■手束正昭著「ヨシュアの如く生きん、ヨシュア記連続説教集@」より
           (マルコーシュ・パブリケーション)

 無条件の救い (3/5頁)

        このヨシュア記2章のところで、ある一人の女性が

       イスラエルの二人の斥候(せっこう)を匿おうとする記事

       が書かれている。この二人はエリコの町の偵察に来た

       者であったが、それが発覚して追いかけられ、一人の

       遊女の家にとび込んだ。この女性はラハブという。

       彼女はなぜかこの斥候を匿った。それは、先の与次郎太夫

       のような義のためでもなく、また恩義からでもない。

       むしろこれは、「打算」、「利」のためであった。この人

       たちを助けておけば自分も助けてもらえるという計算

       である。なぜ、彼女はこのように考えたのか。それは

       ある一つのニュースを聞いていたからである。イスラエル

       の民たちがやってきて次々と強力な王国を打ち破り、

       行く手に様々な奇跡を起しつつ、パレスチナの地を

       次々と制覇していっているという。ラハブはこのイスラエル

       の民の背後に真実なお方、偉大なる神が共におられ、行く

       手を切り開いておられることを直感した。そして、この

       イスラエルの信じるヤハウェこそ本当の神であり、この

       神に信頼していくならば間違いはないと信じたのである。

       9節から12節に「主」という言葉が四度出てくるが

       ヘブル語原典では「ヤハウェ」となっている。すなわち

       彼女はここで「ヤハウェ」と言うことによって、いうならば

       信仰告白をしているのである。それゆえに彼女は、

       自分自身の遊女としての乱れ切った生活、不道徳な生活にも

       拘わらず、この信仰のゆえに主より助けを受けることになるので

       あった。

                  

        21節に「赤いひもを窓に結んだ」とある。この赤いひも

       によってラハブは、自分の家は略奪されない、攻撃され

       ないことを斥候と約束する。いわゆるこの赤いひもという

       のは、過ぎ越しの日の小羊の血を表していると解釈される。

       それはまた、イエス・キリストの贖いの血潮の象徴でもある。

       私たちを災いから免れさせるその力である。彼女はその

       淫らな生活にも拘わらず、ただ信仰によってその道を確保

       していくのである。


        へブル人への手紙11章31節に、次のような言葉がある。

       「信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやか

       に迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった」。

       すなわち、信仰によってのみ彼女は生きた。それゆえにこの

       遊女ラハブの姿は、キリスト者の原型を示していると言うこと

       ができる。クリスチャンとは何か。キリスト者とは何か。それは

       高潔な立派な人だろうか。それは教養ある人だろうか。あるい

       は美徳の満ち満ちた人だろうか。否、決してそうではない。

       クリスチャンというのは「ただ信仰によってのみ」神の恩寵と

       救いとを得ていく人々のことである。
 
                       
        今日の教会のあまり気づかれない大問題を指摘しよう。

       それは、私たちプロテスタント教会は、ルターが宗教改革の時、

       その旗印とした「信仰によってのみ」(sola fidei)、あるいは

       「恩寵によってのみ」(sola gratiae)ということを、単に教理と

       しては持っているが、実質的には失っているということである。

       そして、むしろ、「行為義認」に陥っているという事実である。


                  3/5