アメリカの心理学者、ミッシェル・ディーンの著書に
『あなたの過去の内なる幼児』という本がある。彼は
この著書で、結婚のベッドには本当は四人の人間が
寝ていることを指摘している。それは夫と妻と、そして
小さい男の子と女の子である。夫と妻という愛し合っ
ている男女の中に、幼い日の傷ついた子供がいると
いうのである。この事は、換言するならば、意識的存
在の男女と、無意識的存在の男女といってもいいだ
ろう。人間は意識の部分で生きているかに見えるが、
実は隠れた部分である無意識が、人間の生き方に深く、
大きな影響を落としているのである。これをミッシェル・
ディーンは「内なる幼児」と名付けている。
結婚のベッドの中の意識的存在である男女は、愛し
たい、愛されたいと願っている。しかし、内なる傷つい
た幼児である無意識的存在である男女は、「どうせ、
あなたはわたしを愛してくれないでしょう。あなたも、
あの人のようにわたしを傷つけ拒否するでしょう」と、
否定的な思いをもって、共にベッドに寝ているのである。
 また、この過去の内なる幼児は、時として突如として
暴れ出し、私たちの現実の人間関係をも破壊していく。
私は結婚して間もなく、妻から「あなたは女の人が嫌い
ですね」と言われた事がある。私には、それは晴天の霹
靂とも言うべき驚きであったが、私は深くその言葉をかみ
しめた。そして、やがて祈りの中で、幼い日に母を失った
という経験が、私の内に途轍もない深い心の傷となって
いるということが分かったのである。それは、最愛の者か
ら捨てられた、という幼児期の強烈な感情の経験である。
もちろん、母は私を捨てたわけではない。戦後の混乱渦
巻く旧満州の地でどんなにか忍び難く、悲痛な思いで枕
下に私を遺して死んでいったのであろうか。母には何の
責任もないのである。しかし、未だ二歳であった幼児の
私からしてみれば、そんな事情は理解し得べくもなく、
いつの間にか突然最愛の者が姿を隠し、自分を放擲
(ほうてき)したとしか感じられなかったに違いないの
である。
私が“母なるもの”から捨てられたという経験は、この
時だけで終わったわけではない。奇跡的に日本へ生還
することのできた私は、田舎の祖父母の元に預けられ、
そこで育くまれた。そこには私の父の一番下の妹、す
なわち叔母がまだ女学生として一緒に生
活をしていた。その叔母は、私の祖母と
共に私をこよなくかわいがり、何くれとな
く面倒を見てくれたのである。その叔母は
私にとっては母のごとき存在であった。
  |
 |

|
しかし、やがてその叔母も私から去って行く時が来た
のである。叔母の嫁入りである。確か小学校三年生の
時であった。叔母が嫁いで行った後、私は二、三日間
何をする気もなく、ただボーッとしていたことを記憶して
いる。その時、私は再び“母なるもの”から捨てられた
という、心の傷を負うことになったのであろう。更に悪
いことに、私は十五歳の時にも“母なるもの”から捨て
られるという経験をしたのである。
そのころ、再婚をして家庭を営んでいた父と共に生活
をすることになったのであるが、義母が喜ばなかったた
め私は止む無く家を出て、独りで生活することになった
のである。それは、これまでの私の内側の心の傷を更
に広げる出来事となったのである。かくして私の無意識、
内なる幼児は「もうたくさんだ」「もう結構だ」と叫んでい
たのであろう。そして、いつの間にか“母なるもの”、
“女性なるもの”に対して堅いガードを作っていたので
ある。
では、私たちのこのような心の傷がいやされるためには、
どうすればよいのであろうか。まず第一は自分の内なる
傷をはっきりと見極め、認める事である。そして、この傷を
いやしていただくように祈り求める事である。「神よ、私を
探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを
知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを
見て、私をとこしえの道に導いてください」
(新改訳 詩篇139・23−24)。
私自身“母なるもの”に深く傷ついていることを認め、
そこからいやされることを切に求めた時、大いなる「内
なるいやし」(inner healing)を体験することができた
のである。ある真夜中に、激しい嗚咽(おえつ)と共に
起こったあのいやしの出来事を、私は今でも鮮烈に思
い浮かべることができる。そして、あの夏の城址公園
での体験は、私の内なるいやしの総仕上げではなかっ
たかと思われるのである。内なるいやしは一度なされ
れば、それでよいというものではない。徐々に繰り返し
起こされて、遂にその傷口が完全にいやされていくの
である。ちょうど玉ねぎの皮をむくように、一枚めくれば
次の傷口が発見され、そこにもまたいやしの必要がな
される。そして更にもう一枚と、心の内側の沢山の傷の
一つ一つが時間をかけて順次いやされ、解放されてい
くのである。
2/6頁 
|