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健康と護身のために太極拳をはじめましょう!

 

太極拳の心得

  • 許民先生のブログで公開され続けている、太極拳の心得。
    当サイトでは、その解説及び他の角度よりのアプローチを掲載する予定です。

太極拳の頭部と「中正」

 三十年前、日本に来る数日前に故・楊孝文師爺の自宅へ挨拶に行った際に与えられた訓示は、『中正・安舒・軽霊・圓活』の八つの文字だった。一番先に来るのがその「中正」だ。一方、アメブロで《太極拳の頭》を題に心得を書いた。ここで太極拳の頭部と「中正」の関係について考えてみたいと思う。

  《太極拳の頭》の記事の中で、『太極拳の頭に対する要領は「鬆」と「懸」の根底に「準」がある』と述べた。「頂頭懸」は先ず「懸」、即ち「吊る」という意味合いがある。しかし、吊る場所を間違えれば、体のどこかに力が入り「鬆」の実現が困難となる。竿ばかりを例にすれば、量る重さにより手で持つ下げ緒の場所が異なる。それを間違えれば、竿ばかりの左右の均衡が崩れ、物の重さを量ることができなくなる。正しい場所で吊られていること、即ち「準」が「中正」の状態なのだ。

 頭部の「中正」は「準」だが、「準」は外形で確認できるものではない。呉式太極拳では、弓歩の時に上体の傾斜が要求されるが、それは「中正」に反するものではない。明らかに「中正」ではない状態は目でも分かるかも知れないが「中正」か否かはそう簡単に外形で判別し切れるものではない。少林拳を代表とする外家拳も、形意拳、八卦掌など太極拳以外の内家拳も、それぞれ異なる外形・動作で行われるが、何れも拳法としての「中正」の要求があるはずだ。但し、体内の均衡に対する要求の高さは太極拳を超える拳法はなかろう。

 頭部の「懸」は竿ばかりの下げ緒のような役割を果たすが、下げ緒を持つ手は意念におけるもので、頭部に力を入れてはいけない。「虚領頂勁」の「虚」はそれを意味する。つまり、頭頚部の筋肉を強ばらせてはいけないことだ。「懸」と「準」は「鬆」を欠かせない。呉式太極拳の動作はよく上体の傾斜を呈するが、頭部は上体と一体となって踵と斜めの一直線を形成し、決して頭部単独で動きをリードしてはいけない。「懸」は上から吊ることで、下から突くことではないのだ。

 頭部の「中正」は「準」だが、「中正」は頭部だけへの要求ではない。動きのすべてが「中正」でなければならない。「懸」は上からだが、「中正」は下からも欠かせない。

                                                 (2017.10.23)

 

沈着と身法

 アメブロで《太極拳の「沈着」と「順遂」》を書いた。ここで「沈着」と身法の関係について考えてみたいと思う。

  「沈着」は「気」が足下まで下がっている状態のことだ。その状態を手に入れるには、足下まで「気」が通りやすいように、「気」の通路である体を調整・制御する必要がある。身法とは体への調整・制御のことだ。「鬆肩」がなければ、「気」が肩関節に止まり、また、「鬆肩」があっても、「含胸」がなければ、「気」が腰まで下がることが困難になる。一方、「鬆肩」と「含胸」は「虚領頂勁」と「抜背」との同時進行が必要だ。両者の関係は表裏のようなものだ。更に、足下まで「気」が下がるには、腰、腹、股の「鬆」も欠かせない。無論、全てが「中正」の下で行われる。これが沈着と身法の究極の関係だ。

 問題はこうした身法要領への認識の甘さだ。「鬆肩」も「含胸」も、更に「鬆腰」も「鬆腹」も皮膚の表層ではなく、関節・骨格の深層において実現されねばならない。それは目に見えず、外形をつくるわけではない。「含胸」だけを例にしても、胸の奥に向けて開くので、奥深さと広さが異なっていても目立つほど外形が変わったわけでもない。「鬆」について本当の「鬆」と見かけの「鬆」をよく問われるが、少なくとも陰陽表現のない「鬆」は決して「鬆」とは言えないのだ。その陰陽は心法であり、感覚でもある。

 身法は習慣だ。太極拳修行時に留意するだけでは足りないのだ。「虚領頂勁」、「含胸抜背」、「沈肩墜肘」、「鬆腰垂臀」の何れも日常的に行うべきだ。それによって普段から沈着の状態が維持でき、下半身が安定し、足元が益々しっかりするようになる。そうなると、推手においても地面からのパワーが利用できるようになる。

                                                   (2017.9.24)

 

「一心一意」と「一心二意」

 中国語では、「一心一意」は専念という意味で、「一心二意」はその逆の意味だ。四字熟語として前者はプラスイメージ、後者はマイナスイメージとなる。ところが、太極拳においては両者に異なるニュアンスがある。

 太極拳には『心静・意専・体鬆』の要求がある。その中の「意専」は「意」の専念という意味だ。専念の中身は修行段階によって異なる。初心者は順番・姿勢・身法を主とし、順番を思い出したり動作の姿勢に留意し身法に関する諸基準に照らしたりすることに意を注ぐ。その場合、よく『以一念代万念』(訳:一念を以て万念に代える)の発想法を用いる。つまり、あることに専念すると雑念が入ってこなくなる原理だ。順番・姿勢・身法に未熟な初心者は雑念が入る余地が少ないが、動きがオートマチックになると雑念が入りやすいので、その「一念」が重要になってくる。

 とはいえ、アメブロに書いた《太極拳の「連」と「断」》にも触れたが、一極集中は陰陽の表現に反するもので、陰陽表現の段階に入ると、いわゆる「二儀」、「四象」、「八卦」のように、少なくともツーウェイへの「意」のセパレートが必要になる。この段階の専念は初心段階の『以一念代万念』と異なる意味合いがある。つまり、「一念」への専念ではなく、「二念」以上への専念が必要になる。

 「一心二意」は「一心多用」、「三心二意」とも言い、専念即ち意の集中が出来ない状態を表す時に使うマイナスイメージの言葉だ。ところが、太極拳は専念即ち意の集中のできる「二意」、「多用」を必要とする。中国語の使い方としては適切ではないが、言葉の本来の意味としてはぴったりだというような気がする。

 同様に、「陽奉陰違」、「綿裏蔵針」、「指手劃脚」、…などもマイナスイメージの言葉だが、太極拳としては必要なものになる。  

                                                   (2017.7.25)

 

推手の「捨己従人」と「陽奉陰違」

 「捨己従人」は筆者が他の記事の中でも議論してきた、古典《太極拳論》に引用された言葉で、自分を捨て身にして相手に従うという意味だが、相手に勝つために自分の都合を優先せず相手の動きに従うことが太極拳推手の重要法則だということは、とても理解し難く、本気で信じ難いところだろう。

  なぜ自分の都合を優先せず相手の動きに従うことが相手に勝つ重要な法則なのか。その疑問は武式太極拳創始者の武禹襄氏(1812-1880)著《打手要言》から回答を見つけることができる。『従人則活,由己則滞』がその回答だ。「活」とは臨機応変な対応ができる状態のことを指し、「滞」とは型にはまって融通の利かない状態のことを言う。推手で力勝負を避けたければ、力を借りる必要がある。相手の力を借りたければ自分の都合を優先してはならない。先ず相手に従いながら、力を借りた上、自分の目的を実現させるのだ。武式5代目の赫少如氏(1907-1983)が『従人則活,由己則滞』の言葉の後に『而従人仍是為了由己』(訳:「とはいえ、「従人」はやはり「由己」のためだ」)と付け加え、ずばり「捨己従人」の真意を明白にした。

 では、どのようにして「従人」と「由己」を両立させるのか。矛盾している両者を共存させるのは実は表題にある「陽奉陰違」だ。「陽奉陰違」とは、マイナスイメージで使われる中国語の四字熟語で、表面上相手に従うが裏で反することをするという意味だ。その言葉による陰陽表現は人との接し方ではないが、太極拳の陰陽と異曲同工だ。つまり、前記の「捨己従人」はあくまでも「陽奉」という建前で本音は「陰違」・「由己」なのだ。但し、この建前と本音は陰陽の原理からなっている。

 太極拳推手の「陽奉陰違」は相手から負荷を受けた際に、一方では自分の勁を相手に迎合させ、他方では自分の勁を相手に浸透させ、相手の不均衡を引き起こすのだ。この「一方」と「他方」のアクションは前後ではなく、同時同量で行われることによって陰陽を成す。人体十四経絡の内、任脈と督脈を除き、残りの十二経絡は陰経と陽経がそれぞれ六本走るが、太極拳推手の「陽奉陰違」における陰陽はその陰陽経絡のことを指す。

 呉式太極拳の陰陽は推手で応用されるが、トレーニングはやはり慢架套路になる。

                                                   (2017.4.29)  

太極拳の「引進落空」

 アメブロで書いた《呉式太極拳の「抜根」》の中に『仰高・俯深・進長・退促の何れも「抜根」につながる』との記述がある。それについてもう少し掘り下げていきたいと思う。

 「仰高・俯深・進長・退促」は《太極拳論》の言葉を短縮した言い方で、全文は『仰之則彌高,俯之則彌深。進之則愈長,退之則愈促』(訳:相手が上方へ上げようとすれば、率先して果てしない上方へ導き、相手が下方へ下げようとすれば、率先して果てしない下方へ導く。相手が自分に向かって進もうとすれば、とことん進むように促し、相手が後方へ退こうとすれば、慌てて逃げるように追い打ちをかけていく)となっている。「仰高」と「俯深」は上下方向、「進長」と「退促」は前後方向の運動慣性を助長した手法で、得られる効果は、相手が重心の偏移に伴い、均衡を失い、足元が揺るぎ、「抜根」の状態に陥る。上向きの勁による「抜根」との違いは直接ではなく、間接的だという点にある。相手が自分自身の動きによって「抜根」となった故、直接とは言えないが、その動きを誘発・助長したのはこっちなので、「抜根」そのものは意図的に狙った結果なのだ。

 「引進落空」とは、相手からの負荷を乗せて(接)、自分の方向へ誘い込み(引)、相手に前方への重心偏移を来たし(進)、相手が自ら前方へ均衡が崩れる(落空)ようにする技のことだ。上記「仰高・俯深・進長・退促」で言うと「進長」となる。その中で「引」がポイントだ。「引進落空」の効果は「引」にかかっている。

 「引」の前に「接」がある。相手からの負荷をうまく自分の「乗り物」に乗せられなければ、「落空」になる目的地への運搬ができない。負荷と「乗り物」の接触面に摩擦による一定の粘着力が要る。表面上、「接」を行うのは手ではあるが、「乗り物」は手だけではない。体の「鬆」の度合や「意・気」の持ち方によって摩擦係数が変わってくる。相手の負荷(勁)に適合したものでなければ、粘着が生じず、「接→引」の成功が望めない。

 「引」に使う道具そのものは受け身的ではあるものの、「引」という行為は受動とは限らない。太極拳の「後発制人」における「後」は「発」の時間を指したもので「後引」とは言っていない。つまり、「引進落空」は相手を待つことなく主動的に相手の負荷(勁)を誘い出して行うことができる。無論、相手から負荷を掛けられた後でもその威力の発揮が可能だ。

                                                   (2017.2.10)

 

「上下相随」の奥義

 太極拳を習う者に知れ渡る太極拳の諸要領の一つに「上下相随」がある。アメブロで議論した上下左右論にちなんで、その奥義を探ってみたい。なお、ここでは、議論の便宜上、姿勢、動作、内面の三つの視点から「上下相随」に対する異なる捉え方をアプローチしてみる。

  先ず姿勢に着眼した場合、太極拳の身法に主眼を置き、肢体の上下においては、ほぞ接ぎのような接合を求める。その際に「外三合」等に留意し、手と足、肘と膝、肩と股関節、百会と会隠、鼻と壇中…が引き合うように相関関係を保つ。その結果、上半身と下半身のずれを防ぎ、脚→腿→腰→手の順に生み出される勁の最大化、「外→内」と「内→外」、即ち、陰陽開合をスムーズに行うことができる。

 「上下相随」を呉式太極拳の動作で見た場合、「上→下」又は「下→上」の動作を前後して行うケースもあれば、「上→下」と「下→上」の動作を同時に行うケースもある。前者を例に挙げると、例えば『太極起勢』において両手を肩の高さまで上げた後、すぐに下へ下ろす;『提手上勢』において右手を額の上方へ上げた後、すぐに『白鶴亮翅』で上体の前傾と共に右手を下方へ落とす;『海底針』において右手を上体の前傾と共に下へ引き下ろした後、すぐに上方へ跳ね上げる;呉式推手では、十三種の手法の中に相手の腕を上へ上げるや、すぐに下へ落とす『通天手』がある。こうして「↑」と「↓」又は「↓」と「↑」の動作を前後して行うケースは呉式太極拳の中で至る所にある。「上下相随」はその「↑」と「↓」又は「↓」と「↑」の繋ぎに求める。途切れのないようにするのは当然のことだが、「折畳」と呼ばれる心法が大きく係わる。

 相手の運動慣性を武術に利用する上記ケースに対し、「↑」と「↓」又は「↓」と「↑」を同時に行うケースの場合は陰陽変換による勁の増強に狙いがある。例えば、『楼膝拗歩』において右手で左上から右下へ押さえながら左手を下から持ち上げる際に、右手を虚→実→虚、左手を実→虚→実と変換する;『進歩栽錘』において左手で右上から左下へ下ろしながら右手を下から上へ拳にして持ち上げる際に左手を虚→実、右手を実→虚へ変換する;こうした例は『肘底見錘』、『雲手』等にも見られ、呉式太極拳では枚挙に暇がないほどだ。

「↑」と「↓」又は「↓」と「↑」の動きが同時に現れるのは目に見えるものだけではない。太極拳の中・上級修行者は目に見えない「意・気」の動きを求める。『太極生両儀』の見地より、例えば、『太極起勢』では、動作として下から上へ腕を上げると同時に、目に見えない「意・気」が腕に沿って上から下へ配分される。太極拳のすべての動きに目に見える「上・下」と目に見えない「上・下」の「相随」関係が見られる。目に見えない体の内面におけるこうした動きを察知し、相反する上下を追求することこそ、「上下相随」の奥義へのアプローチと言えよう。

                                                  (2017.1.15)

 

太極拳の皮毛

 アメブロで《太極拳の内と外》の記事を書いた。その中で「意・気」が君主、筋肉が臣下で筋肉が「意・気」の指揮下で動くと古典の理論を展開した。では、筋肉を包んだ皮毛はどうだろう。自分の心得を踏まえ、考えてみたい。

 武禹襄の《打手要訣》に『筋肉要鬆,皮毛要攻』という名句がある。直訳すると、筋肉は「鬆」をせねばならぬが、皮毛は攻めねばならぬということになる。ここであえて「鬆」を訳さないのはこれまでに他の記事で十分議論したし、片言で的確な訳語が見つからないからだ。一方、「攻」については漢字通りに「攻める」と訳したが、それに対する理解はまだ議論する必要がある。

 「鬆」と「攻」は相反するように聞こえるが、「攻」は「意」において攻めの部分はあるものの、「鬆」の表れでもある。つまり、「鬆」は空洞感と膨張感の同時達成から生まれるもので、皮毛まで膨張したその「気」が攻めの「意」にシンクロしたわけだ。

