■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

   カリスマによるいやしと解放
        心のいやし−内なるいやしを体験していく道程    (5/6頁) 

         ペリシテ人の王アビメレクは、アブラハムの言葉を信

        じてサラをもらい受け、自分の妃として迎え入れたので

        あるから、アビメレクに罪はない。嘘をついたのはアブラ

        ハムであって、道徳的にはアビメレクが悪いのではない。

        にもかかわらず、神はアビメレクに懲罰を降され、アビメ

        レクに償いを負わされているのである。神はその懲罰と

        して、アビメレクの妻とそのはしためから子を産む力を

        とりあげられ、又代償として、羊の群と牛の群及び男女

        の奴隷を求められ、その上に銀千シケルをも償いとして

        アブラハムに与えられたのである。これは何とも理解し

        難い神のなさり方である。むしろ、賠償しなければなら

        なかったのはアブラハムの方ではなかろうか。アブラ

        ハムが不正をし、嘘をついたために起こった事件では

        なかったか。むしろアビメレクは知らずしてサラを妃に

        迎えたのであるから、アビメレクには何の罪もないは

        ずだ、というより彼は被害者ではなかろうか。しかる

        に被害者自身が多大の償いをしなければならない

        とは、いったいどういうことなのであろうか。


         この事に対しての第一の理由は、アブラハムは神によっ

        て特別に選ばれ、油注がれた人物だという事である。彼は

        “預言者”であると記されているが、この“預言者”とは、

        イザヤとかエレミヤなどのように、上からの神の言葉を語り、

        啓示を語る預言者とは少し異なる。この場合の預言者は、

        神に油注がれた人物、カリスマ的人物という意味である。
 
        神はご自身が油注がれた人物に対して

        えこひいきなさるのである。それ故に、神

        が油注いだ人物に対する攻撃は、それが

        私たちの目から見て幾ら道理にかなって

        はいても神に対する攻撃となり、神の報




        復は免れないのである。これは神のなさり方であって、

        聖書の中に繰り返し記されている神の法則である。

         次の理由は霊的な代償の法則ということである。それは

        アビレメクの代償というのが、実はキリストの十字架を予め

        表わしていたという事である。神はアビメレクの代償という

        事を通して、やがて来るキリストの十字架のひな型を人類

        の前に提示されたのである。アビメレクはこの事において

        は何の罪も犯さなかったにもかかわらず、その代償を払わ

        なければならなかった。まさにそれはイエス・キリストが、

        全く罪を犯さなかった方であるにもかかわらず、人類全体

        の罪と呪いのために、又この世界を支配するサタンの力

        から人類を解放するために、その代償となってご自身を

        捧げなければならなかったことを指し示している。


         神の独り子なるイエスご自身がその身に鞭打たれ、釘

        を打たれ、そして最後の一滴に至るまでその血を流して

        苦しみを受け、償いとなって下さったことにより、罪、呪い、

        悪魔から贖い出して下さっただけではなく、病からも贖い

        出して下さったことを思い起こそう。


                  5/6頁