大いに感銘を受けて、論文の一部を書き写したものである。

 数年前には三代吉の曾孫H.F氏が光瑞寺を訪ね、住職に三郎の調査したレポートの内容の中の不明な事柄について質問するも明確な回答は得られませんでした。
また畑中徳三氏にお目に掛かりたいと申しましたが、畑中氏は高齢のため、お会いする事出来ませんでした。

 三郎が訪問して数十年、H・F氏が訪問して十年弱経過しました。時が過ぎ畑中氏の 論文は美山町内久保に封印されたかのようです。そこで畑中氏の論文の一部を管理人の責任に於いて、HPの世界で甦ることを願い公開に踏み切りました。
2004・11・2  管理人


美山町かやぶきの里
写真提供・[美山川 http://www.biwa.ne.jp/~ayu1jmkj/] 四季の自然の美しい風景が満載です。


 
内久保レポ4
野々村郷発祥の地内久保   畑中徳三
 
 私が内久保の伝説をまとめたいと考えたのは三年前(1978)からである。
平安朝以後も京都に近く、いろいろな言い伝えを存じながら隣の京北町のように古墳の発掘や歴史学上の資料となる古文書の存在がないばかりに町史の編纂にも資料が不足している事を思うと寂しい思いをしているのは私一人ではない。
 私たちは或るときに偶然現れたり、又降って湧いたように突然出てきたものではありません。
やはり先祖があり、土地を求めてこの地に来て、この土地を拓き住みつき、そして又
この土地から他方え移り住んでゆく、それがこの土地の歴史である。
私たちの歴史だと考えると、電燈もラジオもましてテレビも無かった私達の子供の頃、
ランプの下、囲炉裏の火を炬きながら祖父から、祖母から、内久保の伝説に就いて
断片的にいろいろのことを聞いてきた。
今は親子、孫と一緒に住むことも少なく、テレビを中心とした夜の団欒は語り合う時間さえも無くなってしまった。
 伝説伝承もその出場を失って、私達の年代の以後の人々には急に槁薄となり
いずれは霧散霧消して、やがて自分の出生地について何ら知る事も無くなってしまう時が来るに違いない。
歴史学という学問の心得が全く無い、私が出来る限りの力を尽くして資料を集め、
地域の中に野々村郷発祥の地としての内久保を認識し伝えることが、
還暦を過ぎた私の仕事と思い始めたことである。

 一つ一つの句切り毎に、レポの形で有志の方々に配布して吐正助言を頂いて、
追補訂正を重ねながら少しでも内容の豊かなのもにしたいと考えます。
野々村郷全体に亘って調べることは私の手に余るので内久保(荒倉)と内久保と濃密に関連のある部分のみを取り上げて調べる予定である。


内久保の秋

荒倉の秋

 内久保を語る上で、欠かす事の出来ない光瑞寺を別に光瑞寺レポとして併行して調べて行きたい。

 この調査は大正13年に発刊された北桑田群誌の資料として大正6年に、
内久保小学校校長、磯部菅一氏が内久保の旧家に在った古文書を写して郡役所に報告されたものを基調とした。
これらの原本が何処かの家にあるはずだが磯辺氏はこの出所を記されていない為、
今原本を見る事が出来ない。
7,8年前大内の区長箱に建暦2年(1212)の由緒書があったが現在は無いとの事である。

 京北町では常照皇寺を始とし、歴史の表舞台に出ることが多いのに反し、
この土地に伝わる木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の事跡は、いわゆる皇室の恥部に関する部分があり、皇室の尊厳を保つため、明治維新以後の歴史に於いては
裏面に隠してしまった。
皇子がこの地に来られる前のことは、皇室裏面史というべき部分を覗かねば出て来ない。明治初年までの歴史書には皇子の乱行などは明らかに記載されているが、
明治の御用学者が意識的に表面に出す事を避けたものであろう。
 注) ルポ2  ルポ3に於いてこの経緯は明らかになる。

 聖徳大使が全国(今の日本全地域ではなかった。)に亘って国情を調べ
天皇記(すめらみことのふみ)(国記)くにつふみを編纂されたときに、この土地に
天皇家の一族の居ることが知れたので在ろうかと思う。
16代頃まで野々村紫摩守として紫摩城に居館を設け、一豪族としての地位を保っていたが、菅原道真公の子慶能佐師が入婿の形で入り野々村33ヶ村(今の部落)を6人の子に分け与えたため急激に勢力が衰え、遂に一般の住民の中に潜没してしまった。

 レポ3で記すが、当時の風習として嫡子に本家の姓を継がせ、他は別の姓をつけた
為か、頼房の他の5人の子孫の血統は今判からないが33部落の各姓の家紋をたどれば或る程度の流れを知る事ができるであろう。
 元園部高校に奉職せられた吉田 証氏はその著書「丹波の歴史」に於いて古代第10の頃に菅原道真と天満宮として「丹波地方に於いては菅公の遺児といわれる慶能君と、それに仕えた武部源蔵浩定の伝説が各地に残されている」。