 「意」→「気」→「勁」が皮毛に及ぶのは容易なことではない。かつて張金貴師が筆者にこう語った。当時は実の勁のことを語られたと思ったが、今は実と比べ、虚の勁のほうがより難しいと感じるようになった。皮毛に及んだ虚の勁こそ聴勁の原点ではないかと筆者が思う。

 「内」と「外」の視点で見れば、形態を有しない「意・気」を「内」、形態を有する筋骨・皮肉を「外」と見ることは一つの見方ではあるが、武式太極拳の著名伝承者のHAO少如氏が世に残ったメモの中に「骨肉分離」の記述があり、骨と肉は別扱いされている。無論、これは「意」の動きではあるが、同氏は骨と肉について骨は主動且つ上昇的、肉は受動且つ下降的だと語っている。但し、皮毛への言及はなかった。皮と肉が不可分ならば、皮も下降的で沈下となるが、「皮毛要攻」の説に反している。皮と毛は不可分ではあっても、骨、肉、皮はやはり異なる様態に導かれる心法が用いられていると実感している。

                                                 (2016.11.28) 

仮想負荷

 アメブロで《太極拳の足腰》を書いた。その中で何度も「負荷」という言葉を使った。推手において相手から掛けられる力のことを指すが、相手がいない、一人で修行する時にも負荷が掛かるようなアプローチ方法がある。その中で器具を利用する方法もあるが、ここでは内功的な方法を紹介する。内功的と称するのは負荷が瞑想上の産物だからだ。仮想からなので便宜上「仮想負荷」と言おう。

 呉式の「太極起勢」の一部を例に説明する。

 両手を下から上へ挙げるに当たって手に上から下へ押さえられるような負荷が掛かったイメージで持ち上げ、その仮想負荷が手首→肘→肩→…足→腿→…手の経路を辿りながら肩の高さまで手が上がった後、手を上から下へ下げるに当たって手に下から上へ持ち上げられるような負荷が掛かったイメージでその負荷の抵抗を克服しながら下降を遂行する。その後、左右から両腕を上昇させながら前上方中央へ回すに当たっても両腕に仮想負荷を載せて進む。…

 以前アメブロで《太極拳の対称対応原理》という記事を書いた。その中で「対拉」(引っ張り合い)の原理を説明した。「対拉」は単に点と点における現象ではなく、その点を含めた面と面において発生するものだ。その抵抗源は仮想負荷にある。

 仮想は「意」を用いる。「意」の行くところに「気」が伴うと、実在のモノが発生し、単なる仮想ではなくなる。気功は一種の瞑想によるものではあるが、仮想ではない。「気」は目に見えないが、体内を流動する実在のモノだ。気功は静気功と動気功があるが、太極拳は動気功と同じ原理だ。陰陽虚実は力の分量ではなく、仮想負荷の表現形態だ。仮想負荷がなければ、陰陽虚実が単なる仮想になる。仮想負荷の大きさは内功の度合いを量る重要な指標だ。

                                                 (2016.10.29) 

 

推手の「機」と「勢」

 アメブロで《太極拳の総体勁》を書いた。その理論的な根拠は『由脚而腿而腰,総須完整一気,向前退後,乃能得機得勢』という《太極拳経》の言葉だが、ここでその「得機得勢」について心得を記しておこう。

 「機」は時機のことで「得機」は絶妙な時機を手に入れることだ。推手では、相手からかかってきた負荷を「接」を通じて「化・拿・発」するが、先ずタイミングの良い「接」が必要だ。「得機」が出来なければ、「接」は失敗し、「化・拿・発」も不発に終わってしまう。我々の肢体を走行中のトラック、負荷を飛び乗りの相手と喩えれば、飛んできた相手を受けてタイミング良くトラックの荷台に乗せることは「得機」ということになる。

 一方、「勢」は戦局のことで「得勢」は戦局を優位に掌握している状態のことだ。推手においては、相手の動きを制御し、自分にとって良いポジションを手に入れることを指す。上記の喩えで言うと、相手を荷台に乗せるや、発車して自分の都合のところへ運ぶことになる。

 相手からの負荷の大きさ・方向を察知するのは「聴勁」の役目だ。感覚が鈍かったら、時機を把握することは不可能になる。従って「聴勁」は「得機」の前提になる。とはいえ、その負荷の大きさ・方向が察知できても、散乱した肢体では「得機得勢」を手に入れることはできない。「得機得勢」は「完整一気」を必要とする。脚→腿→腰→手指、並びに手指→腰→腿→脚の「節節貫穿」は「機」と「勢」を得る為の用件だ。「完整一気」の太極勁がなければ、攻めてきた相手を自分の車に拉致すること(得機得勢)は困難だろう。

                                                  (2016.6.4)

 

呉式太極拳の手形

 手形とは手の形のことだ。アメブロで「形於手指」について議論してきたが、ここで手の形をテーマに、外形と体内の二つの視角から心得を記しておこう。

①手の形は武術の必要性によるものだ。

 呉式太極拳は掌を用いる動作が多いので手の形に陽掌、陰掌、立掌が多く用いられている一方、搬欄錘、栽錘、PIE身 錘、指襠錘、反手錘、いわゆる太極五錘と称される拳の技も活用されている。各名称の掌・拳にそれぞれ適した使い方 はあるが、武術的な価値はその手の形に限ることではない。手の旋転による掌・拳の陰陽変化そのものが太極拳ならで はの秘宝だ。相手に手を取られたり肢体を押されたりする時にその威力を発揮する。呉式慢架の動作で見ると、「攬雀 尾」の陰掌→陽掌、「楼膝拗歩」の陽掌→陰掌、陰掌→立掌、「雲手」の陰掌→陽掌、「上歩搬欄錘」の陰拳→陽拳→立拳、「弯弓射虎」の陰掌→立拳→反手拳…等々だ。

②手の形は気が巡る方向に関係する。

 陰掌→陽掌は気の流れの一つが足→体→手の方向なら、陽掌→陰掌は手→体→足になる。こうして動きと結びついた、 方向性のある気の循環は呼吸開合となる。呉式太極拳の場合はその流れが斜⇔正にも関係する。相手のいる推手の場合 はその循環が相手も入れて変化する。となると、手形に伴う流れの変化が「化」・「発」につながるようになる。例え ば、相手からの負荷を手→体→足という気の流れに乗せ、手は陽掌→陰掌、身法は斜→正と変化させれば、おのずから 「化」となるし、足→体→手という気の流れを相手の体へ延ばし、手は陰掌・立掌→陽掌、身法は正→斜と変われば、 「発」とつながる。実際手で相手を押さなくても、→陽掌と共に、相手との接点を介し、気の流れを相手に波及させて いけば、同じく相手の重心を動かすことができる。

 かくして武術においては外形も体内も手は重要な役割を果たしている。しかし、後者の場合、目に見えない気の流れを手の指へ伝達し陰陽表現をするのはかなりの修行が必要だ。更に、体→手を手厥陰心包経へ、手→体を手太陽小腸経へ、…のように、十四経絡又は奇経八脈を気の通路とする修行方法もあるが、武術・健康効果が増す一方、難易度も並大抵ではなくなる。

                                                  (2016.5.12)

 

太極拳の腰と腰痛

 アメブロで《呉式太極拳の腰》の記事を書いた。武術の視点で腰へのアプローチを試みたが、ここでは健康面で腰に係わる太極拳の練習方法と腰痛問題に触れてみたい。運動不足による腰の血行不良に起因する腰痛はある。一方、腰への不当な動きを重ねることによる逆のパターンもある。本編は後者を議論する。

  《呉式太極拳の腰》の中にも述べたが、腰の動きは主として前後・左右の回転だ。従って、腰痛に係わるのもその回転だ。回転である以上、軸がある。回転による負荷が最もかかっているのが回転軸になるが、その回転軸を腰椎の一点に固定すると繰り返しによる疲労で椎間板が磨耗され、腰痛の原因となる。

 腰の回転は腰椎の一点を軸にするわけではない。直接腰椎を屈折・圧迫するような回転は避けるべきだ。前後の回転でも腰椎を支点として固定してはならない。又、回転には腰回りの筋肉も大きく係わる。筋肉が硬いと伸び縮みができず、無理に前屈すると腰椎の負担になってしまう。そこで「鬆腰」がキーポイントになる。

 アメブロにおいても言及したが、日本語で言う「腰」は中国語では「ヨウ」と「クワ」からなる。「鬆腰」は先ず「クワ」の「鬆」にかかっている。「鬆」はアクションではあるが、求めるのはその結果だ。「クワ」が「鬆開」の状態にならなければ、「鬆腰」が語られないほどだ。一方、「鬆腰」ができなければ、腰痛も避けられなかろう。従って、本編の議論対象となる「腰」は「鬆腰」を含め、日本語で言う「腰」、即ち、「ヨウ」と「クワ」の両方を指す。

 要するに、「鬆腰」は腰回りの筋肉の強ばりをほぐし、腰の前後・左右のスムーズな回転が筋肉でサポートできるようにするためだ。腰の「鬆」の結果を得るには「立腰」の実現も同時に必要だ。つまり、私どもが求める腰はフニャフニャの塊ではなく、筋肉のほぐされた腰が立っている状態なのだ。又、回転軸は要るが、それが固定したものではないし、回転の支点にもならない。これに反すると腰を痛めることになろう。

                                                   (2016.3.13)

 

太極拳古典理論への理解について

 太極拳古典理論とは、筆者がアメブロで解説をアプローチし続けている《太極拳論》や《太極拳経》を代表とする太極拳の達人たちが残してくれた著作の中の言葉のことだ。絶対に守らなければいけないと後世の太極拳修行者が思っているこの古典理論への理解について考えてみたい。

  古典理論は基本的に方法論ではなく、結果論だ。最近アメブロで取り上げた「其根在脚」もそうだ。**を通じて根っこが足にあるという結果をつくるが、結果だけが描かれている。「気沈丹田」もそうだ。**を通じて「気」が丹田に沈む状態になるが、その状態だけがあるべき姿として強調されている。又、「人剛我柔」、「我順人背」も「立如平準」、「活似車輪」も同じことが言えよう。相手の「剛」に対し「柔」で対応するが、その「柔」は太極拳の柔勁のことだ。結局、**を通じて柔勁を作り、**を通じて「順」の状態を手に入れることだ。「活似車輪」は車輪のように勝手に体を動かすのではなく、**を通じて、車輪のように滞ることなくスムーズに動ける結果を指すのだ。肝心なのはやはりその**なのだ。つまりその方法と有効性の2要素だ。

 方法は太極拳の諸要領を含めノーハウの核心部分だ。有効性はトレーニングを通じて肢体と神経が所定の要求に達し、望む通りの効果を出すことが出来るかどうかだ。古典理論はあくまでもその効果を検証するためのもので物差しみたいなものだ。その物差しで測った結果、不合格となった場合は修理するかつくり直すことになる。

 上記2要素と検証用古典理論のいずれも欠かせないものだ。方法を知っていても修行しなければ、又は修行しても肢体と神経が所定の要求に達していなければ、本当の太極拳を手に入れることが出来なかろう。要求に達したかどうかを測る物差しはこの古典理論なのだ。

                                                   (2016.2.18)

                                        

太極拳の「断勁」

 アメブロで《太極拳の「三無」》を書いた。その中で「三無」の一つとして『断続がない』について議論した。ここで更にその掘り下げを試みてみたい。

 「勁」と言えば、「心」→「意」→「気」からの産物だが、「断勁」とはその「勁」が途切れるということだ。「勁」が途切れたら攻防の両方が不利になるのはアメブロで述べてきた通りだ。ここで補足したいのは連続だからすばやい変化が可能になる点だ。

 殆どの拳法は攻撃と攻撃の間に断続があり、その間に準備を必要とするが、太極拳は攻防の動きを続けながら備えることができるから、体内における「開合」があっても特に攻撃の為の、外形上見えるような準備を必要としないのだ。その特徴の根本は連続だ。断続は隙を生じ、その隙が自身の均衡を脅かされ兼ねない。そういう意味で『断続がない』という点は武術における太極拳の革新的な長所とも言えよう。断続がないから攻防が一体となり、相手の動きを機敏に察し、それに応じて自身を最も適切な動きへすばやく変化させることができる。一つの動作が方向や速度等において変更不能になった状態を武術で「老」と中国語で表現するが、太極拳は他の武術よりは「老」の状態が少ないと思う。

 では、太極拳の「断勁」の原因は何なのか。元凶の一つに力が挙げられる。何故ならば力は長続きが出来ないからだ。力を入れる度に、その力が尽きた瞬間に「断勁」が生じてしまう。次に挙げられるのは「意」の緩みだ。「意」は緩みによって途切れると「勁」そのものが途切れるのだ。外形が途切れても「意」が途切れてはいけない。「勁」のモトが「意」だからだ。これは即ち『形断意不断』だ。「鬆」は「勁」の生成には必要不可欠だが、「意」の緩みを引き起こす引き金にもなりがちなので、注意と訓練が必要だ。矛盾と言えば、太極拳自身が矛盾の中の産物なのだ。

 「断勁」があってはいけないのは推手の必要性によるものだが、修行の大半はやはり慢架套路だ。いや、極端を言えば日常のすべての動きだ。太極勁たるものは「意」の存在が根幹にあり、「意」が続く限り、綿々と続くものだ。

                                                   (2016.1.9)

                                        

太極拳の「気宜鼓蕩」と「気斂入骨」

 アメブロで《太極拳の「気」と「神」》の記事を書いた。その中で「気」を「鼓蕩」、「神」を「内斂」にするのが宜しいと《太極拳経》の教示を議論した。「蕩」と「斂」は意味が相反し、「気」は「斂」を必要としないと捉えられがちだが、「鼓蕩」は「気」の一側面だけで「気」は「内斂」も不可欠だ。「気斂入骨」の言葉は武禹襄氏著《打手要言》から出ている。「気」は単に「斂」を必要とするのみならず、骨への収斂が求められている。

 「内斂」がなければ、「鼓蕩」も成り立たなかろう。「内斂」が「鼓蕩」のモトになるのだ。つまり、「内斂」の蓄積が「気」を生み出す。「気」の量があってはじめて「鼓蕩」が可能になる。これはいわゆる「練精化気」のプロセスだ。

  「気斂入骨」を実現させるには、太極拳の身法と心法が問われる。身法とは、「虚領頂勁」をはじめ、「含胸抜背」、「尾閭中正」などの諸要領のことで、心法とは、心→意→気→形のメカニズムを各動作に具現させる意念の持ち方のことだ。前者は「正」を、後者は「静」を前提とする。言い換えれば、我々の修行に「正」と「静」がなければ、的確な身法と心法の実現も困難となろう。身法と心法が的確でなければ、幾ら修行しても「気斂入骨」にならなかろう。

  その「正」は外形上だけではなく、目に見えない体内の微調整も必要だ。その微調整は主として、筋肉・骨格に対し、「鬆」や陰陽によって行われる。その正確さは歯車による工作機械を例に例えれば、歯と歯が噛み合わなければ、機械が動かないくらいだ。自分が「正」と思っていても実際僅かの違いで「偏」になっていることがある。その正確さは姿勢が美しいとか、動作が標準だとかではなく、筋肉の力を使わずにどの方角から負荷を受けても簡単に均衡が崩れるかどうかを見るのだ。

