旧約における最高の指導者の一人であるモーセは、民族愛
に燃え、同胞イスラエルをエジプトから解放すべくクーデターを
起こした人物である。ところが仲間の裏切りに遭い、あえなく
失敗、ミデアンの地へ逃亡した。しかし、やがて立ち直った
モーセは、民族の解放者、イスラエル宗教の樹立者となって
いく。モーセもまた、失敗して再度やり直した人物なのである。
更にイスラエル時代の最大の王ダビデ。彼はバテシバと
不倫を犯し、その夫を謀殺し、家庭的にも人間的にも問題が
多かったことが聖書にも赤裸々に記されている。彼は道徳的に
失敗し、家庭的に失敗し、子供たちの反逆にも遭った。しかし、
その度にダビデは悔い改めて神の恵みにすがった。その中で
ダビデは美しい詩篇を詠(うた)いあげていった。そして民衆に
対しては徳のある政治を施していったのである。このように
ダビデもまたやり直していった人物であった。このように、聖書
は繰り返し繰り返し人生をやり直していった人物にスポットを
当てている。神が用いられる人とは、とりもなおさず失敗や過ち
を悔い改めてやり直した人々なのであり、その人の失敗が大き
ければ大きい程、神はそれに比例してその人を大きく用いて
いかれたのである。
主イエスの宣教の第一声は「悔い改めよ、天国は近づいた」
である。これを現在の私たちの言葉で言い直すならば「あなた
はもう一度やり直すことができる。もう一度やり直しなさい」と
語られているのである。

さて、テキストに戻ろう。最初に取り上げたヨシュア記
20章6節の言葉はきわめて興味深い。「のがれの町」に
逃げ込んだ者は、大祭司の死によってこの町から出て自由
の身となり、もう一度人生をやり直せるとある。大祭司とは
ヘブル人への手紙によるとキリストを指し、大祭司の死とは
キリストの死、すなわち十字架の死を指していると考えられ、
この十字架の死を通して、主なる神は人類に新しくやり直す
ことのできる道を開かれたことを暗示している。主イエスが
この世界に来られたのは、あなたが人生をもう一度やり直す
ことができるよう、自ら十字架にかかって代償となられるため
だったのである。
私たちを失敗させ間違いを犯させるのは、私たちの内に
ある罪の力であり、また先祖からの呪い、因縁であり、この
世界の支配者たらんと今も働いている悪魔の力である。
罪、呪い、悪魔の力が私たちをして失敗、挫折へと引きずり
込むのである。しかし感謝すべきかな。主の十字架の贖い
の力によって、これらの悪しき力は粉砕され、私たちは解放
された。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直す
ことができる道筋である。ところが多くの人はそれを知らない。
環境を変え、場所を変えればやり直せるのではないかとつい
考えてしまう。あるいは遠くへ行ってもう一度人生をやり直し
たいと。けれどもそれは錯覚であり無駄である。なぜなら、
あなたの人生をやり直すことのできる唯一の道は、十字架
の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵み
の力を受けることである。主に在ってすべての罪が清められ、
呪いが断ち切られ、悪魔の力が封殺される時、私たちはもう
一度、新しくやり直すことができるのである。
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