■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放
       神の御業を妨げるもの−奇跡が起こされる原則  (2/5頁)

        私は高等学校時代に、教会から牧師や友人たちと一緒に、

       瀬戸内海の長島にある、当時は「癩病養所」と言われてい

       た施設を訪れた事がある。そこで私たちは患者の方々との

       交わりをもったのであるが、随分多くの事を教えられ、貴重

       な体験をした。それはこの病にかかられた人は、単に病気と

       しての苦しみだけでなく、不当な差別により、家族をはじめと

       して、それまでの人間関係が断ち切れ、引き裂かれてしま

       い、その上、まるで捨てられるようにして、たちまちのうちに

       小さな島に閉じ込められて、外界との関係を断たれた中で

       生きなければならないという苦しみの中に、置かれていたか

       らである。患者の方々が自分たちの思いを歌った一つの歌

       を私たちに教えてくれた。三十年も前の事であるが、その歌

       の内容を今も覚えている。


        それは、自分たち“癩”を病む者は今この地上では、毛虫の

       ように醜い姿であり、人々からも嫌われた存在である。しか

       しやがて神がこの身を天国に召して下さる時には、自分たち

       は毛虫からあの美しい蝶に変わって天に舞い上がるように

       なることを信じている。だから自分たちはひたすら天に召さ

       れるその時を待ち望みつつ、今を生きているのだという歌で

       あった。まだ高校生であった私には大きな衝撃であった。そ

       して私は、それまで自分が持っていた悩みの小ささ、自分で

       は問題だと思っていたものが、いかにちっぽけなものであっ

       たかという事を深く思わされたのである。


        それ以後私はつまらない事、小さい問題でくよくよ悩まない

       人間になった。多くの人から「あなたはひどく楽観的だ」と言

       われる。それはもちろん信仰による楽観もあるが、この時の

       体験が大きいと私は思っている。彼らの深い苦悩、その問

       題の深刻さと比べるならば、私たちの悩みや問題はとるに

       足らないという事がよく分かったからである。私はこの長島

       でのハンセン病患者の人たちとの出会いを思い起こすことに

       より、ナアマン将軍の何とかいやされたい、治りたいという

       必死な願いと叫びが、深く迫ってくるのである。

                       

        ある時ナアマン将軍は、イスラエルの地から捕らえてきた少

       女から一つの情報を得た。それはサマリヤにいる一人の預

       言者の事であった。この預言者には人間業とは思えない不

       思議な力があって、彼に祈ってもらうといろんな病気がいや

       され、奇跡がどんどん起こされているというニュースである。

       ナアマンはこのわずかなニュースにも耳を傾け、王に申し出

       てサマリヤまで下っていったのである。彼は銀十タラント、金

       六千シケル、晴着十着を携えて行ったと記されている。今の

       金額になおすと十億円以上である。おそらく彼は、彼の全財

       産をもってエリシャの元に行ったのであろう。ここにナアマン

       将軍のいやされたいという必死の願いと、その求めがいかに

       大きなものであったかが推測されるのである。


        神の御業が起こされるためには、先ず私たちの内側に切実

       な求め、必死な、ひたむきな願いが必要である。ひたむきな

       思いと願いが私たちの内に燃え上がる時、「求めよ。そうす

       れば与えられるであろう。捜せ。そうすれば見い出すであろ

       う。門をたたけ。そうすれば開けてもらえるであろう」(マタイ

       7・7)という主イエスの御言葉が成就し、神の御業が私たち

       の身に起こされるのである。
                                  

        次に大切な事は、神に対する全面的信頼である。神に賭け

       るという事である。「あなたのパンを水の上に投げなさい。そ

       うすれば多くの日の後、あなたはそれを得る」と伝道の記者

       は言う(11・1)。更にマルコ伝12章41節−44節にあるレ

       プタ二つを捧げた貧しいやもめの記事もまた、神に賭けると

       いう事の典型である。レプタ二つ。それはたった二十円であ

       る。しかし貧しい老いたやもめには全財産であった。彼女は

       明日からどう生活するのか、それさえも神に賭け、神に捧げ

       きったのである。そして主イエスはこのやもめをさして、「彼

       女は誰よりも多くを捧げた」と賞賛されたのである。このよう

       に神の御業が私たちの身に起こるためには、私たちの内に

       必死な願いと思いが起こされ、次に神に対しての全面的な

       信頼、神に賭ける信仰を通して神はご自身の御業を現され

       るのである。


        ナアマン将軍は、まさにこの信仰の原則通りの事をしたので

       ある。彼は何とかして治りたい、いやしてほしいと一心に願

       い求め、全財産をそのために使っても惜しくなかったのであ

       る。彼は、はるばるエリシャの元に全財産を携えて下ってい

       った。このナアマンの信仰姿勢は神の奇跡を起こすのに十

       分であった。ただ、神の力が解放されるためにはもう一つの

       事が必要であった。それはシンボルになるものである。神の

       願い求め神に賭ける信仰があるところ、そこに神の霊は働

       かれるのである。そして、その信仰と神の霊をつなぐ媒体が

       シンボルである。この媒体があるならば、それを通して、神

       の大きな御業がそこに起こされてくるのである。


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