 一方、精神面の「静」がなければ、落ち着きがない。落ち着きがなければ、気持ち良さを感じないし、「意」の専念もできない。「意」の専念ができなければ、「気」の集散・昇降も困難となる。そうなると、「鼓蕩」も「内斂」も語られなかろう。仲間が集まって練習したり音楽をかけて練習したりする場面を見ることがあるが、それはあくまでも人に見せる為のもので、自分の為の太極拳修行ではないことは「静」の原理からも察することができよう。

                                                   (2015.12.5)

 

太極拳修行段階の「換勁」

 アメブロで《太極拳の「軽霊」と「貫串」》を書いた。その中で『「軽霊」の前提は「力」を「勁」に換える、いわゆる「換勁」ということだ』と述べた。ここで「換勁」についてもう少し掘り下げてみる。

 「勁」は「内勁」とも言う。筋肉から生まれる「力」に対し、「意・気」の作用による体内エネルギーの増幅変化から発するものが「勁」だ。前者は局部的なもので発生後の変更・調整は出来ないが、後者は体全体から生み出されるもので「意」による変更・調整が可能だ。「勁」は太極拳に限らず、「意」を用いてトレーニングすれば他の武術でもつくることができる。但し、太極勁は太極拳の独特な心法(意)及び要領によってつくられ、綿々と続く「剛柔相済」の部分は他の拳法と一線を画するところだ。

  太極拳の修行段階における「換勁」とは、太極拳の動作を、力ではなく太極勁で成し遂げるようになるまでの過程を指す。その期間は個人差はあるものの、一定の年月を要する。何しろ、我々の日常は力に頼ってばかりいる。太極拳も例外ではなかろう。習い始めた頃は誰もが手足や体に力を入れて外形を作っているに違いない。原動力が力でなければ、動作が出来ないからだ。しかし、太極拳の動作を力で行い続けては太極勁は永遠に出来上がらない。徐々に「力」の代わりに「意」を用い、筋肉・関節の「鬆」や陰陽虚実を通じて「意」に「気」が伴うようになれば、その積み重ねの先に動作の原動力が次第に「力」から「太極勁」に置き換わり、「換勁」の仕上がりとなる。

 「換勁」における最大の難点はやはり「力」を捨て難い点にある。毎日当たり前のように繰り返される「力」の習慣がそう簡単に直らないのだ。とりわけ推手において相手に自分の均衡を脅かされた際におのずから「力」で均衡を取り戻そうとする。その繰り返しが「換勁」の過程を延ばしてしまうことになると考えられる。

                                                  (2015.10.30)

 

「人剛我柔」の難しさ

 アメブロで王宗岳氏の《太極拳論》における推手の要義として先ず「人剛我柔」を挙げた。ここでそれをもう少し掘り下げてみたい。

 「人剛我柔」とは、相手から「剛」で攻められた時に「柔」で対応するということだ。では、「剛」又は「柔」とは何か。実は「剛」も「柔」も勁の一種で「剛勁」は実・陽を呈し、「柔勁」は虚・陰を呈するものだ。勁のもとは「意」なので、勁である以上、「意」の存在がある。ここで議論する対象は「我柔」の「柔」だ。力を抜くだけで「柔」になるわけではない。重要なのは「意」で虚・陰を作ることだ。

 ところが、「意」があれば、自動的に虚・陰になることでもない。「意」に「気」が伴うかどうかがキーポイントだ。「気」が伴うには、集めた「気」の量と、「気」が流れる通路の開通具合が係わる。そこで太極拳の身法と要領が問われる。虚・陰は「意」に伴った「気」の加減で作られる。

 難しいのは自分勝手に虚・陰を作るのではなく、相手から与えられた「剛」に対して作るのだ。作るタイミングが間違えば効果がないどころか、相手に利用され、不利になってしまう。そこで相手の動きがいきなり速くなってもくっついていなければならないし、急ブレーキを踏まれても追突しないように付着するのだ。又、相手の動く方向も前後左右並びに前進後退のいずれもタイムリーに作った虚・陰で同一方向の付随が出来なければならない。付随とは、相手からの「剛」に抵抗しないだけでなく相手との肌の接触も維持しなければならないということだ。

 「剛」と「柔」は相対的だ。自分が作った「柔」より相手のほうがもっと「柔」である場合は「人剛我柔」にはならない。つまり、相手から軽い負荷がかかった場合、その負荷よりもっと軽い「柔」(虚・陰)を作って応じなければ、「人剛我柔」にはならないのだ。「軽」も「柔」も限界がない。そこに太極拳の力量が量られる。

 「人剛我柔」の最大の障害は人間の意識と普段の習慣だ。武術としての太極拳は見せ物ではなく、相手に勝てないと意味がない。その理屈は正しいが、負け惜しみに「柔」=「弱」、「剛」=「強」という誤った認識が加わり、持ち前の力に油を注ぎ、ついその力を頼りにしてしまうのだ。一方、我々の日常生活も力に頼ってばかりいる。それが意識的又は無意識的に繰り返され、癖になってしまっている。その二つの障害物が排除されなければ、「人剛我柔」の実現も困難になろう。

                                                  (2015.10.4)

 

太極拳理論の先を考える

 太極拳の理論は中国語で「拳理」と言い、その中で指針的な存在として最も重要視されているのは王宗岳氏の《太極拳論》だ。それ以外の代表的なものに、著者の争議はあるものの、武禹襄氏の《太極拳論》(張三豊氏の《太極拳経》とも呼ばれている)、《十三勢行功心解》、《十三勢歌訣》、《打手歌》がある。

 こうした理論について筆者はアメブロサイトで順に解説していくようアプローチを試みているが、中国語の同音異字や曖昧さにより理論への解釈が統一されていないこと、体内感覚は個人差や修行段階によって異なること、理論に基づいた修行の成果をそう簡単に実感又は検証できないことなどにより、理論を疑うことなく的確な理解の下、成果が出るまで実践し続けていくことは並大抵なことではない。又、実践し続けていっても成果が出ないこともありうる。よく太極拳と縁がある、又は縁がないと表現するが、関わるファクターを以下三つ挙げる。

 ①抽象的で広義に捉えられる理論を的確に把握するのにその言語が生まれた当時の中国文化・思想への理解が必要だ。一見屁理屈で文字の遊びのようだが、奥深い中華思想・文化・哲学がその生成土壌になっていることを忘れてはならない。太極拳の根本を成す陰陽理論はその代表的な例だとも言えよう。その理解の度合は太極拳理論の理解に比例するし、太極拳理論への理解の深さは太極拳スキルの伸び幅に直接関係する。

 ②具体的な修行方法が示唆されていない理論は結果論が多く、結果にたどり着くまでに正しいステップを踏む必要がある。小学生並の知識しかない者は大学の授業を聴けるはずがなかろう。太極拳も同様だ。前のステップの達成がなければ、次のステップの理論や感覚の話も馬の耳に念仏だという結果になる。ステップ相応の理論の指導と達成有無の点検が常に必要だ。それが弟子入りという伝統的な伝授方法の考え方だと思う。教室伝授の限界もそこにあろう。

 ③太極勁は太極拳の理論に基づいた修行方法でしか生成できない。勁は全ての動きを支えるため、太極勁と異なる勁又は力が動きを支える習慣になっている場合は、修行すればするほど太極拳から遠ざかっていくことになるし、太極勁に変身させるのもかなり労力と日数を要する。武術の俗語に『学拳容易改拳難,練勁容易改勁難』(訳:拳法は学ぶのが易しいが矯正するのが難しい。勁は修練するのが容易だが変更するのが困難だ)があるが、その通りだと思う。場合によって、全く習っていない、素質の良い、太極拳に夢中の修行者の指導より難しい。

                                                  (2015.9.3)

 

太極拳の「後発制人」

 アメブロで《太極拳推手の「捨近求遠」》を書いた。相手からかかった力を利用して「後発制人」をはかることが太極拳の基本理念だと議論した。ここで「後発制人」を更に掘り下げてみることにしよう。

 「後発制人」の「後」は相手からかかる力のスタートより時間的に後のことで、自分の肢体で受けた後ではないことが留意されたい。そのタイミングは難しいが、「聴勁」がものを言う。一方、「後発」の「発」は肌で接している相手からスタートされた力に対する自分の体内外の反応だ。その反応の中味はいわゆる「化・拿・発」だ。

 「制人」とは人を制する意味なので、「後発制人」を平たく言うと、相手から発する力に自分の均衡を脅かされる前にそれに対する体内外の反応で相手を制すということになる。一旦発動した力が抵抗を受けず加速されるとその力を発した体がアンバランスの状態に陥ってしまうのをうまく利用するのだ。

 では、相手からアクションが起きなければ太極拳の威力が発揮できないのか。答えはその通りだ。但し、推手トレーニングにおいては相手の力を誘い出して「後発制人」を施す「問勁」という手段がある。「問勁」に使う勁は相手に利用されないほど軽い「虚勁」だ。実際、相手と肌で接する瞬間、秤で物を量るのと同様、自分より相手の重さが勝てば、それを自分にかかる力として利用し、「後発制人」を施すことが可能だ。筆者も推手教室で相手の手と接するとバランスを崩す実技をよく披露する。

 「後発」の難点はタイミングの良い「後」と相手の力への体内外処理の「発」だ。前者は「聴勁」、後者は「化勁」と手法がポイントだ。その中で陰陽虚実が根本を成す。「制人」はその結果だ。

 武術として生まれた太極拳の修行目的はこの「制人」だと思いがちだが、答えはノーだ。金庸氏の語った一節の引用翻訳で当文の纏めとしよう。

 『…最高境界の太極拳は…「以柔克剛」(訳:柔を以て剛を制す)ではなく、もとより「克」(訳:制す)を求めないのだ。常に頭の中に相手を制す思いを持っていては、太極拳の上位境界に達することが出来なかろう。…』

                                                  (2015.7.25)

 

太極操について

 アメブロで《太極拳の「陰陽相済」》を書いた。その中で『「陰陽相済」の出来上がりが太極拳修行における大きな飛躍だと筆者が理解する。そこからはじめて套路・推手の一挙一動が太極拳だと言えることになろう。』と締めくくった。では、それまでは太極拳とは言えないのか。

 先日楊式伝承者の蒋忠保師と雑談した際に、世の中の太極拳という話題に触れ、大半は太極拳ではなく、太極操だと彼が語った。「太極操」という言葉は彼の発明だと最初は思ったが、ネットで検索をかけたところ、1930年代、呉鑑泉始祖に師事した当時の国術協会会長の諸民誼氏が「太極操」の発明者だということが分かった。

 同氏が太極拳を「太極操」に改編した目的は普及だ。伝統太極拳が難しすぎて普及には向かないからだ。確かに、アメブロで議論した「陰陽相済」は体の中の動きで目に見えないし、脳及び肢体への要求も高いからそれの分かる師匠から個別に特訓(WEIJING)を受ける必要がある。そうなると太極拳人材を大量に世に送り出すことは困難になる。一方、外見だけ求める「太極操」は太極拳の動作外形を体操のように演じれば良いので、演じ方の上手下手は別として誰にでも簡単に出来る運動になる。

 太極拳と太極操の一番の違いは武術的な価値の有無だ。前者は少林拳など他拳法に対抗する武術として世に生まれた拳法であるのに対し、後者は前述のごとく大衆体操として生まれたものだ。武術としての価値はさておき、ここで両者の健康における長短を考えることにしよう。

 太極拳で考えれば、陰陽原理で肢体の経絡を気を巡らすことは五臓六腑の滋養となるので健康に資することは言うまでもない。とはいえ、武術である以上、敵・相手と戦ったり腕比べしたりすることがあろう。怪我は別として、頻繁に気を体外に放出することは健康を著しく損ない、寿命短縮にさえなり兼ねない。この点は古代の人もよく分かっている。明代の王宗岳氏が《太極十三勢歌》の中で『想推用意終何在,益寿延年不老春』と語った。武術としての太極拳の最終目的は人との戦いではなく長寿のためだとはっきり後生に明示した。その理念が貫ければ、健康価値においても太極拳のほうが太極操を勝ることに異議がなかろう。呉式三代目の馬岳梁大師の98歳の長生きはその裏付けでもあろう。

 一方、太極操で考えれば、運動不足の人が太極拳のゆっくり動く外形を模倣し体を動かすと健康効果が出ることも事実だ。又、本当の太極拳より易しいから続ける人も多く、大衆体操として普及率が高いことも否定できない。但し、他の競技スポーツ同様、人と競うためにやりすぎると関節・靱帯の損傷を来たし、健康を損ないかねない点も無視できない。

  結論から言えば、太極拳も太極操もスポーツの一種で優劣は語られない。とはいうものの、それを習得しようとした人間は自分が一体どっちを選択するかをはっきりさせる必要があろう。太極操なのに太極拳と錯覚して楽しむほうも可笑しいし、そういう世の中になってしまったことも大変残念な気がしてならない。それなら1930年代に提唱 された太極操の名称を復活したほうがいいのではないかと思ってしまう。

                                                  (2015.7.5)

 

太極拳推手の「走粘」と「従人」

 アメブロで《太極拳の「走」と「粘」》を書いた。その記事の最後に、『…最初から使う動作を決めて無理矢理に強行すると、純粋な拉致になり、「走」ではなくなる。…』がある。何故そうなるか、「走」と「粘」を発揮するには何がポイントなのか、こうした設問を切り口として異なる角度から議論を深めてみよう。

 筆者の推手教室で「先生と推手をする時は自分の手はとられるように、思う通りに動けない」とよく生徒に言われる。これは筆者の手法に「走」と「粘」が裏にあるからだ。

 最初から使う動作を決めてしまっては、相手と抵抗(ding)したり相手から逃避(diu)したりするので「走」も「粘」もならない。「走粘」の成功には「捨己従人」(自分の動きを優先せず相手に従って動く)が必要不可欠だ。「従人」は「走粘」の機会を与えるので太極拳推手において非常に重要なポイントになる。

 とはいえ、「走粘」を成功させるための「従人」は幾つかの難点がある。先ず、相手がいつ、どの方向へ、どのくらいの力と速さでかかってくるかを察知する能力が必要だ。タイミングや力の方向、大きさ、速さの違いは、上記「ding」か「diu」を来たし、結局「従人」が失敗に終わってしまう。この能力はいわゆる「聴勁」だ。次に肢体・関節の対応能力、即ち「鬆」の度合い、強さ・速さへの許容度が係わる。これは果てしない能力だ。ある強さ・速さまでは「従人」が出来るが、その限界を超えると従えなくなることは当然起こりうることだ。言うまでもなく、「走粘」の発揮もそこまでだ。

 従って、太極推手の「走粘」の能力は「従人」の能力だと言っても過言ではなかろう。

                                                  (2015.5.30)

 

太極拳の修行

 アメブロで《太極拳の陰陽の極意》を書いた。その記事の最後に次のように締めくくった。

 『「以心行気」、「以意催形」はモノ作りの製法に相当する。この製法を用いなければ、当然所定のモノが出来上がらない。とはいえ、製法を用いるには、製法に必要とされる要件が満たされなければならない。その要件は太極拳の先人達からノウハウとして練り上げられた諸要領、諸心法だ。「意」→「気」のプロセスが成り立つか いつ成り立つかは、太極拳との縁も含め、個人差はあるものの、基本的にはその要件の達成度にかかっている。自身の修行度合以外に、師匠の口伝、矯正、推手における「ウェイジン」が不可欠になる。』

