かくて、ここで取り上げているイサクの物語は、この
家族的呪いの問題の解決を示唆する重要な箇所と
言うことができる、1節には、「アブラハムの時にあっ
た初めのききんのほか、またききんがその国にあった
ので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレク
の所へ行った」と記されている。父アブラハムが犯した
最初の失敗は飢饉があってエジプトへ逃れた時であっ
た。二度目の失敗は、ゲラルの王アビメレクの所へ行っ
た時の事であった(エジプト人が自分たちの王の事を
“パロ”と呼んだと同じように、ペリシテ人もまた自分たち
の王を“アビメレク”と呼んだ)。ちょうど、この時のイサク
の置かれていた状況は、父のかつての二度の失敗と極
めて酷似したものであったことが分かるであろう。イサクは
父アブラハムの心の傷を無意識の内に深く継承していた
ので、この同じ状況下に置かれた時、彼の内に受け継いだ
父の心の傷がもう一度反復経験して出てきたのである。
かくしてイサクは、父アブラハムと同様に、自らの妻リベカを
売るという罪を犯す寸前までいったのである。しかし辛うじて
その罪を回避することができたのは、神の約束の御言葉を
受けていたからである(3−5節)。つまりイサクは、父の心
の傷からくる呪いの力にいやまして、神の祝福の系統を父
アブラハムを通して継承していたのである。神はアブラハム
の故に、アブラハムに与えた祝福をイサクに与えると御言葉
をもって約束されたのである。呪いにいやますアブラハムの
祝福の故に、イサクは呪われた運命に翻弄されることなく、
罪から辛うじて免れたのである。祝福の力は呪いの力より
大きかったので、イサクは罪から勝利したのであった。

ハレルヤ!このアブラハムの祝福を今日継ぐ者は誰か。
それは私たちクリスチャンにほかならない。これこそ、
クリスチャンに与えられた特権である。神はアブラハムに
与えられた祝福を今もなお、注ぎ続けておられるのである。
かくして使徒パウロはガラテヤ書において語る。「このように、
信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受ける
のである」(3・9)。更に、「キリストは、わたしたちのために
のろいとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して下
さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と
書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、
イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、
約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるため
である」(3・13〜14)。この事を聖霊の知恵と力によって
使徒ペテロもまた力強く語っている。「あなたがたは預言者
の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の
子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、
あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。
神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわし
になったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえら
せて、祝福にあずからせるためなのである」
(使徒行伝3・25〜26)。
パウロもペテロも異口同音に語っているのは、アブラハムの
祝福は今、イエス・キリストを信じる者に与えられるように
なったということである。イエス・キリストの十字架の贖い
の力によって、神は私たちをその先祖の呪いから解放して、
アブラハムが神から賜わった祝福を受け継ぐ者とされている
というのである。イエス・キリストの十字架の贖いは、まず
何よりも、サタンに対する勝利の宣言、第二に罪の赦し、
そして第三には先祖の呪いから私たちを贖い出し、解放を
与える救いの力であることを大いに喜ぼうではないか。
私たち人間は良きにつけ悪しきにつけ、様々な形で先祖
からのものを継承している。そしてそれは、自分のあずかり
知らぬ領域において、無意識に、密かに貯えられているもの
である。それが良いものであれば問題ない。しかし、良くない
ものであれば、それは私たちを悲劇に陥らせ、不幸に落とし
込めるものとなる。しかし、主に感謝しよう。主イエス・キリストの
十字架の贖いの力は、その呪いの力をことごとく私たちの内
から除き去り、束縛の縄目を断ち切って私たちを自由な者、
解放された者へと導くのである。今、私たちは恩寵により、
恵みにより、アブラハムの祝福を身に受けている事を心から
喜び感謝したい。その贖いの御力は私たちの信ずる度合、
感謝する度合、喜ぶ度合に応じて、御力を発揮するものなの
である。それ故に、十字架の血潮を崇(あが)めるということが
大切なのである。
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