一九一六年、オーストリアのウイーン大学で心理学を学ん
でいた青年が、その勉学中に一人の女性と知り合い、
恋に陥った。その女性はザクソン・アリアンヌ地方出身の、
ブロンドの美しい髪をした語学の教師であった。青年は、
すっかりこの恋愛に夢中になって、何とかして彼女と結婚
したいと考えるようになったのである。ところがある晩、青年
は不思議な夢を見た。夢の中に両親が出てきて、青年が
死んだ兄の悲惨な運命について語り合っているという夢で
あった。この夢に触発されて彼は死んだ兄の記憶を辿って
いくのであるが、ある事実を知って愕然としたのである。
なぜなら、兄もかつて、青年と同じウイーン大学で医学を
学んでいたのであったが、同じように在学中に一人の女性
と恋愛関係に陥ったのである。しかも兄の相手の女性も
また、ブロンドの美しい髪をした語学の教師であり、その上、
ザクソン・アリアンヌ地方出身であったという事実が分かっ
たからである。
偶然といえば、あまりにも偶然であった。兄の妻となった
人物は青年の恋人とあまりにもよく似た女性なのであった
が、しかし兄たちの結婚生活は悲惨な結末に終わったの
である。青年はその夢を何度も何度も思い返し、兄の
悲惨な運命をしっかりと見据えた。なぜ自分は兄と同じ
運命を辿ろうとしているのか。
一体これはどういうことなのか。青年はこの課題を心理学の
分野の中で執拗に問い続け、捜し求め、尋ね求めたのである。
そして、ついにこの謎を解明した。この青年こそ、家族的
無意識の発見者、リポット・ソンディ博士であった。
フロイドの個人的無意識の発見、そしてユングの
普遍的無意識の発見、更にその中間に家族的無意識
というものがあるという事をソンディは発見したのである。
それは抑圧された祖先の願望、あるいは強烈な印象、
心の傷が、子孫の無意識の中に伝えられ継承されて、
子孫の中で反復して、同じような行動や同じような経験
が起こってくるというものである。
この家族的無意識の働きが典型的に現れている例と
してあげられるのが、文豪ドストエフスキーの家系である。
彼の先祖を点検した時、片や軍人をはじめとして、人を
殺すという、殺伐とした職業の人々が点在し、もう一方
には聖職者がその先祖から多く出ているのである。
殺人者と聖職者という相対立する二つの系列を
ドストエフスキーはその先祖に持っているのである。
それ故であろうか、彼の文学には殺人という淒惨な
事件を材料としている暗闇と、それとは対照的な
神的な輝きとが渾然一体となって描かれているので
ある。もし彼が小説家として道を歩まなかったならば、
殺人者となっていたかもしれないと、十分に考えられる。
このように人間には、自分ではどうする事もできない
その先祖から受け継いだ無意識、あるいは血の力に
よって支配されている面が誰にでもある。そしてそれは、
その人の責任というよりも、どうしようもない一つの運命的
な力というべきものなのである。
ここで私たちの考えるべき問題は、このどうしようもない力、
呪われた不幸な血から来る無意識や、霊を受け継いだ場合
にはどうしたらよいかという事である。人は祝福の血を受け
継ぐと共に、呪いの血をも受け継ぐ。祝福の系統を受け継ぐ
のはよいが、受け継ぎたくない呪われた系統をもまた受け
継いでしまうのである。いかにして受け継いだ呪いを処理し、
呪いの力から解放されるのであろうか。これが私たちの
焦眉の課題となる。いったいどうすればよいのだろうか。
日本では、このような家族的無意識を“因縁”と呼び、
日本的新宗教の中心的課題の一つは、いかにして
この呪われた因縁を断ち切っていくかということにある
ようである。しかし聖書こそは、この問題に対して真の
解決を与える唯一の書物なのである。キリスト教の信仰は、
人間を呪いから解放し、祝福の継承者になる道へと我らを
歩ませていくのである。
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