 太極拳の修行について蒋忠保師から聞いた修行の話を思い出した。

 蒋師は楊式太極拳の継承者だ。同氏は楊澄甫氏の弟子である田兆鱗氏直伝の徐秀鳳氏の入室弟子、更に馮志強氏に陳式太極拳を師事し、楊式と陳式の両方において伝統的な伝授を受けた上海有数の達人だ。

  彼の話では、当時徐秀鳳氏のクラスに月謝1元と月謝5元という2種類があったそうだ。若者の月収が一律36元だった当初は月収の1/36か5/36に相当する金額だ。両者の伝授の違いは1元クラスは套路そのものだったのに対し、5元クラスは毎日「起勢」の動作ばかりだった。前者は套路の外形動作の伝授がどんどん進められていたが、後者は個々人の実状に合わせ、早くて3ヶ月、遅ければ1年以上「起勢」ばかり教えられていたということだ。後者は耐えられずやめていく人が大半だったが、残った人は後日皆達人になっていると蒋師が語った。

  この話を聞いた当初は筆者もそうかと思っただけだったが、自身の修行に伴い次第にその真意を悟ってきた。「起勢」でその人が太極拳と縁があるか否かを見ること、陰陽の基礎作りからスタートすることが主目的のようだ。陰陽の基礎作りを端的に言えば、「心→意→気→形」がしやすい肢体並びに太極拳の身法を作ることだ。その人の適性確認もその体作りも当然日数がかかるのだ。

 太極拳の伝統的な教え方・教わり方並びに修行の基本スタンスを改めて考えさせられた。

                                                  (2015.4.23)

 

呉式太極拳の「斜」と「正」

 アメブロで《太極拳の目線と「偏」》の記事を書いた。その中で目線について、『「斜」は「偏」ではない。むしろ、「正」にすると「偏」になることすらある。』と論じた。「斜」と「正」はいったい何なのか。呉式太極拳の見地から議論を少し深めていきたい。

 周知の通り、呉式太極拳は「斜中正」を代表的な特徴としている。「斜」と言われるのは弓歩の際に後頭部から背中を辿って踵まで形成する面が地面に角度を成すからだ。この角度を直角三角形の鋭角とし、地面を隣辺(底辺)とすれば、この面は斜辺になり、重心を通る垂線が対辺になる。三角形を成している以上、三角形の安定が備わっている。その中で「斜」は欠かせない要素だ。一方、地面の底辺が変えられない以上、それと直角を成した対辺の形成が重要になる。その対辺が「斜中正」の「正」だ。つまり、対辺は重心を通る垂線と重ねねばならないのだ。「斜」は問題ではないが、垂線とずれが生じる対辺が「偏」になるため問題だ。

 対辺が重心を通る垂線と重なった場合でも、この対辺を描いたのが点線なのか実線なのかによって効果が異なる。つまり、筋肉の「鬆開」や上下の「対斉」に左右される「気」の昇降の度合いによって描かれた対辺の力度が異なり、その力度が呉式太極拳の威力に大いに係わるのだ。上下の「対斉」(揃える意)こそ、目に見えない「正」だ。上下のずれが少しでもあれば「偏」となり、「気」の通路が妨げられ、三角形が成り立たなくなる。無論対辺が曲線なら辺にならず三角形の論外となる。

 アメブロで議論した目線の「斜」は呉式太極拳の套路の中でも随所確認することができる。「単鞭」、「白鶴亮翅」、「手揮琵琶」、「抱虎帰山」、「肘底見錘」、「斜飛勢」等、枚挙しきれないほどの例がある。推手においても同様だ。「四隅」の方向は中心から見れば、皆「斜」だ。この「斜」を「正」にすると、上下の「偏」が生じてしまう。「偏」は誤りだが、「斜」は誤りではない。但し、「斜」は「正」を基準にしている。「正」がなければ、「斜」を語る意味を持たない。両者は陰陽対拉の関係にある。

                                                  (2015.3.26)

 

太極拳の上下の「偏」

 アメブロで《太極拳の「偏沈」と「双重」》を二回に分けて書いた。その中で左右と前後の「偏」には触れたが、ここでは、上下の「偏」について少し議論することにしよう。

 はっきり言って上下がずれてはいけないのは「気」の通路を確保する為だ。「気」の通路は「意」の導引だけでなく、体のパーツとパーツの相互位置関係も大きく係わる。パーツとパーツがずれない為に身法に関する諸要領があるほどだ。

 例えば、「尾閭中正」は骨盤と頭部の位置関係を規定し、「含胸抜背」は胸部と背部の上下通路を確保する要領だ。また、「沈肩墜肘」は「含胸抜背」の必要性によるものでもあるし、「気」の下降の為にも欠かせない。更に「虚領頂勁」は全体を上から統率する要領として「気沈丹田」と上下の軸を形成する。

 内家拳には「外三合」の要領がある。太極拳も内家拳として例外ではない。「外三合」とは、手と足、肩と胯、肘と膝が上下方向にずれてはいけないことだ。同じ内家拳の形意拳と八卦掌に区別して、太極拳は「気」の通路を確保する為に「外三合」を「内三合」との融合で求めるのだ。「内三合」とは、心と意、意と気、気と勁が合致するということで、まさに、「心」→「意」→「気」→「勁」のメカニズムなのだ。各ステップを確実にするには、体のパーツごとの状態及び相互の位置関係が重要になってくる。そして、パーツごとの状態及び相互の位置関係の最善化は修行による太極拳の諸要領の達成度にかかっている。

 太極拳は「八面ZHICHENG」を求める。南に向かって立った場合、東西南北の四正方向と北東、北西、南西、南東の四隅方向の八つの方位を「八面」という。八つの方位から支えられている状態を「八面ZHICHENG」という。ところが、八面に網羅されていない上下の支えがなければ、「八面ZHICHENG」で得ようとする均衡が根底から崩れてしまう。上下の支えを得るには、上下がずれず、「気」がスムーズに上下するように体のパーツごとの嵌め合いを内外から求める必要があろう。

                                                  (2015.2.9)

 

太極拳の「虚」

 アメブロで《太極拳の「偏沈」と「双重」》を書いた。その中で『虚にすることとは体重相当分の「気」を掛けることだ』と議論した。ここで「虚」の正体を更にアプローチしてみることにしよう。 

 「虚」を辞書で調べると『中身・実体がないこと。むなしいこと。うつろ。から。』という解釈が書いてある。これは太極拳の「虚」に最も近い意味だと考える。中身がないとは殻があって中がスカスカの状態だということだ。ここでポイントとなるのは、中身の「すかすか」状態並びにそれを覆う殻のことだ。

 「虚」の存在にもう一つ欠かせないものがある。これは即ち「実」だ。「実」がなければ、「虚」もない。両者は増減による割合の違いがあっても同時に成立する存在で片方だけになることはない。すかすかの「虚」に対し、「実」は充実した中身を有する。

 すかすかであろうか、充実であろうか、その充填物は「意」で集めた「気」だ。「気」の加減が虚実を生む。『虚にすることとは体重相当分の「気」を掛けることだ』という表現は、体重と反対側の足を虚にする時のケースを指す。加減を間違えると虚実が逆転する。どこまですかすかに出来るか、どこまで充実に出来るかは内功レベルをはかる重要なファクターだ。

 「虚」は中がすかすかで空になっていても「意」で繋がっている殻がある。推手でタブとされている「Diu」になるのはこのような殻がないからだ。「実」から「虚」へ変化するには殻の中を徐々に空にしていくことだ。殻を相手に感知させないようにしても良いし感知させるようにしても問題がないが、無くしてはならない。 

 

 虚実は陰陽だ。陰陽は太極拳の生命線だ。推手にしても套路にしても陰陽虚実の変化がなければ太極拳とは言えない。これは全ての動作においてのみならず、全ての姿勢においてまで要求されることだ。 

                                                   (2015.1.24)

 

太極拳の「立」と「鬆」

 アメブロで《太極拳の「平準」と「車輪」》の記事を書いた。ここでその「立」を「鬆」と結びつけて、少し議論を深めていきたいと思う。「立」と「鬆」について下記幾つかの心得を記しておこう。

 ①「 立」は下から「立てる」のではなく、上から「吊る」のだ。言うまでもなく、これは「意」によるアクションとな   り、太極拳の用語で「虚領頂勁」、又は「頂頭懸」と呼ばれる要領だ。

 ②「立」の負荷は重力と係わる。負荷の中身に「気」が加わる。負荷の大きさは「気」の沈みと比例するし、「対拉」   (引っ張り合い)の度合いとも比例する。

 ③「鬆」も「意」によるアクションだが、結果ではない。「鬆」の結果は「開」だ。「開」は「立」を欠かせない。

 ④「鬆」は「虚」と係わる。「虚」があれば必ず「実」がある。虚実は即ち陰陽だ。陰陽は「気」を運び、「開」はそ   れを促す。

 ⑤推手の「化」は、「鬆」のみならず、「立」も大いに係わる。又、「拿」と「発」も同じことが言える。

 ⑥「立」と「鬆」は、軸の陰陽回転のみならず、発條勁原理にも大きく関わり、太極勁の形成に欠かせないファクター   だ。

 ⑦「立」と「鬆」は目に見えない内功の修練に属し、基本的に慢架でトレーニングし、推手で検証する。

                                                   (2015.1.4)

 

太極拳の「四両」で「千斤」に勝てるのか

 アメブロで『太極拳の「四両撥千斤」』の記事を書いた。武術としての太極拳の強みの一面を披露したが、本当に太極拳の「四両」で「千斤」に勝てるのか。ここで再度その客観性を議論してみることにしよう。

 「四両撥千斤」のポイントは、太極拳を用いることによって相手の「千斤」が自分に掛からず無用になるだけでなく、相手自身がその「千斤」によってバランスが崩れるところにある。ここで中国の著名武術小説家・金庸氏の言葉を引用する。

 同氏が呉式太極拳の三代目・呉公藻氏の遺著《太極拳講義》に後書きを書いた。以下その一部を抜粋する。

原文:…(太極拳)基本要点是保持自己的重心,設法破壊対手的平衡。但設法破壊対手的平衡,並不是主動的出撃,而是   利用対手出撃時必然産生的不平衡,加上一点小小的推動助力,加強他的不平衡。 …(太極拳)力気的来源在於対   手,我只是転移対手力気的方向。対手所以失敗,是他自己失敗的,他是被他自己的力気所撃倒。…  

訳文:…(太極拳)ポイントは自身の重心を保ち、相手の均衡を崩すのを図ることだ。ところが、相手の均衡を崩すのを   図ることの中味は自ら進んで出撃するのではなく、相手が出撃する際に生じ兼ねないアンバランスを利用し、その   アンバランスが増大するよう少し後押しの助力を加えるだけだ。…(太極拳)パワーの源は相手にあり、自分はた   だ相手の力の方向を変えるだけだ。相手の失敗は相手自身によるものだ。彼は自身の力によって倒されるのだ。…

 太極拳の核心部分を平易に説いた一節だった。太極拳の「四両」で「千斤」に勝てる根拠もそこにあろう。しかし、太極拳の修行者であれば誰でもそれが出来るとは思わない。相手からの力によって自分の根幹が揺るがされないためには、相手の力の大きさ・速さ相応に「接」→「化」が出来なければならない。相手が出撃する一瞬に生じたアンバランスを察知する「聴勁」も相応のレベルでなければならない。

 表題の設問に対する解答のキーポイントはこの「相応」なのだ。相手からかかってくる「千斤」に潰されない、又は相手の速さに即した「接」の能力が先ず必要だ。力の大きさ・速さに限りがないから、「接」のレベルがそれ相応に及ばなければ、太極拳の技量の発揮も不可能になる。その場合は、依然として『有力打無力,手慢譲手快』という一般論が成り立ち、「四両」で「千斤」に勝てることができないことになる。力の大きさ・速さへ対応できる太極拳の技量があってはじめて「四両撥千斤」が語れるのだ。

                                                  (2014.11.29)

                                         

太極拳の「軽」とは

 アメブロで書いた『太極拳で極める「霊」』の記事の中で「霊」は「軽」の結果で「軽」も「何か」の結果とし、その「何か」を探ってきた。では、「軽」とはいったい何を指すのだろう。

 力を入れないだけで「軽」になるのなら事は簡単だが、推手の場合は相手の手と接している自分の手の制御力が弱くなる途端、相手にその隙から追い込まれたり、その接点から抜かれた手で直接自分の体を押されたりして窮境に立たされてしまう。結局、力を入れないつもりであるその弱まりが推手のタブーの「Diu」となってしまう。言うまでもなく「軽」はその弱まりを指すわけではない。

 直接体を押されること自体は不利になるとは限らない。但し、人間は誰しも均衡が危うくなると必死に抵抗する本能を持っている。そうなると、力を入れないつもりだとは言え、結局その弱まりが力勝負の抵抗か失敗に繋がってしまう。かといって、力を入れて制御力を保とうとするとその力を相手に利用され、「背」の状態に追い込まれ兼ねない。言うまでもなく、その力は「軽」とは正反対で、太極拳の原理とかけ離れることになる。

 総論で言えば、太極拳の「軽」は省エネのことを指す。内功や多様な手法を用い、相手に力があっても使えない状態に陥らせ、自身は過不足のない勁で最も効率的に相手の均衡を崩すことだ。各論で言えば、相手からかかった負荷を自身の「気」の流れに呑み込ませること、相手からかかった負荷の向きをずらすこと、相手との肌の接触面積を変えること、身法を変化させ、相手に「背」のポジションに追い込ませること、相手が余儀なく自身の安全に手を回すよう脅威を与えることによって相手からの攻めをくい止めること、等々だ。要は相手との力勝負的な抵抗を避けて省エネ、即ち「軽」を実現させることだ。

 「軽」は方法と結果との両方の意味合いがある。上記「軽」は結果なのだ。「力を入れない」としての「軽」は方法の「軽」だ。方法=結果ではない。両者の間に「積柔成剛」のプロセスが不可欠だ。メインツールは套路でキーポイントは「気」だ。「気」の昇降開合が出来なければ、本当の「軽」は語られなかろう。

                                                 (2014.10.12)

                                        

太極拳の「捨己従人」と「陽奉陰違」

 言語にプラスイメージとマイナスイメージがある。中国語では、「捨己従人」はプラスイメージ、「陽奉陰違」はマイナスイメージとされている。自分を犠牲にして人に従う「捨己従人」に対し、「陽奉陰違」は相手に表では従う態度を示しながら裏では逆らう行動を取る、といった表裏不一致の行為だ。言語のイメージ云々は兎も角だが、太極拳推手はその両方の精神を備えている。アメブロで「捨己従人」について議論したので、ここで「陽奉陰違」を主題とする。

 「陽奉陰違」は「陰奉陽違」とも言う。太極拳推手の場合はむしろ後者のほうがより実情にふさわしい。日常的にこの言葉を使う時は陰陽を表裏の意味とするが、太極拳においては正に陰陽原理を指す。つまり、相手から負荷がかかった時に陰・虚で従い(陰奉)、陽・実で相手に打撃を加える(陽違)、ということだ。この「陰奉」と「陽違」は前後に行われるのではなく、同時発生なのだ。

