永眠者記念礼拝で、私はマタイによる福音書25章の
中で語られている有名な羊と山羊の譬(たとえ)から「愛
がなければ」と題するメッセージを語ったことがある。そこ
には、神から祝福される人々と神の祝福から外れる人々
が登場する。神は前者に対して「あなたは、わたしが餓
えたとき食べさせ、渇いたとき飲ませ、獄にいたとき尋ね
てくれ、病の時に見舞ってくれた。だから祝福の座を与
えよう」と言われた。するとその人々は「主よ、どうして、
いつわたしはあなたに食べさせ、飲ませ、尋ね、見舞い
ましたか。そんな記憶はありません」と答えた。次に神は
後者に言われた。「あなたは食べさせなかった。飲ませ
なかった。訪問し、見舞ってくれなかった」と。ところが彼
らは「私たちはいつそうしませんでしたか。したではあり
ませんか」と答える。この両者の応答を通して、愛の特
徴が如実に示されている。愛とは、それをした人々が自
らの行為を自覚しないところにある。私たちが天に召され
たとき、神の御前で問われるのは「あなたはそれを愛の
動機によって成したか否か」ということなのである。
主イエスは、当時人々から尊敬されていたパリサイ人を糾
弾された。それは彼らの内側の動機を見られたためである。
彼らの立派な行為、立派な奉仕、実際彼らは貧しい人々の
所に行って友となり、貧しい人々を救っていったが故に、
人々から大きな称賛を受けていたのである。そのパリサ
イ人に対して、主イエスは厳しく糾弾された。なぜなら、
彼らの立派な行為の裏側にあるその動機を見抜いて
おられたからである。
あなたはどうだろうか。あなたが愛の業を行う時、
他者や教会に対して奉仕をする時、愛の動機、信仰の
動機からしているだろうか。もしかしたら自己満足や
自己主張のためにしているのではないだろうか。
主なる神は、内側の動機を重んじられる方であり、
それ故、「のがれの町」を制定し、過失によって人を
殺してしまった人々をかばわれたのである。

三番目に、愛なる神は誤った人々を罰すること
よりも、もう一度立ち直らせることを願われるお方
なのである。そして聖書全体が語る主要な
モチーフの一つは、「あなたはやり直すことが
できる」というメッセージである。
初代教会で最も大切な働きをなした人物、
新約聖書で最も用いられたのはパウロである。
彼は非のうちどころのないパリサイ人であること
を自認し、正義感に燃え、それ故クリスチャンを
迫害し、牢に投げ込み、殺害していった。しかし
ダマスコ途上で、生ける主キリストの光に打たれ
て悔い改め、数年に及ぶアラビアの悔い改め
期間を終え、やがて世界的なキリスト教の指導
者として立ち上がった。パウロはやり直した人物
の典型である。
ペテロも同様である。彼は初代教会の指導者
であって、ローマ教皇はペテロの後継者に位置
する人物である。そんな彼もまた、主イエスを
三度も否むという大きな過ちを犯したが、主の
前に悔い改めて立ち直った。そこで主は、最後
まで従ったヨハネではなく、ご自身を一度、
二度、三度までも裏切ったこのペテロを初代
教会の指導者とされたのである。(ヨハネ21章参照)。
それは神の愛の本質に由来している。この
パウロのように、ペテロのように、イエス・キリスト
は人々が立ち直り、やり直すことを願っておられる。
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