■手束正昭著「ヨシュアの如く生きん、ヨシュア記連続説教集@」より
           (マルコーシュ・パブリケーション)

無条件の救い (5/5頁)

        ルカによる福音書15章の放蕩息子の譬え話は有名で

       ある。が、これも誤解されていることが往々にしてある。

       それは、放蕩息子が悔い改めたから、父親は彼を受け

       入れたのだという理解で ある。しかし、よく読んでいくと

       それは違う。父親は放蕩息子が帰ってきたその姿を見る

       や否や、彼を迎えに出て走って行き、彼に接吻をしたの

       である。父は、その息子がひざまづいて「お父さんすみま

       せんでした」と言ったから、抱いて接吻をしたのではない。

       その父親が彼を抱いて接吻したあとで、「お父さんすみま

       せんでした」という言葉が出てきたのである。悔い改めを

       表明する前から、この父親は息子を赦し受け入れていた

       のである。


        このように、私たちに悔い改めが起こるのは結果であっ
  
       て条件ではない。にも拘わらず、頭では「無条件の救い」

       ということを承認してはいても、体ではこれを否定してしまっ

       ている。特に日本の教会はそうであるようだ。なぜだろうか。


        ここで、冒頭の「まちがった日本人の義理の理解」という

       ことに戻っていく。既述したように日本人の心の内には、

       あやまった義理の理解というものが深くある。すなわち

       私たち日本人にとって「義理がある」ということは「借りが

       ある」ということと同じ理解であり、ただで、無償で何かを

       してもらうということに対しては強い抵抗感があるので

       ある。「ただより怖いものはない」という諺がある。また、

       日本人は「お返し」の習慣に慣れ切っている。何かを

       もらったならば、何かをお返ししなければならないという

       ようにすぐに考える。そしてもしお返しというものをしなけ

       れば、それはあつかましい、あるいは常識知らずという

       ふうに考えてしまう。とすれば逆に、もし私たちが何かを

       することによってその結果与えられたことであるならば、

       それはすんなりと受け入れることができるということで

       ある。この日本人独特の習性は、私たち日本人が

       イエス・キリストの無償の贖い、救いを受け入れようと

       する時、大きな障害となる。そして例え、信仰によって、

       恩寵によって救われると頭で理解していたとしても、

       「悔い改めよ」と聖書に書かれていることを読んだとき、

       ついその習性が頭をもたげ、「悔い改める」という条件が

       あってこそ救われるべきではないかと考えてしまうので

       ある。それゆえ、日本の信仰の指導者たちも異口同音に

       言う。日本のリバイバルは「悔い改めによって起こる」、

       「日本の教会成長は悔い改めから始まる」と。そして

       「悔い改めなさい。罪を告白しなさい。服従しなさい。

       そうすれば主はあなたがたの内に御業を起こされる」と。

       確かにこの主張も一理はある。悔い改めによって

       リバイバルが起こったということが聖書、特に旧約聖書

       に多く書かれている。また、バプテスマのヨハネの

       リバイバルも悔い改めのそれであった。人々に悔い

       改めを迫り、罪におののかせることによってその

       リバイバルは起きたのである。

                   

        しかし、バプテスマのヨハネのあとに来た主イエスの

       リバイバルはどうであったか。決してそうではなかった。

       主イエスは神の驚くべき愛について説いたのである。

       神の無限の恩寵について語ったのである。そして、自ら

       の無償の贖いによって人々が救われることを、身をもって

       教えたのである。このことを正確に受け取った使徒パウロ

       は、「私たちは信仰によってのみ義とされるのだ」と人々に

       説いた。悔い改めたから救われるというのも一つの信仰

       パターンであることは確かである。けれども私たちはこの

       ヨハネのリバイバルと、イエス・キリストのリバイバルと

       どちらを選ぶのであろうか。主イエスは身をもって教え

       られた。「無限の神の愛と恩寵をひたすら受けなさい。

       そして信仰によってそれを受け取っていきなさい。神は

       あなたをこよなく愛しておられ、あなたを無条件に救おう

       とせられている。そのことを、ただ信仰によってのみ受け

       取りなさい」。そうなのである。今日、日本の教会にとって、

       この主イエスのリバイバルこそが必要なのである。否、

       それは日本の教会だけでなく、全世界の教会にとって、

       無限の神の愛と恩寵に目が開かれていくことこそが

       必要であると、私は確信する。


        かくして、神の大きな愛と赦しに自らを開くことにより、

       すべての怖れや不安やおののき、律法主義や呪いから

       解放され、新たなる喜びに満たされていこう。そして、

       内から溢れてくる主の愛と恵みの中を喜びつつ、その

       人生を全うしていこうではないか。


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