 「陰奉陽違」の難しさは「陰奉」にある。相手からの負荷に対し、陰・虚を以て対応できるかどうか、抵抗せず従うことができるかどうかの2点がキーポイントだ。肢体に正しい反応が出来るまで呉式太極拳の慢架と推手のトレーニングを十分にしておかなければ、陰・虚のつもりで陽・実になったり、相手の肢体から離れて、従えなくなったりする。

 「陰奉陽違」は「捨己従人」と一見正反対だが、実際は同じことだ。「捨己従人」は「奉」の一面を強調しているだけで最終目的はやはり「違」だ。それもそうだ。「違」がなければ、推手自体が成り立たない。但し、「違」よりは「奉」のほうが断然難しい。ただの「違」はトレーニングの必要もなく、誰でも出来る。世の中の推手もこのような「違」が大半を占める。一方、「奉」の中身は以前議論した『不Diu不Ding』だ。その要は陰陽にあるが、陰陽の母体は「気」だ。「気」は焦って感じ取るものではない。とはいえ、個人差はあるものの、ステップを踏んで正しい修行を重ねていけば、感じてくるはずだ。内功の修行はその後になると効果が倍増し、益々面白くなる。

                                                (2014.8.2)

 

太極拳の「化」の攻防原理

 アメブロで『呉式推手の化勁』を題に、《太極拳論》の『左重則左虚,右重則右杳』を議論してきた。「虚」も「杳」も陰の一面だ。それと同時に陽の一面も太極図のごとく変化してはじめて陰陽原理が成立するのだ。武式太極拳の二代目の李亦余氏が『左重則左虚』の後に『其右已去』、『右重則右杳』の後に『其左已去』と付け加えた。つまり、左側における「実」→「虚」の変化に応じて右側においては「虚」→「実」が同時に行われるのだ。こうして相手からの負荷に対する「実」→「虚」の変化は「陰化」と言い、目に見えない内功による「化」の手段だ。それを「防」とすれば、相手の均衡を崩す「虚」→「実」のプロセスが「攻」となる。

 上記のごとく、「実」→「虚」と「虚」→「実」は相手の負荷の掛け方や感じ方にもよるが、基本的には同時に行われるものだ。これが太極拳の陰陽原理であり、攻防原理でもある。『左重則左虚,右重則右杳』の前提が「左重」又は「右重」なので、相手の「攻」が先で、自分の「防」即ち「化」がそれに対する反応とされるが、上記陰陽原理に基づくと、「防」の後に「攻」が始まるのではなく、「防」=「攻」だ。相手にしてみれば、自分の「攻」=相手の「攻」=自分の不均衡ということになる。太極拳の「後発先至」の原理はそれによると考えられる。又、それは太極拳の魅力的な所在でもあり、他の拳法と一線を画するところだ。

 『左重則左虚,右重則右杳』が「後発」を前提にしているから、相手からの「攻」がなければ、太極拳の陰陽原理が使えないと思いがちだが、実際はそうではない。相手と肌で接すると必ず軽重が生じる。「攻」の意がなくても、接点において負荷が「重」となったほうが「攻」となる。更に相手の「重」を誘い出すいわゆる「問勁」の手段もある。「後発先至」の威力は「問勁」の後でも十分発揮できる。

                                                  (2014.7.19)

 

「忽隠忽現」と「太極勁」

 アメブロで《太極拳の「忽隠忽現」と「陰陽虚実」》を書いた。それを踏まえ、その極意への更なるアプローチを試みる。

 太極拳の「忽隠忽現」の根本を解明するには、先ず「太極勁」、即ち陰陽原理への理解が不可欠だ。「太極勁」についてはこれまでに何度か触れたが、一般的に「剛柔相済」又は「陰陽相済」の勁とされているが、「陰陽」又は「相済」への具体的なイメージがつかみにくいのも否めない。確かに「陰陽」又は「相済」の意味合いは誰でも分かるように言葉で正確に解釈することは難しいものだ。ここでのアプローチはある段階におけるヒントに過ぎないのかも知れない。

 勁の流れは一方通行ではなく、相反する双方向の二本立てだ。その中身は性質が相反する二種のもので両方は度合いの増減があってもその比率が常に同等だ。これが「太極勁」だ。この勁は太極拳独特のもので同じ内家拳とされている形意拳などとも異なる。太極拳の魅力も修行の難しさもそこにある。

 「太極勁」の原理が分かれば、「隠現」の極意への理解もしやすくなる。つまり、接点において、二本立ての内、一本が限りなく虚となった場合は「隠」となるし、実となった場合は「現」となる。「陰陽虚実」の変化は意によるものでいつでも可能なので「忽隠忽現」となる。従って、「隠現」の極意はやはり陰陽にある。その「相済」とは、流れが正反対のものが同時同量で発生・共存することだ。こうした陰陽関係について武式太極拳第五代継承者の故・郝少如大師の喩えを日本語に訳すと、『蛍のごとく光ったり消えたりする』、『三枚張り合わせられた合板の真ん中の一枚が抜かれたようだ』、『灯籠の如し』…等々だ。

 「太極勁」を手に入れるツールは、呉式太極拳の場合は主として「慢架套路」だ。つまり、筆者がアメブロで提示した第三段階において心法を用いて「慢架套路」の各動作の修行を行うことだ。力が勁に変わるプロセスは「換勁」と言い、「換勁」が出来た様態を言葉で表現すると「似鬆非鬆,将展未展」(出所:《十三式行功心解》;訳:ほぐれているようでほぐれておらず、伸ばしているようで伸びきっていない)となる。

                                                 (2014.6.1)

 

太極拳のレベルアップに欠かせない三要素

 アメブロで《呉式太極拳の各段階における求め方》を題に、段階ごとの求め方のイメージをアプローチしてみた。各段階・時期において、その都度正しい指導を受け、迷いをせず正しい選択が出来る、いわゆる遠回りをしない最短距離というのはあり得るが、これだけ分かればステップを飛ばしてもいいといったような近道はないと主張してきた。ところが、同じステップを踏んでも同じ結果になるとは限らない。それは何故だろう。筆者は「愛着」、「境遇」、「悟性」の三要素が原因だと考える。

 ここで言う「愛着」の要素とは、太極拳にどれだけ興味を持ち、どれだけ苦労を辞さず修行に明け暮れることができるかということだ。太極拳を習うものはみんな目的はあるものの、目的と愛着はイコールではない。結果だけがほしい前者に対し、後者は結果だけでなく、過程も含め、太極拳そのものを心の底から好む状態だ。「愛着」は他の修行者と差別する第一要素だ。

 第二要素は「境遇」だ。ここで言う「境遇」とは、修行環境や師匠条件の巡り合わせだ。太極拳が幾ら好きでも十分な練習時間や適切な練習場所が確保できなければ効果が期待できないし、良い師匠に出会えなければ、正しく教わることすら出来ない。修行環境の理想を言えば、山奥に入って世間の煩悩を一切忘れ誰にも邪魔されず空気のきれいなところで好きな太極拳を存分に練習できる環境だが、現代の我々はそれを実現させることは難しい。師匠条件にしても、太極拳の真諦が分かりそれを惜しまず人に伝授する能力を有する者と出会って弟子入りを許され、更にその師から常に教わることができるという条件が恵まれることはなかなか難しかろう。巡り合わせは人によって異なり、理想の「境遇」まで行かなくても相対的に人と差別がつくので重要な要素となる。

 三要素の最後の「悟性」とは、天分、又は太極拳とのご縁とも言うが、師匠から授けられた、又は先人達が残してくれた太極拳の理論・格言・心得を自分の体で検証し、悟りを得られる資質だ。同じく上記二要素が備わっていても、悟りにおいて差別されるのはこの第三要素によるところが大きいと考える。ここで言う「悟性」と通常で言う賢さとは概念上異なる。前者は太極拳という特定のアイテムに対するものだが、後者は全般的な頭脳の良さを指す。「悟性」は先天+後天なので、後天の努力、とりわけ太極拳に対する興味がなく体における十分な練習・検証がなければ、幾ら頭脳が賢くても生まれることはなかろう。一方、賢くて理解が速い者は逆に修行を怠ることもあれば、太極拳のトップレベルの達人は愚かな者がないのも事実だろう。 そういう意味で「悟性」を太極拳とのご縁と言っても過言ではなかろう。

                                                 (2014.5.10)

 

推手の「偏」と「中定勁」

 アメブロで《呉式太極拳の「不偏」と陰陽》をテーマに、「偏」とは何かについてアプローチしてみた。ここでは呉式推手の視点において更なる掘り下げを試みたい。

 「偏」は体のアンバランスのことだ。一人で套路を修行している時に「気」の重さも含め、各動作・姿勢とも偏らず均衡が取れたとしても、外部の力を受けた途端、その均衡が損なわれた場合、たとえそれが僅かであっても、「偏」とされる。つまり、「不偏」は套路修行時のみならず、推手においても極めて重要な修行要領だ。

 自分の体に相手からの力がかかった時、「接」・「走」・「化」を見事に行うことによって「偏」が生じずに済む。一方、相手に対し、如何に「偏」を生じさせるかが決め手だ。相手よりレベルが高い場合は、勝負が相手の手と接する瞬間分かる。その瞬間に「偏」を生じさせられるからだ。逆に、相手からの力を見事に「接」・「走」・「化」することによって相手の体に「偏」を生じさせることができるのだ。これが「不偏」という警句の極意だ。

 「中定」は太極十三勢における最も基本的で根本的な能力だ。動いていても外部から負荷がかかっていても「偏」が生じないのは「中定勁」が効いているからだ。その「中定勁」は力によるものではない。太極拳の諸要領を忠実に守って套路その他の練習を毎日積み重ねた成果として生まれるものであって、一朝一夕に成就するものではありえない。

  推手のタブーである「頂(Ding)」は「中定勁」ではない。その根本的な違いは陰陽の転化があるか否かだ。相手から押された点に陰陽の転化が出来なければ、その点は「硬点」とされ、自分に抵抗意識がなくても「頂(Ding)」とされる。逆に、相手は自分が押した点に陰陽の転化が出来れば、自分が硬く感じてもその点が「硬点」や「頂(Ding)」とされず、表の陽(剛)を感じ取ったことになるだけだ。転化は裏の陰(柔)への変化だ。その表裏を構成する根幹が「中定勁」なのだ。「中定勁」がないことは車輪に軸がないのと等しい。当然ながら、軸が歪んだら車輪が回らなくなる。これが「偏」と「中定勁」の究極的な関係だ。

                                                  (2014.3.29)

 

呉式推手と「積柔」

 太極拳は武術として最も魅了させられるのが推手だ。勝ち負けという潜在的な心理に作用され、他の格闘技より安全且つ省エネ的に相手の均衡を崩すのが魅力の原点だと考える。ところが、世の中では太極推手と称しながら闘牛のように力勝負によるケースが多々見られる。その原因は、相手の力に対し、正しい対応の仕方が分からないのと、分かっていても体がついていけないのと、二つ考えられる。

 前者は推手の手法の習熟の問題だ。対応の仕方が分からないという論理的な理解よりは、体に正しい反応が出来るほど習熟していないからだと思う。これに対し、後者はズバリ言うと、太極拳の体が出来ていないからだ。ここでは後者をテーマとして議論することにしよう。

 太極拳の体を作るのに年月を要する。無論、年数だけ立てば良いわけではない。繰り返しの回数が必要なのだ。当然ながら正しい繰り返しでなければならない。正しい繰り返しの中身は一言で片づかないが、上記推手のテーマに絡み、「積柔」を解剖してみる。

 「柔」は「柔軟」、「無力」と思いがちだが、それは誤解だ。「柔」とは一種の勁だ。その勁は「柔勁」と言い、そのパワーは水の性質と似ている。外力に対し柔軟に自分を分散・変化させ、必要に応じて“水滴”を集め、“津波”に変身し大きな破壊力が発揮できるようなものだ。「柔勁」の生みの母は「意」だ。「鬆」はその母胎だ。これまでの記事に何度も議論してきたが、「鬆」は力を抜くことが必要だがそれだけではない。陰陽の具現がなければ「鬆」の実現も不可能だ。一方、「積」とは積み重ねることだ。「積柔」とは「柔勁」を生み出し、積み重ねを通じてそれを育てていく地道な作業なのだ。「柔勁」を手に入れるのに「鬆」と「積」がネックだ。

 「鬆」の難しさは二つある。一つは力を抜くことだ。人間は常日頃力を用いている。特に体に外力がかかった時におのずから抵抗してしまったり体の均衡を維持する為に力が入ってしまったりすることは、本能として赤ちゃんの時から毎日繰り返している。逆に力を用いないようにすることは簡単なことではない。もう一つの難点は陰陽の把握だ。陰陽のない「鬆」は本当の「鬆」ではない。陰と陽を極めることは「鬆」を極めることだ。一方、「積」の難しさは根性にある。地道にコツコツと繰り返すことが「積」なのだ。三日坊主的又は雑多な求め方は「積」にはならない。修行の焦りや怠惰は「積」の大敵だ。

 要するに、太極推手の魅力を発揮するには、太極拳の体が必要だ。太極拳の体を得るには、力を用いず「鬆」を極め、「意」を用いて陰陽を表現し、「気」の集散を通じて「柔勁」を生み出し、それを無数回繰り返すことが不可欠だ。そのプロセスが「積柔」だ。道を逸れてはいけないが、近道はない。

                                                 (2014.3.1)

 

呉式の「虚領頂勁」の極意

 アメブロで《呉式太極拳の「虚領頂勁」》を掲載した。なぜ太極拳に「虚領頂勁」の要求があるのか、呉式の場合はどういう特徴があるのか、これについて更なる掘り下げを試みたいと思う。

 「虚領頂勁」の狙いの一つは体に上下方向の「軸」を作ることだ。「軸」があってはじめて回転が出来、相手からかかった力を円周に回し、省エネで「以小勝大」、「以弱勝強」が可能となる。但し、この「軸」は鉄みたいな硬いものではなく、強靱性・弾力性のあるヒモみたいなものだ。「虚領頂勁」がなければ、ヒモが弛んでいる状態で弾力性も「軸」も語られない。一方、ヒモが鉄に変わると、弾力性・柔軟性・可変性が失われ、太極拳の本来の威力が発揮出来なくなる。

 「軸」は単に回転だけに必要なわけではない。呉式太極拳で言えば、この「軸」は「気」の通路の役割すら果たしている。相手からの力を「化」する時も「拿」又は「発」をする時もこの通路を必要としている。言うまでもなく、「軸」の形成は「虚領頂勁」だけでは出来ず、他の要領と相まってはじめて可能となるのだ。

 「斜中正」は呉式太極拳の重要な特徴だ。この「斜中正」からなる直角三角形の斜辺・対辺の線をきちんと引く作業も「虚領頂勁」が加わっているのだ。「気」からなるこの「線」は「点線」や「実線」のように、「虚」と「実」の分別があり、「虚領」は「線」を引く筆を握る手の加減要領みたいなものだ。呉式は楊式など他の流儀と力学原理が異なると言われているが、「斜中正」の外形が真似できても、外形が出来るまでのプロセスにおける呉式の「虚領頂勁」が実現できなければ、「斜中正」の威力発揮も不可能となる。

                                                 (2014.2.1)

                                 

「懂勁」と陰陽

 アメブロで「着熟」→「憧勁」→「神明」について議論してきた。その中で「着熟」→「憧勁」において「悟」が必要だと述べた。では、何を悟るのだろうか。悟るために何が必要なのだろうか。ここではそのテーマのアプローチをしてみたいと思う。