 それは・・・
 1、 黒田芹生の里の武部源蔵の寺子屋の伝説。
 2、 大野に在る慶能塚にある慶能法師(野々村頼朝房)の伝説。
 3、 静原の菅原神社。
 4、 野々村33番の記述に就いて。
    学問的な諸伝説を考えて見ると、多くの疑問点が見出される。即ち
   イ) 菅原道真の遺児で在るという慶能君は菅原家系図には存在しない。
   ロ) 道真に仕え慶能君を育てたという武部源蔵は菅原家関係資料に記されていな      い。
   ハ) 丹波地方に道真生存中菅原家・・(解読不明)・・なかった。
   二) 道真が詠んだという和歌は、道真の歌集に存在していない。

 という疑問が見出され伝説は事実無根と思われる。・・と記述されている。

 其の他では・・・
   い) 丹波国の一部(船井村11ヶ村)が北野社領下であったこと。
   ろ) 一船的な天神信仰により天神社が建てられた。
   は) 江戸時代中期に竹田出雲の製作した浄瑠璃「菅原伝授手習鏡」や
      歌舞伎が評判になり其の中にある「芹生の里」は必ずしも里田の芹生を
      指していないのである。
      このように丹波地方の菅原道真慶能君、武部源蔵の伝説。
      考えると「北野社領としての関係と俗信の天神信仰とが結びつき、それに
      文学詩歌の大家として敬めたような伝説として各地に残されたんでは
      無いかと考えられる。」
       と言うような不定期な見解を示しているが、しかし、 
     イ、に就いては昭和18年、黒田芹生に道真慶能君を学発神として天満宮が
       創建された時、菅原道真の子孫である清岡長言子爵が先祖の祀りとして
       参詣されており
     ロ、に就いては、旧篠山藩の松井挙堂氏(丹波史研究の第一人者)が実在の
       人物として調べられた。・・・に菅原の私領であった岡部の代官であり、
       その子孫が今も園部天満宮の宮司である。
     ハ、に就いては同上、松井氏が明らかに菅原公私領の園部と記述しその間
       ・・・を以って北野天満宮の社領となったであろうことが伺われる。

 某氏が吉田氏の記述に就いて質したところ、北桑田郡に就いては資料の提供者が得られず、、群誌の記述にあっただけの意見と云う回答であったようである。
私としては北桑田郡誌の編者である藤田元春氏の「木梨軽皇子の野々村六番説と
菅原公幼名の六番説とを対照せんには或いは興味なしとせざるべし。」
惜しいかな本村(平屋)には研究材料としての、記録、古文書に乏しく、歴史の一般的
考察と、付近一帯の地形の観察と本村に存ずる口碑伝説との三者を参配して最後の
断案を作る外に途なきことは。・・・
とし南桑田郡誌編者、魚住氏が・・・「地方伝説と信ずべき史料と、割合に符合すべきもの多く伝説の徒らに排すべからざるを摂に感じたり、元より明らかに史実としては反証ある事項なきにあらずとも、伝説の生じる理由は亦一つの史的現象として(完全)充分の考察を要するものと思い努めて之を載録」・・・とする態度を正しいものと思う。

 大阪経済義塾大学講師竹岡林氏(亀岡市)の紫摩城跡の調査によると、内久保に
豪族の(木梨軽皇子の子孫の野々村氏)の住んでいた形跡は明らかであり、亦地名にもそれらを偲ばせるものが数多くある。
人々の営みが沁み込んだ土地の名前には一口で語れないものがあり、
一枚の古文書にも匹敵する歴史的意義がある。地名は古い昔の言語を今に伝え、
古い歴史を語るタイムカプセルのようなものである。

 本年(1981年)1月30日字大野で元慶能塚のあった場所の隣で経塚(1字1石経)
が発見された。
美山町ではこの他に登録未登録を含めて14〜15ヶ処に経塚がある。
今後こうした発見、研究によって追々と美山町の歴史が明らかになろうが、野々村発祥の地としての内久保の地位は揺るがないと信ずる。  1981年2月 畑中徳三

次回連載予定は・・内久保レポ2を書き写して視たいと思います。

[注]  畑中徳三氏の論文はレポ4からレポ2・・レポ3といったように掲載する順序が異なりますが、
管理人の独断でこのような形式にしました。次回はレポ2を掲載する予定です。

ここで掲載している、畑中徳三氏の論文について、ご意見、ご感想、お待ちしております。
読みにくい箇所、誤字等多々あるかと思います、訂正してご覧ください。 2004・11・2





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