■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放 
        神の御業を妨げるもの−奇跡が起こされる原則  (3/5頁)

        終戦間もないころの事である。今は亡き義父の三島実郎牧師

       は神戸で開拓伝道をしていた。ある時、三島牧師の祈りによって

       一人の病人がいやされたのである。そのニュースは、近くの結核

       病院中の噂となり、この病院の患者たちは何とか治りたいと思っ

       ていたところにそのニュースが伝わったので、三島牧師に是非

       病院に来てもらって、祈ってもらいたいという切なる願いが起こっ

       たのである。もちろん、彼らのほとんどはクリスチャンではなく未

       信者であった。しかし、あの教会の牧師には、不思議な力があっ

       て、あの方に祈ってもらえば、自分たちの病気は治るという信仰

       が彼らの内に生じたのである。そして必死な思いで、断食までし

       て、三島牧師が病気に来てくれるのを待ち望んだのである。

       三島牧師がやっと病院を訪れ、今か今かとその時を待っていた
     
       彼らの頭に手を置いて祈るや否な、多くの者がその場でいやされ
 
       ていったのである。祈った牧師の方が驚き、唖然としてしまった

       というほど、神の御業が圧倒的に起こされたのである。


        この時の三島牧師の按手の祈りが、いやされたいという必死な

       願いをもち、祈りを信じ、神に賭けていった病人たちの信仰と神

       の霊をつなぐ媒体となったのである。信仰が起こり、神の霊が働

       いている時、神の領域である四次元と我らの住む三次元をつな

       ぐ小さな媒体があれば、接触点、起爆点があれば、その時に神

       の大きな御業が解放されていくのである。

                    

        この点から見てみると、なぜ、主イエスが自分の故郷ナザレ

       では奇跡を行うことができなかったかがよく分かる。

       主イエスでさえも、自分が神の奇跡の御業の媒体となるため

       には、人々の主イエスに対する尊敬、信頼、信仰を必要とした

       のである。(マタイ13・53−58、マルコ6・1−6参照)。


        エリシャはこの事をよく知っていたので、ナアマンがはるばる

       訪ねて来た時も、彼に会い頭の上に手を置いて祈る必要も感

       じなかった。使者に、ただヨルダン川に行って水で七度体を洗う

       ようにと命じたのである。なぜ、エリシャは水で洗う事を命じた

       のか。それは多分ナアマンは、自分がらい病になったのは、

       自分の罪深さのためではないかという罪責感を持っているの

       ではないかと見て取ったからである。神のいやしを受け取る

       ためには、実にその罪責感から解放し、ヨルダンの水で七度

       洗うことにより、その罪が流され、自分はもう潔いものとなった

       という確信を、ナアマンが持つ必要があると、エリシャは洞察

       した。


        すでにナアマンには信仰が起こっていたから、媒体は何でも

       よかったのである。もちろん頭に手を置いて祈ってもよかったし、

       ヨルダン川で水を浴びても、また、主イエスがされたように泥で

       その体をこすってもよかったのである。


        しかし、ナアマンにはこの事は理解できなかった。彼はエリシャ

       の態度が理解できず、怒りをもち、帰ろうとするのである。ここに

       神の御業を妨げてしまう私たちの問題がある。


        ナアマンは、こんな簡単な事でこの大きな病が治るはずがない。

       それにあんなに汚い川で水浴びせよとは人を馬鹿にしているの

       にもほどがあると思ったに違いないのである。しかし、ここが問題

       なのである。神の人の言葉よりも、自分の知恵や常識、経験を

       優先させてしまうのである。を自らの判断と考えで測り、損なって

       しまうのである。これを高慢と言う。人間の中に深く根を張る高慢

       の罪が、素晴らしい神の御業が起こることを妨げ阻止してしまっ

       ているのである。
                             

        また、人間の偏見によって多くのものを縛っている。神の御業

       が起こるために、もっと複雑な、もっと崇高な何かが必要である

       と思い込むのである。ただ水を浴びよと命じられても、それだけ

       では納得できない。これが偏見である。この高慢と偏見が折角

       ナアマン将軍の身に起ころうとしている神の奇跡から彼を遠ざけ、

       神の御業を妨げようとしたのである。


        これは私たちにとっても大きな問題である。私たちの内側に

       信仰が起こる時、媒体さえあれば神の奇跡は起こる。きっかけ

       さえあれば全能なる神の大きな力は私たちに臨み、圧倒的な

       神の愛と喜びをどんどん受けて、その御業が多くの人々に解放

       されていくのである。しかし、この神の恵みを私たちはその高慢

       と偏見をもって妨げ、いかに多くの神の御業の起こる恵みの機会

       を逃してしまっている事だろうか。


                   3/5