 陰陽についてはこれまでに何度もアプローチしてみた。太極拳の一挙一動はすべて陰陽による。太極勁も無論例外ではない。電気が流れるのは陰極(ー)と陽極(+)があるからだ。それは太極拳の陰陽原理と酷似している。陰陽がなければ、電流(太極勁)が流れない。流れる方向は陰陽によって決まる。太極勁の陰陽が可変的なので、その方向も交流電同様、定まらない。自身の陰陽変化は自身の「意」によるが、推手において相手の「意」による相手の陰陽変化も分かれば「憧勁」と言えよう。いわゆる「知己知彼」は、自身の陰陽も分かり相手の陰陽も分かってはじめて言えることだ。「憧勁」はこのような「知己知彼」を前提としている。

 太極拳の陰陽原理は体に具現しなければ意味がない。具現するには「気」の利用が不可欠だ。「気」は呼吸する空気ではない。「意」による一種の体内凝集物だ。そして陰陽によって体内を流れる。凝集させるには「意」の高度集中が欠かせないし、「気」の通路の開通が肝要となる。通路を開通させるには、筋肉・関節の「鬆」のみならず、太極拳の身法も問われる。「虚領頂勁」、「尾閭中正」、「涵胸抜背」、「鬆腰垂臀」等の諸要領が係わる。

 套路修行は自身の陰陽変化を把握するいわゆる「知己」のトレーニングだが、相手が加わる推手となると、「知彼」、つまり相手を含めた陰陽変化が出来なければ、「憧勁」にはならない。「双重」の誤りは基本的に体に陰陽が具現していないか陰陽の不均衡による。套路において陰陽の均衡が取れても、相手から圧がかかると即座陰陽の変化が体に出来なければ、「双重」となってしまう。手法が幾ら習熟になっていても、相手を含めた陰陽均衡が取れなければ、手法の効果が出ず、力勝負になるか逆にやられてしまう。言うまでもなく、このような「知彼」が出来なければ、「憧勁」にはなるまい。

 総じて言えば、「着熟」→「憧勁」のプロセスにおいて陰陽の悟りが不可欠だ。悟るために太極拳の要領を形式的又は観念的に演じるのではなく、すべて自身の体で忠実に実現させねばならない。そして自身の体から相手の体へと陰陽を具現することによってはじめて「憧勁」のレベルを手に入れることができよう。

                                               (2013.12.16)

 

太極拳の「熟」について考える

 アメブロで《呉式太極拳の「着熟」と「憧勁」(1)》を題に、「着熟」、とりわけ「着」の中身を議論してきた。ここでその「熟」について思いついたことを書いてみようと思う。

 習熟は回数を重ねることによって実現するものだと考えるが、問題は回数の中身だ。間違った繰り返しは癖となる。一旦癖になってしまうと目標から遠ざかっていく。正しい回数の反復が肝要だ。

 正しくなるには先ず正しい理解が必要だ。一番悲しいのは間違っていることに気がつかないことだ。正しく理解するには正しい情報の入手が不可欠だ。情報氾濫の時代においてこれが簡単だと思いがちだが、実際はそう簡単ではない。太極拳の理論そのものが、群雄が議論を起こすほど難しいのだ。又、口伝という伝統的な伝授法により本当の情報はベールに包まれているように思う部分もある。それどころか、自分自身の問題は修行段階によって異なり、その早期発見、並びに該当回答の入手・理解・解決は修行者の資質・機運に係わる難易度の高いプロセスだ。習熟への道においては正しい情報に基づいて修正を掛けていくこのプロセスは誰にとっても不可欠だ。単に回数を重ねるだけでは、正しい習熟にはなるまい。

  一方、太極拳は「意」を重視する拳法なので、「熟」の大敵はオートマチックだ。体が「意」によらず自動的に動けるようになると、幾ら回数を重ねていっても「着熟」にはならないのだ。「着」は「意」で綴られたもので形式的なオートマチックは「着熟」につながる回数としてカウントされないからだ。

 「着」は相手がいなければ意味を成さないので「着熟」の「熟」は相手への手法応用の熟練度、とりわけ相手の変化への対応の素速さを意味する。套路において仮装相手を想定しながら練習するのも良いが、本当の相手のいる推手で磨かなければならない。推手における「熟」の大敵は形式主義だ。形式的に熟練になればなるほど、推手のタブーである「ジコチュウ」となり、ますます「着熟」から遠ざかっていく。相手の変化への対応は自分勝手の熟練に基づかないからだ。

                                                (2013.11.17)

 

太極拳は「手快力大」に勝てるか

 「手快力大」とは手が速く力が大きいという意味だ。太極拳は、手の速い人が手の遅い人に勝ち、力の大きい人が力の小さい人に勝つというこれまでの当たり前をひっくり返したと言われている。事実はどうだろう。これについて自分の体得を踏まえ、議論してみたい。

 先ず速さについてだが、太極拳は速さが不要なわけではない。アメブロで《太極拳の緩急》というタイトルで『動急則急応』を詳細に分析した。太極拳は速度の「速さ」より結果の「早さ」だ。つまり『彼不動,己不動,彼微動,己先動』という「後発先至」の原理だ。「急応」の中身は相手が速ければ自分も速くするだけではない。「先至」(訳:自分の勁が先に届く)が出来なければ、「急応」の成功とならなかろう。「先至」が出来るかどうかは二つにかかっている。一つは相手の速さ、もう一つは相手の「先発」への自己の察知能力(聴勁)だ。相手の「先発」の力が自分に及ぶのにかかる時間が「先至」に必要な時間より短い場合や自己察知能力(聴勁)が弱く「後発」が遅れた場合は「急応」又は「後発先至」の失敗となる。

 次は力強さについてだが、相手からかかった力に対し、「走」(他記事参照)を施すことによってその力の脅威を解消すると同時に、相手自身に生じた不均衡と、こっちからの正しい方向への作用力を以て小さい力でも大きい力の持ち主に勝つことができる。とはいえ、かかった力相応に「走」ができなければ、大きい力に潰されてしまう。修行のどの段階においても限界がある。自分の対応能力の限界が30キロだとすれば、31キロ加えられたら1キロ分の抵抗となる。推手において師匠が弟子を育てる根本的な方法として「ウェイジン」が昔から知られている。「ウェイジン」とは、師匠が弟子の体の各部位に「勁」を送り、その限界を超えるようトレーニングをさせることだ。その訓練方法は鳩のヒナに餌を与えるのと酷似するので「ウェイジン」と名付けられたそうだ。この事から太極拳の弟子作りの難しさが伺える。

 総じて言えば、太極拳が「手快力大」に勝てるかどうかは、相手の速さ又は力強さに対応できるほどのレベルを持っているかどうかによる。一概に太極拳だから勝てるとは言えないのだ。

 

呉式太極拳の「走」の極意

 アメブロで「走」と「粘」について2回に分けて議論してきた。ここで更なる掘り下げを試みたい。

 「走」は「形走」と「意走」がある。前者は外形の動き、即ち手法による「化」だが、後者は外形の動きのない「化」となる。別の言い方で前者の「化」を「陽化」、後者の「化」を「陰化」とも称する。

 「変」(変化の意)は呉式推手の一大特徴だ。他流儀と比べ、呉式の手法が極めて多いこともその「変」に起因する。呉式の手法は「変」の方法と言っても過言ではなかろう。推手の手法応用については、套路の動作や13種の手法といった規定動作以外に、「変」を基調とする規定外変形動作も数え切れないほどある。「懂勁」の段階に入ると、任意の動作が手法になる。太極拳は「後発制人」の武術なので、「問勁」以外に手法の大半は基本的に相手からの力を受けながら威力発揮を果たす「走(粘)」の技なのだ。

 ここで少し規定動作の「形走」に触れてみよう。例えば、肩以上の高さから前又は上向きの力が腕にかかった場合は、「纏頭式」、「裹頭式」…;腰以下の高さから前又は下向きの力が腕にかかると、「十字手」、「摟膝式」…;肩と腰の間の高さからの前向きの力だと、「立肘」、「中平肘」…;相手と自分のポジションや相手の力の入れ方によって「大纏腕」、「穿手靠」…;肘を押された場合は「倒提壷」、「裏粘肘」…、等々だ。

 外形の動きをしなくても 相手からかかった力を瞬時消失させるのは「意走」の威力だ。 これは究極的な陰陽表現なのだ。相手の陽に対し、陰の表現と同時に、自分の陰の該当個所を陽にすることによって相手の力を跡形なく消してしまうことができる。「意走」は「形走」と比べ、肢体に対する要求が高いので、両者の併用が一般的だ。

「人剛我柔」は「走」の用件だが、それだけで「走」が出来るわけではない。陰陽の変換は肢体の対応能力並びに軸が必要だ。前者は「鬆」、後者は「中定勁」の修行がキーポイントだ。呉式はいわゆる「三角架」の力学原理で他の流儀よりも「中定勁」の習得が速いと言われている。三角形がアーチ形(楊式)などより構築が容易なので同じ修行年数でも呉式のほうが推手に有利だと、先々週上海で会った太極拳5流儀とも継承者に教わった楊式の達人が筆者にこう語った。

 

呉式太極拳の「問勁」と「人剛我柔」

 アメブロで《呉式太極拳の「人剛我柔」と「我順人背」》の記事を書いた。『人剛我柔謂之走』とは相手から「剛」でかかってきた場合、「柔」で応じることを「走」と謂うとのことだ。では、相手が「剛」でかかってこない場合は太極拳の威力の発揮ができないのか。そのケースを想定して更なる掘り下げを試みたい。

 相手が「剛」でなければ、「剛」を誘い出して「人剛我柔」の法則を用いることは「問勁」の狙いだ。「問勁」の手法は様々だが、基本的には相手に不均衡を引き起こすよう少し勁を送ってその対応能力を見るものだ。相手と手を接すると「沾勁」で自分に有利なポジションへシフトしてみたり、相手の体内へ「意(気)」を浸透させ、その反応を制御してみたり、相手と「打輪」をしながら「硬点」を見つけ、突っ込んでみたりすることが常用される。「人剛我柔」の原理の応用は相手が「剛」でかかってくるケースに限るものではない。相手との接触において相手が力で攻撃又は抵抗をする意がなくてもワンステップを介することによってまた出番となる。

 「剛」と「柔」は相対的だ。「柔」のつもりで「問勁」を施したところ、自分よりレベルの高い相手に、その「柔」を「剛」として捉えられ、逆に「人剛我柔」でやられることがある。「柔」も「軽」も限界がないのだ。「柔」には更なる「柔」があり、「軽」にも更なる「軽」があるのだ。肢体の「柔」・「軽」の最高境地は、『一羽不能加,蠅虫不能落』だ。(出所:《太極拳論》;訳:羽毛一片すら加えることができず、蠅といった虫類も足止めすることができない。)

 「柔」は一種の勁だ。力を入れてはいけないのは当然だが、力さえ入っていなければ「柔」だと理解しても間違いだ。「剛」でかかってきた力に対し、力を抜くことだけを「柔」と誤認識し対応していると自分の均衡が危うくなる瞬間、力で対抗してしまうからだ。「人剛我柔」のポイントは「走」なのだ。つまり、列車みたいな走行が必要だ。そして、そのレールは「柔勁」が作るのだ。

 

呉式太極拳の「曲」と「伸」

 アメブロで推手の「無過不及」について「Ding」は「過」、「Diu」は「不及」と議論した。ここで「曲」と「伸」の視点で掘り下げてみたい。

 「曲」と「伸」は王宗岳氏の《太極拳論》から出た言葉だ。原文は『動之則分,静之則合。無過不及,随曲就伸。…』だ。この「随曲就伸」の言葉は「無過不及」と表裏の関係にある。日本語に訳すと「相手の曲げ・縮めに応じて伸ばす」となるが、相手の曲げ・縮めの分以上に伸ばすと「Ding」・「過」となる反面、相手の曲げ・縮めについていけない場合は「Diu」・「不及」となる。

 アメブロにおいて「無過不及」の決め手は「聴勁」だと述べたが、「聴勁」は「知彼」(訳:相手を知る)能力だ。相手の動きを知った後の自身の肢体の対応能力は別問題だ。相手の限りない「曲」にどこまで「伸」でついていけるか、又は相手の限りない「伸」にどこまで「曲」で曲げ・縮めが可能なのかは正に套路の修行で実現する身体能力なのだ。両者の限界を挑戦することは修行における求めの一つだ。

 こうした「曲」と「伸」の限界は外形と内面の両方で求めるべきだ。同じ推手の例で言うと、相手の「伸」(攻め)に対し、前足が少しでも体重を負担しないよう重心を完全に後方へ引き、後足を十分に曲げられるようにし、「伸」で相手を攻める際に、後足が少しでも体重を負担しないよう重心を完全に前方へ移動し、前足を十分に曲げられるようにする。こうしたトレーニングは外形における身体能力の修行だ。套路等でその能力を備え付けることができる。難しいのは内面における「曲」と「伸」だ。つまり外見から「曲」又は「伸」が見えなくても、「伸」で攻めている相手に崖っぷちから落ちてしまうような感覚を起こさせる「曲」、並びに相手に身動きが出来ないよう「意(気)」を相手の骨まで浸透させるような「伸」、という内面における身体能力だ。

 王宗岳氏の《太極拳論》に下記の絶句がある。

 『仰之則彌高,俯之則彌深。進之則愈長,退之則愈促』(訳:上方へ上げられようとすれば上方へ限りなく導き、下方へ卸されようとすれば下方へ底なしに落とす。又、相手が前方へ進もうとすれば限りなく進むように促し、後方へ引こうとすればとことんまで追い込むように急かす。)

 この20文字で描かれた光景は、正に上記外形と内面から生み出された「曲」と「伸」の結果だと言っても過言ではなかろう。

 

呉式太極拳の「中」

 筆者がアメブロにおいて書いた『呉式太極拳の「斜中正」からその特徴を探索』及び『呉式太極拳の「無過不及」』の記事の中で、呉式太極拳の「斜中正」の奥義をアプローチしてみた。ここではその「斜中正」の「中」についてヒントになるものを更に掘り出してみたいと思う。

 中国の歴史で見れば分かるように、太極拳が生まれる土壌に儒教文化がある。儒教の道徳規範の核心は中庸思想だ。偏らず、過不足のない、調和のとれた状態のことが中庸とされるが、太極拳で求めているものと全く同じだ。いや、中国における根強い儒教の影響が、その土壌で誕生した太極拳に大きく影響を及ぼしたと言ったほうがより適切かも知れない。中庸の「中」は太極拳の「中」と根底から繋いでいる。

 「中」は重心と重なることもあるが、重心ではない。呉式太極拳の「川字歩」は左右の横幅を示唆するが、重心に偏ることなく「中」の保持が大切だ。左右のみならず、前後も同じだ。重心が前であろうが後ろであろうが、重心に偏らない「中」の位置が肝要だ。その中で「意」(気)は大きな役割を果たす。姿勢が斜めになっても、「意」(気)の所在と分量によって「中」が決まってくる。「中」の間違いは不均衡を来す。推手においては、自分の「中」を隠し、守ると同時に、相手の「中」を見つけ、攻めることは根本的な原理なのだ。

