■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放
       呪いからの解放−因縁を断ち切っていく術策   (2/5頁) 
 
        この件に関して、私は思い出す一つの事柄がある。それは

       神学生時代のある友人の事である。彼の父は大変優れた

       牧師であり、説教者であった。彼は自分の父を大変尊敬し

       ていた。そのあまりからか、話し方から、立ち居ふるまいに

       至るまで、だんだんとその父親とそっくりになっていったので

       ある。私たち学生たちは、「親爺さんとあんまりよく似ている

       ので気持ち悪いなあ」などと、よく噂し合ったものであった。


        卒業後二、三年して彼は結婚したが、ほどなく離婚した。

       そしてそのニュースは私たちを驚かせたのである。「なぜ、

       あんなに真面目で、人柄の良い彼が」と、多くの者たちが思

       った。しかし、実は彼の父も、その若き日に離婚していたの

       である。牧師であった彼の父の結婚生活の破綻は、随分と

       昔の事であったので、あまり芳しくない風聞として人々の耳

       に囁(ささや)かれ続けられていた。それはどんなに、その

       牧師の心の傷となり、重荷となったことであろうか。同情して

       余りあるものがある。特に父親を尊敬する息子にとっては、

       そのような父親の汚名は辛いものがあったに違いない。にも

       拘わらず、その息子である友人は、父親と同じように離婚を

       したのである。


        彼の離婚は、彼の父を愛する従順の故に、父の弱点を彼も

       また受け継いだのであろうか。否、彼は牧師である父の苦汁

       を知っていたのであるから、彼は意識的に離婚は避けようと

       したはずである。しかし、自分では避けようと努力したにもか

       かわらず、いつの間にか、そうなってしまったのである。彼の

       意志や努力を越えた、もっと大きな力によってそうならざるを

       得なかったと考える他はない。言うならば運命的にそうなって

       しまったのである。私はこの友人の事を思う時に、イサクの

       場合と同じではなかったかと思わざるを得ない。自分では

       拒否しつつも、何か深い内側から来る力、無意識の内に

       強制力が働いて、彼をして、そのように駆り立てていったの

       ではないだろうか。日本的にいうならば、因縁とか宿命とか

       いうものである。然り、確かに人間には、自分の意識的な

       働きを超える力がその内側に横たわっているのである。

                                     
        
        更にもう一つ、最近起こったショッキングな出来事がある。

       少し前、日本キリスト教団の重職を担っていたある人物の

       死が報じられていた。キリスト新聞の死亡記事にはその

       死因について何も書かれていなかった。「どうしてかな」と

       不審に思っていると、一つの噂が流れてきた。自殺だったと

       言う。私はそれを聞いた時、思わず「えーっ」と声を出した。

       それは何も、牧師たる人物が自殺した事に対して驚愕した

       からというわけではない。それもないことはないが、私の

       叫び声のもっと大きな理由は別にあった。と言うのは、その

       人物の父親も自殺死を遂げていたのである。その父親もまた

       有名な人物であった。牧師として、神学者として、日本の教会

       においては一世を風靡したことのある指導的立場にあった方で

       あった。日本の教会に多大の影響感化を与えた人物である。

       しかしその方が自殺していったのである。そしてこの出来事は

       日本の教会を震撼(しんかん)させた。教会ばかりではない。

       この著名な優れた牧師であり神学者の自殺は、キリスト教に

       救いと希望を見いだそうとしていた一般社会の人々にも、

       「キリスト教では救われないのか」という深刻な疑問をもた

       らしめたようである。ましてや、その家族にとってはどんなにか

       深刻な打撃を与えたことであろうか。推測して余りあるものがある。


         しかし、そのような試練を乗り越え、その息子は牧師として

       立っていき、やがて教団の重職をも担うようになった。私も若き

       日にその方と親しく話をしたことがあったが、大変率直で気さくな

       方であり、私は好感をもった。彼は実力ある牧師として大いに

       活躍したのであったが、しかし彼の父親の自殺についての話に

       なると、意気消沈し、頭を抱えたという。だから、彼自身としては

       決して父親のようにはなるまいと、固く決心していたはずであった。

       にもかかわらず、あたかも父親に倣うかのように自分自身も自殺を

       していったのである。この悲劇は偶然起こったのであろうか。そうで

       はない。これもまたあのイサクと同様に、自分では拒否しつつも、

       無意識がもたらす強制力によって駆り立てられた結果なのである。

       それでは一体、人間をして、親がなしたように強制していく魔的

       強制力の正体は、何なのであろうか。


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