スイスの精神医学者、ポール・トゥルニエはその多くの
著書の中で繰り返し次のように語っている。「今日、
教会は、人々から罪の重荷を取り除くのではなくて、
むしろ罪の重荷を背負わせている。そして人々の心に
不安と恐れを抱かせていて、そのために人々は精神
病院に送られていく」。トゥルニエはこの指摘について
多くの実例を挙げているが、その中で一人のプロテス
タント教会の婦人がトゥルニエに対して語った言葉を
書き記している。「プロテスタントというのは、私にとって、
良い行いによって神の恵みを受けるのに値する者と
なろうとするのに膨大な努力がいるように思われます。
一方、カトリックは、神父の下にそれを求める人には誰でも
この恵みを無償で与えているように思われます」
(「罪意識の構造」)。これは私たちにとって大変ショッキング
な言葉である。歴史的にプロテスタントは「信仰義認」を
主張し、カトリック教会の「行為義認」は間違いであると
説いてきた。しかし現実は逆となってしまっている。むしろ
カトリック教会の人々の方が解放され、喜び、恵みに溢れ
ている。確かに私自身もベテル聖書研究やカリスマ運動の
中で、多くの明るく解放されたカトリックの神父やシスター
と出会ってきた。
これは大きな問題である。なぜこうなったのだろうか。
それは、今日の多くのプロテスタント教会は「救い」に
条件をつけているかである。すなわち、その条件という
のは、「救われるために悔い改めなければならない」と
いうことである。この条件のどこが悪いのか、これはごく
当たり前の事ではないかと、私たちは全く疑問に思わ
ないほどに深く、この微妙な、巧みなすり替えというもの
が私たちの内に入り込んでいる。救われるために牧師
たちはまず悔い改めを迫る。そのためには罪の意識を
持たなければならないので容赦なく罪を指摘する。
罪におののかせ、罪を責めて「悔い改めなさい」と説く。
これは大抵の教会のとるパターンである。しかし、私たち
は気づかなければならない。悔い改めは決して救いの
条件ではない。それは「救いの結果」なのである。これは
極めて微妙な点である。悔い改めというのは、無条件の
救いが私たちに与えられて、それを経験した者たちが、
その無条件な愛、救いを受け取っていく中で喜びに溢れ
ていった時に、私たちの内側で自然に起こされてくるもの
なのである。それはちょうど、光を当てられた人が自分の
洋服の汚れに初めて気が付くようなものである。恵みの
光をたくさん受けた者が、その恵みの中でふと自分の
内にあった暗い部分、罪の部分を知るに及んで、主の前で
頭を垂れて悔い改めていく。信仰によって神の救い、神の
愛を豊かに受け入れた者たちが、その愛と恵みの中で
悔い改めさせられていくのである。
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