それでは私たちの心の中には、どのような幼児がいる
のだろうか。どのような根があるのだろうか。そしてそれ
は良いものか、あるいは悪いものなのか。もし悪いもの
であるならば、それは私たちの人生のために取り除か
なければならない。聖霊の光によって内なる傷を探り、
内なる幼児がどのように傷ついているかを私たちは知
らなければならないのである。そしてそこに神の愛と、
いやしの御力を注いでいただく事を求める必要がある。
そうするならば、あなたの人生はもっと幸いな、豊かな
実を結ぶ人生へと大きく変えられていくことは疑いない。
創世記20章を通してこの問題について更に学んで
みよう。この記事は信仰の父アブラハムの内なる傷を
扱った箇所であり、それ故の失敗の記事でもある。
アブラハムはかつての名を“アブラム”といった。それ
は“高貴なる人”ということを意味した。そして彼の物語
の中には、確かにその高貴なる人格が随所にうかが
える。特に、甥であるロトとの関係においては、その
土地のために分かれる場面でアブラハムは自分の
権利を一切主張せず、ロトに肥沃な土地を譲る人で
あった(13章)。また同時に、勇敢な人でもある。ロト
を助けるために、勇猛をもって知られるケダラオメルの
軍隊に対して、わずか三百名ほどの手勢で戦いを挑
み、大軍を見事に打ち破っていったのである(14章)。
このように、高貴であり、かつ勇気ある人であったはず
のアブラハムが、この箇所ではがらりと変わってしまい、
何とも卑怯な、卑劣な男として描かれているのである。
それも一度ならず二度までも、妻サラとの関係におい
て彼はその醜い姿をさらけ出すのである。
11節以下のアビメレクに対するアブラハムの釈明の中
に、私たちはその答えを見いだすことができる。特に
12節であるが、そこに「彼女はほんとうにわたしの妹な
のです。わたしの父の娘ですが母の娘ではありません。
そして、わたしの妻となったのです」と語られている、つま
り、アバラハムにとって妻サラは異母妹だと言うことは、
彼らの関係が、呪わるべき近親相姦であった事が明らか
にされていることになる。そして、これこそが、彼らの拭う
ことのできない大きな問題であった。
元の名をサライ(“美しい女”の意)といったサラは、おそ
らくその名のごとく、大変美しく魅力的な女性であった
ろうと思われる。それ故、アブラハムは若気の過ちか、
サライを妻とせねばならない事情が出来てしまったと推察
される。しかし、この事は当時の社会にとっても呪わるべ
きことであり、現代社会においても、超えてはならない
タブー事である。文化人類学者として有名な
レヴィ・ストロースは「近親相姦を犯すか、犯さないかは、
動物社会と人間社会の決定的な分岐点である」と言って
いる。つまり、これを超えるならばそれはもはや人間で
はなく、動物の中に入ってしまうという意味である。
ところが、今日この問題は世界的に深刻化しつつあ
るようである。驚くべきことには、“紳士の国”イギリス
において特にこの問題は深刻であり、この問題専用の
カウンセリング・ダイヤルが公に設置されるほどひどい
状況にあると言われている。ここから生じる社会的
ダメージは、いかに大きなものであろうか。これを越す
ならば人間でなく動物であると言われているように、人間
の根源的なあり方を問う問題を抱えているだけに、この
傷たるや、非常に大きく、かつ深刻なものであることは
疑い得ない。かくて、この深い心の傷が「信仰の父」と
呼ばれていたアブラハムの内に、ある大きな苦い根と
なっていたことは確かであろう。この大きな苦い根は、
アブラハムをしていかばかり苦しめていただろうか。
それが何十年も前の若気の過ちあったとしても、人間は
それによって知らずして影響を蒙っているのである。
私たち人間は、自分のあずかり知らないところでも
傷つけられ、傷を負う以上に、自分のあずかり知る、
自分のした事によってなおさら傷つき、傷を負うので
ある。そして、アブラハムはこの心の傷の故に、深い
ところでサラを忌避したかったのであり、それが二度
にわたるサラの売り渡しの行為となって現われてしま
ったのである。
だがこの物語をアブラハムの心の傷故の失敗の物語
と読んではならない。否、むしろ、主なる神ご自身が、
選び、油を注がれたアブラハムの心の痛手をいったい
どのように扱われたかをも見事に描写していると共に、
私たちの内なるいやしの可能性をも暗示する物語なの
である。そしてこの所を読む時、神のなさり方は私たち
の常識では測ることができず、神の思いは私たちの思
いと異なり、はるかに高いことを知るのである。
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