 太極拳は対立した諸ファクターの固まりなのだ。武禹襄の《太極拳論》の中に、『有上即有下,有前即有後,有左即有右。…』(訳:上があれば下があり、前があれば後ろがあり、左があれば右がある。…)がある。つまり、互いに依存し合い、対立し合うものがなければ、太極そのものが成り立たなくなる。肢体の「対拉抜長」、陰と陽、剛と柔、鬆と緊、表と裏、内と外などはすべて対立面だ。こうした対立面があってはじめて「中」の概念が生まれるのだ。

 

呉式太極拳の足    

 筆者はアメブロにおいて《呉式太極拳の「斜中正」からその特徴を探索》の記事の中で『呉式の要領で修行した者は足下が根を下ろしたように強固だ』と主張した。その理由が呉式独特の「斜中正」の原理にあることも既述の通りだ。ここではその足についてもう少し掘り下げていきたいと思う。

 呉式の特徴として「平行歩」がある。両足の向きが同様で間隔を開けて平行に足を置くことを指す。この点は楊式・陳式と異なる。なぜそうすべきかそしてどういう波及効果があるかについて私見を述べてみたい。結論から言えば、やはり「正」→「斜」→「正」のプロセスにおける「正」の必要性によるものだと考える。つまり「気」が足下経由で昇降する必要がある点において「斜中正」の原理では「平行歩」がより効果的だと呉式の創始者が認識したためだろう。

  周知のごとく、呉式は太極拳の諸流儀の中で「柔化」として有名だ。「柔」を極めるには、関節を開くことが前提だ。「平行歩」は股関節を開くのに効果的だと見られている。いわゆる「開襠」、「圓襠」、「裹襠」の実現には股関節の打開が不可欠で「平行歩」がこれに有効だということだ。その結果、足下経由の「気」の昇降がスムーズに行われ、「斜中正」の原理が成り立つわけだ。

 アメブロで既述した通り、重心の垂線が軸足と重なることは「斜中正」において最も重要なことだ。つまり両足を常に一本にすることが呉式の足の重要な特徴だ。その結果、足下が強固になるのみならず、一本化した軸がスムーズな回転となる。これについて武式も「三虚包一実」という類似の表現がある。「三虚」とは両手と虚の足のことだが、「一実」は実の足のことだ。

 呉式の足は「根を下ろしたように強固だ」と言っても、力強く地面を踏む、又は掴むわけではない。むしろ薄い氷の上を歩くように足を軽く置く必要がある。いわゆる「如履薄氷」、「邁歩如猫行」だ。大げさに言えば、これは足の呼吸のためだ。無論空気の呑吐ではなく「気」の出入りのためなのだ。体の「鬆」の原理と同様、足の筋肉の硬直が足裏を含め「気」の巡りを悪くしてしまうから要注意だ。これは虚の足のみならず、重心が置かれている実の足でも同様だ。時々足裏の「換気」が必要だ。

 

太極拳の「動」

 「動」は「外動」と「内動」に分けられる。「外動」は目に見える外形の動き、即ち、動作そのものだ。それに対し、「内動」は体内の動きだ。筆者がこれまでにアメブロや当サイトの『太極拳の心得』でテーマにした「動」は、主として「内動」を指している。

 私どもが普段太極拳で語る「動作」とは、「外動」のことで「動」の一部になる。筆者が他の記事で太極拳の「ハードウェア」と「ソフトウェア」、又は「手法」と「内功」について議論したが、前者は「外動」、後者は「内動」に関係する。「外動」は「内動」の延長、「内動」は「外動」の根源だが、通常両者は入り交じって現れる。その割合は決まったものではない。一般的に功力の浅い者は「外動」の比率が多く、深い者は「内動」が多い。推手においては相手と場合による。「内動」がハイレベルの場合は「外動」がゼロになっても相手が自ら均衡を失うが、「内動」がゼロの場合は幾ら巧みで綺麗な「外動」があっても太極拳の効果はゼロと考えて差し支えない。太極拳を習い始めた頃は当然「外動」、即ち動作を覚える。中・上級者が「内動」即ち内功を修行し始めた頃になっても「内動」ばかり求めると動作が始まらなかろう。「内動」の比率をカスタマイズ出来るようになってはじめて相手と場合による使い分けが可能になる。

 「外動」は目に見えて分かりやすいが、「内動」は教える側にしても習う側にしても難しい。筆者の教室では「内動」の解説も心掛けているが、理解と実効は生徒の修行段階による。また、推手においては「内動」のレベルが低いほど「外動」(手法)も効き難い。推手の手法がなかなか使いこなせないと感じたら先ずそこが原因ではないかを確認してみる必要がある。伝授時に「外動」の比率を増やして生徒に見せるようにしているが、どうしても「内動」の部分が見えないため、手法の外形だけを追求されてしまうことがある。この点は要注意だ。

 

陰陽と鬆

 アメブロで《呉式太極拳の套路と推手における「分合」と「陰陽」》を書いた。その中で「陰陽」を太極拳の生命線と指摘した。ここでは「陰陽」と「鬆」の関係について私見を明らかにしてみたい。

 「鬆」についてはこれまでの記事で幾度も議題に挙げたが、太極拳界でも意見が分かれるほど解説し難く誤解されがちの問題なので再度視覚を変えてアプローチしてみたい。

 「鬆」はほぐれた状態で「放鬆」は「鬆」の状態にするという意味だ。一方、力を抜くことをよく「放鬆」と言うが、太極拳の「鬆」の状態にするには力を抜くだけでは実現できない。これは陰陽の原理があるからだ。太極拳界の議論では、力を徹底的に抜く説と抜いてはいけない説がある。前者の言い分は力を完全に抜かなければ相手からの力にまだ幾分抵抗してしまう恐れがあるのに対し、後者は力がなければ体が立つことすら出来ないということだ。筆者から見れば、いずれも陰陽を無視した片面的な主張だ。

 陰陽の定義についてはアメブロで参照されたいので、ここでは省略する。力を抜くのは虚(陰)にするアクションで、それ相応に実(陽)にするアクションも同時に行われてはじめて「鬆」の実現が可能となる。両者の格差が大きいほど、「鬆」の度合いも高い。套路では一人で同時に陰陽両面の拳法を行うが、推手では相手と二人で一人だ。相手の状況に従って虚(陰)と実(陽)の部位を変化し、陰陽の均衡を取る。但し、推手の虚(陰)は接触から離れる動きではないし、実(陽)も力を入れるアクションではない。相手の力に対し、離れる傾向は太極拳の言葉で「diu」と言い、力を入れるアクションは「ding」と言う。両者とも推手のタブーで陰陽の問題だ。前者は力を抜けば良いという「鬆」への誤解に起因し、虚(陰)が出来ていないのに対し、後者は前者同様、陰陽・虚実がないからだ。

 

「動」と「静」の関係

 アメブロで《太極拳の「動」と「静」》の記事を書いた。ここで更に両者の関係についてその奥義を探ってみたい。

 清代・王宗岳著《十三勢行功歌》の中に「静中触動動猶静,因敵変化示神奇」の絶句がある。その前半は的確に「動」と「静」の関係を示している。「静」の中で「動」を触発する、又は「静」の極まりに「動」が芽生えると同時に「動」の際に一層「静」となるという、一見矛盾ではありながら片方だけでは存在し得ない、表裏のような関係をほのめかしている。

 アメブロで述べた通り、「動」も「静」も外形上の動きではない。「静」から芽生えた「動」は「気」の動きだ。同じく「静」も動作の静止ではなく精神状態における極度の落ち着きだ。「動猶静」の「静」は結果よりは「動」の発生・継続に不可欠な条件なのだ。

 「静」は、「意」による「気」の巡りを感知・制御する為に必要だ。耳を澄まして些細な音でも聞こえるようにすることと同様だ。但し、それは外部の音ではなく、体内の動きだ。「気」の巡りそのものは「動」だ。その「動」は「静」をベースにする(動中有静)だけでなく、「静」を極めなければ生まれることすらないものだ。(静中有動・静極生動)

 「動之則分,静之則合」の「動」と「静」も「気」の動きだが、異なる角度によるものだ。「分」と「合」(「開」と「合」とも称す)は太極拳の全ての動作に交互に表出する。丹田から指へ「気」が出るのと指から丹田へ「気」が入るのが循環されることによってはじめて「心→意→気→勁」を内面とした動作が可能となる。「動之則分」は「動」の「分」(出)、「静之則合」は「静」の「合」(入)の性質を明かしている。動作のどの部分が「分」、どの部分が「合」は各動作の使い方によるが、呉式太極拳の套路は元より見事に組み込まれている。これは太極拳のソフトウェアの一部で修行者が極めるべき内容でもあることは言うまでもない。

 

太極拳のソフトウェア

 《太極拳の節節貫穿》(筆者のアメブロ記事)の最後に、『太極拳の本当の魅力の所在は動作の外観ではなく、体内の動きなのだ。両者の関係はパソコンのハードウェアとソフトウェアのようなものだ。』とある。そのソフトウェアの部分についてもう少し掘り下げてみたい。

 世の中では、太極拳の套路の順番・外形さえ覚えれば、習い事の一つが出来た、又は太極拳の健康促進効果の武器を手に入れたと錯覚する人が多いようだ。筆者から見れば、これは全くソフトウェアの入っていないパソコンを手に入れただけでそれを使って仕事をすることは無論できないのだ。太極拳をものにするには、その両方を手に入れるべきだ。

 では、太極拳のソフトウェアとは一体何なのか。それはあるのとないのとどう異なるのか。この点については、健康と武術の両面から見る必要がある。先ず健康面では、ソフトウェアで作られた「気」を意図的に人体の経絡を通路として巡ることにより、血行が促進され、五臓六腑が潤われ、病気の予知・予防に寄与することになる。外形の美しさだけを求める体操的な太極拳では、このような効果が比べものにならないだろう。一方、武術面では、ソフトウェアにより「勁」が作られる。「勁」は極端で言えば、絶大な殺傷力を持つものと、限りなく柔軟で包容力のあるものが挙げられる。前者は「剛勁」と言い、後者は「柔勁」と言う。「剛勁」は敵の内臓を破裂させるほどの殺傷力があるのに対し、「柔勁」は敵の攻撃を解消(化)したり制御(拿)したりして太極拳ならではの魅力がある。体操的な太極拳は武術ではないから、当然このような効果はない。

 ソフトウェアの中身は片言で言うと「心法」、即ち「意」の掛け方でその主役は「気」だ。《太極拳の節節貫穿》の中で「玉女穿梭」における「気」の経絡流注の一例を挙げた。その他にも動作に合わせ、様々な意念的アプローチがある。すべての動作に「マイコン」を埋め込むことがソフトウェアをインストールする目的だ。ところが、これは頭で思うだけで簡単に実現するものではない。実現するには複数のステップと度重ねるトレーニングが必要だ。これがソフトウェアの求め難さだ。とはいえ、それを放棄すると永遠にハードウェアのままだ。外観・デザインが幾ら綺麗でも文字を打つことすら出来ないパソコンのようなものだ。

 筆者の教室ではハードウェアの構築は当然のことだが、ソフトウェアの指導も適宜行っている。特に「柔」を特徴とする呉式太極拳の慢架套路において動作ごとの「心法」の解説をアプローチしている。高い目標ではあるが、インストール前の環境整備と修行の勤勉さが成果に繋がる。その究極の鑑定ツールは推手だ。外観上どんなに規範化で綺麗でも外力に簡単に負けるようでは、使い物にならないパソコンを綺麗に飾っているようなレベルでしかない。一方、伝授側もハードウェアだけ売りつけてソフトウェアを入れる術及びその使い方をサポートしないような指導法とは一線を画したい。

 

呉式太極拳で楽しむ経絡マッサージ的効果

 太極拳の後、快感を覚える方が多かろう。汗をかいて気持ちがいいと語る方もおれば、唾液が増えた、リラックスができたと語る方もいる。筆者もその受益者の一人だ。但し汗をかく快感は太極拳に限ることではないし、汗の程度によっては間違った練習方法によることもある。太極拳の快感は経絡マッサージ的な効果があると筆者が見ている。その中で呉式は特にその効果が甚だしい。

 東洋医学では、人体には血管以外に経絡と呼ばれる道筋が走っている。血液の通路である血管に対し、経絡は「気」の通路だ。陽経と陰経が手と足の合計で各6本ずつあり、いわゆる「正経十二経脈」として肉と骨の間に分布する。陰経は臓に属して腑と絡み、陽経は腑に属して臓と絡むとされているが、十二経脈を通路として「気」を巡らすことによって臓腑に刺激を与え、一種の経絡マッサージ的な効果が得られる。

 呉式太極拳の「玉女穿梭」を例に取って言えば、(右琵琶手より)「右手を降ろし、左手を右肩の方へ挙げる」→「右手を下から右上へ、左手を右肩から左下へ分ける」→「左手を右の脇下に回し、左足の前進と共に上へ、更に左へ回し、右手は付随する」→「左手を上、右、右下へ旋転し、右手は依然付随する」→「左手を右下から上へ上げ、更に左方向へ回し、右手は付随し、左手の下で左前へ押す」…。

 これに対し、「気」は以下の流注で流れる。(手の少陽三焦経)→「足の少陽胆経」→「足の厥陰肝経→手の少陰肺経」→「手の陽明大腸経→足の陽明胃経→足の太陰脾経→手の少陰心経→手の太陽小腸経」→「足の太陽膀胱経」→「足の少陰腎経→手の厥陰心包経」…

 こうして四分の一の「玉女穿梭」で十二正経の全経絡を「気」が巡ることになる。呉式慢架の全套路でこのような気の巡りが無数回も出来、唾液の増加、血行の改善、凝りの解消、リラックスの促進など、五臓六腑の滋養に資する経絡マッサージ的な効果を期待することができる。このような修行方法は経絡の流注に沿っており、最も健康に資するとされているので、筆者は近年重宝している。それ以外に、「五気朝元法」、「三線放鬆法」、「周天搬運法」などのアプローチ方法も知られている。尚、実戦の必要性により上記流注と逆の巡り方もあり、奇経八脈を活用するアプローチ方法もある。武術としては順逆両方を使いこなす必要があろう。  

 

推手の軽重

 呉式太極拳の三代目伝人、故・馬岳梁大師は套路における最も重要な要領の一つとして「軽」を挙げた。更に推手において「軽」、「霊」、「変」、「化」の四字訣を呉式推手の重要な特徴とした。その頭にも「軽」がある。馬大師にしろ、筆者が教わった他の呉式達人の李関庭師、故・張金貴師並びに周利明師にしろ、相手との推手において、かかってきた力に対し、軽やかに相手のアンバランスに繋ぎ、相手が自分で転けるように出来るので、抵抗感が無く、とっても軽い。これは世の中の力勝負型推手と一線を画するところであり、武術としての太極拳の魅力的なところでもある。

 ところが、「軽」はあくまでも手段であり、その狙いは主として以下四つある。①自分の力を相手に利用されない。②相手の些細な力でも察知可能になる。③変化しやすい。④パワーの充電。その狙いからも分かるように、「軽」そのものは求める結果ではない。相手が感じる「軽」は押し応えのない、自分が滑っていく、又は吸い取られていく、といったようなものだが、倒される瞬間は「軽」とは逆に、むしろ抵抗不能の、絶大な「重」と感じてしまう。これは手法の効果もあるが、「軽」による充電効果も寄与したと考えられる。

 「軽」と「重」は「意」に伴う「気」の流量の加減による相対的な表れだ。「軽」は「重」をベースにしている。「重」がなければ「軽」も存在しない。逆も同様だ。故・馬岳梁大師は「軽」は力があって用いないのだと語った。あって用いないということはベースに「重」の資産があるということだ。流量の絞りを小さくすれば「軽」となり、大きくすると「重」となる。両者の差があってはじめて「軽」が語れるのだ。そしてその差が大きいほど効果が高い。私どもの修行はその「軽」並びに「軽」の蓄積から生まれる「重」のそれぞれの最大化を求めることだ。

 

「心領体悟」の限界

 アメブロで《太極拳の「心領」と「体悟」》を書いた。両者の定義、更に、どうすれば「心領」⇔「体悟」のサイクルが起きるかについて、私見を述べた。同じ師匠、同じ修行年数という条件の下でも、「心領体悟」の内容又は程度が異なることがある。ここでは、「心領体悟」の限界について触れてみたいと思う。

 『太極拳を成就させるには、頭が賢くなければならないが、賢すぎてもだめだ。』という見解を以前耳にしたことがある。賢くなければ、外部情報の呑み込みが悪く「心領」→「体悟」のプロセスが欠如するため、結局正しい「体悟」までは行かないのに対し、分かったつもりで修行に手を抜いたりすると「体悟→心領」のプロセスが欠如するため、結局、浅い「心領」のままで正しい「体悟」に辿り着かないケースが、賢い人ほど傾向的にあるのではないかと筆者が理解する。このような見解は賢い人への定義に偏見があるのかも知れないが、悟りの難しさをほのめかしているように聞こえる。蒋忠保師はよく弟子の悟りを「君は太極拳とご縁があるね」と誉める。「ご縁」になると一部の人しか恵まれないことになる。

 「心領体悟」のもう一つ重要な特徴は、その段階にならないと外部情報への理解が全く出来ないということだ。それどころか、その情報がでたらめのように聞こえてしまうことすらある。「心領」が「体悟」を介している部分があることがその一因かも知れない。「体悟」とは体でその内容を実践することによって悟ることだから、その内容の実践がなければ当然「体悟」もない。「体悟」がなければ、「体悟」を介した「心領」も出来ないのだ。そういう意味で外部情報の鵜呑みは欠かせないことになる。つまり現段階で実践又は達成が出来なくても、今後のためにその情報を頭に保存することです。

 

太極拳の基本とは

 武術は建築と同じ原理だ。先ず土台を作ってからでないと高いレベルが望めないのだ。筆者も少年時代に少林系の拳法を教わっていた時は相当の期間において基本として「馬歩」や「擱腿」などを練習させられていた。太極拳も当然ながら基本たるものがある。但し、少林系と異なる部分が多い。考え方にもよるが、筆者は太極拳の基本を以下の視点で見ることができると思う。つまり、外形としての太極拳の動作、内面としての「鬆」、並びに内外とも問われる太極拳の身法の三つだ。

 先ず、太極拳の動作だ。基本として言う太極拳の動作は無論套路だ。呉式太極拳の場合は「慢架」というものだ。順番や姿勢といった外観的なものが基本段階の練習内容だ。套路は注意するまでもなく太極拳を習う者が誰しも重視する内容だろう。しかし、基本動作として覚えた套路は、どんなに熟練且つ美しくなったとしても、内面的な蓄積がなければ、あくまでも入門レベルでしかない。套路の順番が覚えられたら太極拳の習得が出来た、又は動作が美しく見えたら上級レベルになったといった誤認識は禁物だ。

 従って、太極拳は目に見えない内面的なものが求められている。その基本は「鬆」だ。無論、「鬆」の追求は終点がないが、最も基本的な内容でもある。昔の師匠は本格的に習いに来た生徒に、手の上げ下げを主とする「太極起勢」だけで早ければ3ヶ月、遅ければ一年も掛けていたのに対し、外形だけで良い生徒には数ヶ月で全套路を教えていたそうだ。前者の場合は最後に生徒が僅かしか残らなかったが、残った人がN年後に達人として生まれ変わった例が多々ある。師匠がその人の内面的な「鬆」の天分と忍耐性を見ていたのだ。

 太極拳の身法とは、太極拳の動作を行う時の、身体に対する法則を指す。これは上記挙げた内面的な「鬆」をベースとする。外形としての套路動作と比べ、内外とも問われる身法の実現は相当日数が掛かる。「虚領頂勁」、「涵胸抜背」、「沈肩墜肘」、「鬆腰垂臀」、「尾閭中正」、「気沈丹田」などがその中味だ。身法は心→意→気→勁の実現を補助するためのものだ。端的に言うと「気」のためのものだ。

 上記基本が出来上がらなければ、外形が幾ら美しく見えても稽古年数が幾ら長くても「太極操」としか見られない。基本が出来てはじめて入門から初級への脱皮が出来、拳法の技へのアプローチが効果的になる。筆者の推手教室で手法が捗らない方もそこに原因があるのではないかと考える。

 

気と勁

 太極拳の「気」について前回の心得並びに筆者のアメブロで議論を展開している通りだ。ここでは、太極勁の分析を通じて「気」と「勁」の関係を明らかにしておきたい。

 「勁」とは、ある種の訓練を経て体内で作り上げ更に体外へアウトプットできる一種のパワーと理解することができよう。異なる訓練が異なる勁を生み出す。外家拳は外家拳の勁、内家拳は内家拳の勁、同じ外家拳でも少林拳は南拳と勁が異なるし、同じ内家拳でも形意拳と太極拳がそれぞれ異なる勁を成している。パソコンのハードウェアとソフトウェアで言えば、勁はソフトウェアのプログラムで出来上がった仕様だ。太極勁は「似鬆非鬆,将展未展」(出所:武禹襄氏著《十三式行功心解》;訳:緩んでいるようで緩んでいない。伸ばそうとしているようで伸びていない)とされ、基本的には「柔勁」と「剛勁」の変動的な混合からなっている。「気」はその生成と制御に決定的な役割を果たしている。「気」の働きがあるからこそ、太極勁は、自主制御のできない砲弾ではなく、自ら目標捕捉のできるミサイルのような特性を有し、他の武術の勁と一線を画している。

 では、「柔勁」又は「剛勁 は何か。これまでに強調してきた通り、太極勁は心→意→気のプロセスで生成されるもので、その「気」の分量で「柔」と「剛」が決まるのだ。つまり流動体の量を少なくすれば「柔」を呈し、逆に多くすれば「剛」を呈することとなる。太極拳の「柔勁」の極まりは力を加えている相手に何の負荷も感じさせず制することができるレベルだ。その「柔」は「軟」ではない。両者の最大の差異は相手から力を受けた際に接触点の圧力が増減するか一定にするかにあると筆者は理解する。増減の「軟」に対し「柔」は一定だ。「気」はその調整役なのだ。一方、太極拳の「剛」は「積柔成剛」の言葉の通り、「柔」の集合だ。「柔」がたくさん集まれば、流動体(気)の量が増え、「剛」を呈する。「柔」からなる太極拳の「剛」は凄まじいものだ。

 老子の《道徳経》の中に「天下莫柔弱於水…」、「天下之至柔,弛騁天下之至堅」の名言がある。世の中に水より柔らかいものはない。ところが、天下で最も柔らかいものは最も強固たるものでもあると語っているのだ。水はどんな形にも変形できる「柔」の性質を有するが、水滴から集まった雨、洪水、津波の威力はどんな強固たるものでも潰すことができる「剛」の性質も備わっていると千年前から指摘されている。《十三式行功心解》の中に「運勁如百錬鋼,無堅不摧」という言葉がある。太極勁の生成を銑鉄からの製鋼と例え、生み出したその威力はどんな堅いものでも破壊することができるほど絶大なものだという意味だ。太極拳の「剛勁」の極まりはまさにこの「無堅不摧」のパワーだ。「気」はその生成土壌とも言えよう。

 

「気」への留意点

 アメブロで《太極拳の「気」》という記事を書いた。その補足として以下3つの留意点を付け加えておきたい。

  1.  これまでに強調して議論してきた通り、太極勁は心→意→気から生まれたものだが、「意」は「気」と重なってはいけ ない。馬車を例えとすれば、馬は「意」、車は「気」だ。馬と車の連結が確実であれば、馬が走っている後ろに車が必ずついてくるが、馬は馬、車は車だ。馬と車が同じ位置、又は馬より車が先に行くと馬車が転倒してしまうだろう。この原理は古典の《十三勢行功心解》の中で「全身意在精神,不在気,在気則滞,…」(訳:全身の意は精神にあり、気にあらず、気にあっては滞り、…)と語られている。

  2.  「気」は一種の流動体だ。その流量は「意」による肢体の状態で異なる。流量がない、即ち、流動体を感じないのに「意」を重くかけると「空炊き」になってしまって健康が損なわれ兼ねない。「気」は非常にデリケートだ。精神的な要素がそのバルブの開閉を左右する。気楽は「開」、緊張は「閉」に繋がる。一方「心」・「意」による統率も肝要だ。馬車に乗っていても、御者がいなかったり又は御者がいても正しいアクセス法で馬車を走らせる行為がなかったりすれば、永遠に目的地に着くことはなかろう。上記について《十三勢行功心解》の中で「…以気運身,務令順遂,乃能便利従心。精神能提得起,則無遅重之慮,…」(訳:…気を以て体を巡らす際にスムーズに行わねばならぬ。そうしてはじめて思いのままになる。精神が高ぶれば、滞る心配は無い。…)と語られている。前半の言葉は前記「気」の流量のこと、後半の言葉は「心」・「意」の統率のことだと筆者が理解する。相反する両方をバランスよく兼ね合うことは難しいが極めて重要なことだ。

  3.  「気」は人体の経絡を通路として流れ、その原理は直流回路とよく似ている。直流回路に「+」と「-」があるのに対し、「気」には「陰」と「陽」がある。それがなければ、「気」が流れない。「気」は「意」によるものだ。「気」の陰陽は即ち「意」の陰陽だ。「意」は片方だけにかけると陰陽がない一方、均等にかけても「双重」で陰陽が現れない。左と右、前と後、上と下などに異なる「意」、即ち「+」と「-」の回路を作ってはじめて「気」が流れるようになる。

 

「鬆」の真諦

 筆者は以前アメブロで書いた『太極拳の練習要領の探求』の記事で「鬆」(中国語の発音は「ソン」)について三回に分けて詳しく議論したので、ここでは強調又は補足として再度話題を拾いたいと思う。

 「鬆」は関節・骨肉の解体作業だ。極端に言えば、肢体を細かくバラバラにする感覚だ。と同時に、バラバラにするものを意で一本化する感覚でもある。「鬆」を手に入れるには解体と連結のどちらも欠かせない。前者だけの感覚だと肢体がフニャフニャで、本当の「鬆」ではない。逆に、後者だけの感覚になってしまっては「鬆」から遠ざかっていく。

 解体と連結は同時に発生し、バラバラにしてから一本化するわけではない。そして、その度合の増減も同時だ。相反する両者のギャップが大きいほど、「鬆」の度合が大きく、太極拳の「柔勁」も大きい。反対に、ギャップがゼロに近いほど、「鬆」の度合が小さくなり、勁も硬くなってしまう。

 しかし、これはあくまでも意による感覚でその結果への留意も必要だ。解体する意があってもバラバラにならず、関節が開かない次元と、関節・骨肉を含め、肢体を細かく解体できる次元を混同して連結への意の度合を同様にしてはならない。前者の次元は「仮鬆」又は「懈」(中国語の発音は「シェー」)と称し、「鬆」のアクションはあるが、結果はないことになる。解体の結果に合わして連結の意の度合を把握しなければならない。

 推手のタブーで「Diu」(中国語の発音は「デュー」)と「Ding(中国語の発音は「ディン」)」がある。「仮鬆」は「Diu」を招き、連結への意が解体の結果以上に強かったら「Ding」となる。推手において相手から極端に小さい力、又は極端に大きい力を加えられた場合、「Diu」と「Ding」にならないには、より度合の大きい「鬆」が必要となる。

 「鬆」への感覚の把握は難しいが、その真諦の解説も難しい。解体や連結の言葉はあくまでも意による想像でしかないが、潜在能力を引き起こす意の可能性は無限にあろう。

 

「気」の視点から太極拳の身法要領を考える


 ブログで《太極拳の「気」(1)》を書いた。「気」は意で凝結した一種の流動体なので、スムーズに流れるために流量と流速(円滑さ)を求めることは当然の事だ。量を増やすには、意の高度集中、「静」が不可欠だ。又、円滑さのために通路の確保をしなければいけない。通路の確保に「虚領頂勁」に「気沈丹田」、「涵胸」に「抜背」、「沈肩墜肘」、「鬆腰垂臀」に「尾閭中正」など数多くの身法要領がある。又、これまでにずっと強調してきた「鬆」、「軽」、「用意不要力」も、筋肉の亢進による阻害の防止、即ち上記の通路確保の目的以外に何もないのだ。

 筆者は先日、トイレの温風乾燥機で手を乾かしていると、手に当たっている風を空気のように感じ、太極拳の身法と心法を無意識にしていると突然機械が止まった。少し手を動かすとまた機械が動き出した。偶然ではないことをその後も好奇心で検証した。恩師の蒋忠保大師に尋ねると、『直接見ていないから断言はできないが、「気」による磁場の影響かも知れないね』と教えられた。「気」と身法要領の関連性を改めて認識した。

 太極拳の套路の順番を一通り覚えると外形の美しさの追求にこだわる傾向がある。しかし、太極拳である以上、太極拳の体作りが欠かせない。体操の体で太極拳の動作を模倣しても太極拳本来の魅力が味わえない。太極拳の套路修行を段階的に大きく分けると、順番→身法→内功→自然体となる。「気」は内功段階におけるもので、その前に身法の修行がある。内功は身法を外面から内面へと磨き、芯から太極拳の体を仕上げていくものだ。内功がなければ、身法要領が空論にしかならず、太極拳の体作りも形だけになってしまう。なお、内功修行においては「気」を避けて通れないのだ。

 

太極拳の「活」への理解


 先日、筆者のブログで《太極拳の「円」と「活」の極意》という記事を書いた。それにちなんで異なる角度で解説をアプローチしてみたい。少しでも同好者のヒントとなることが出来れば幸いだと思う。

「活」と言えば、猿の動きを思い出す。ところが、太極拳の「活」はそれではない。「円活」のキーポイントは「円」なのだ。「円」だから「円心」(軸)が必要だ。この軸は太極拳の動きのすべてにおいてあるので「芯」(コア)として現れてくる。「活」はあくまでもその軸を作る円滑さのことだと理解することができよう。

 太極拳の動きは車の走行よりは列車の走行だ。イメージ的にこのような特徴がある。列車だからレールがある。言い換えれば、太極拳の動きは目的地まで一筆でぶれることなく丸く刻むようなアクションでむやみやたらに動くことが「活」というわけではないのだ。

 円の凝縮はドット(点)だ。すべてのドットは軸になりうる。レールはドットからなっている。「凡此皆是意」という張三豊《太極拳歌訣》の言葉を借りて言えば、軸もレールも中身は意だ。心→意→気→勁・勢→形の原理だ。軸がなければ、陰陽変化ができない。陰陽がなければ太極拳ではなくなる。

呉式太極拳西九条倶楽部

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