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 大阪のうどん屋
 

 幕末から明治、昭和の初期にかけて、道頓堀を中心にうどん屋が軒を並べるようになって、うどんの記述が多く目に付くようになった。
道頓堀川にかかる戎橋北詰西角にあった「戎橋丸萬」めんるい所うどん○万など、当時を代表したうどんの大店である。
北の新地と堺には幕末から明治にかけて「うん六」といううどん屋があって、うどんではめずらしい「うどんの熱盛り」を扱って繁盛したという記録が残っている。

 大阪の北区に「雲六(うんろく)」といううどんを出す店がある。サンケイホール東隣にある名代そば・ちく満で、釜揚げの「せいろに盛った熱盛りうどん」にこの「雲六」という名前を付けている。往時の名店の名を、やはりうどんの熱盛りという形で品書きに残しているのである。
きつね」と「鍋焼き」はうどんの人気メニューである。
大阪は「きつね」、東京は「鍋焼き」とも言われるが、実は鍋焼きうどんも幕末の頃に大坂で流行し明治の初め頃になって東京に伝わって全国に普及した。
元治2年(1865)に上演された「粋菩提禅悟野晒」(すいぼだいさとりののざらし)という芝居の中で、四天王寺山門前で、夜鳴きうどん屋と客の会話のなかに鍋焼きうどんが流行っているという台詞が出ている。

 他に、全国版としての認知度は低いが、大坂発祥のうどんメニューに「小田巻き蒸し」(小田巻き)がある。 船場など商人の町・大坂で、商家のお祝い麺として年末年始などによく食べられ、大正の頃うどんが5銭で小田巻きが25銭という記録も残っている。茶碗蒸しがヒントとなって考案されたともいわれるが、大坂から江戸に伝わって東京では蕎麦でも作られるようになったという。
【日本の食生活全集 聞き書大阪の食事】によると、船場などでの小田巻きは「伊万里の錦手(にしきで)の大振りの蒸し茶わんに入っていて、底にうどんが少しと、かまぼこ、生麩、ぎんなん、ゆり根、しいたけ、焼きあなごなどがふんだんに入り、まっ赤な伊勢えびのぶつ切りが一番上に乗っている」という豪華版だったそうだ。
片方で、江戸に伝わった「小田巻き蒸し」は、大振りの蒸し茶碗に茹でうどん、かしわ、なると、ほうれん草といったごく庶民的な材料を使い、「うどん屋の茶碗蒸し」風であったという。

 そもそもうどんは、安くて、いつでもどこでも気軽に食べられて、小腹の足しにもなるし食事代わりにもなる庶民の食べ物である。
大阪の庶民の味で、うどんとなると「きつねうどん」がその代表であり、少し値が張って改まると「うどんすき」になる。
これらが、大阪だけでなく全国的にも有名になっていったことが、「大阪がうどん文化圏」であると言われるようになったゆえんではなかろうか。

 大阪で生まれたきつねうどんは、信太ずし(いなりずし)のあの甘辛く煮付けた油揚げが原点であり、それが昆布をたっぷり使った薄味のだし汁にしみ出る食感は、庶民の味に止まらずまさに大坂の味そのものである。

【日本麺類業団体連合会が監修したうどんの基本技術】のなかではきつねうどんは江戸時代からあったとし、【図解大阪府の歴史 津田秀夫 河出書房新社】の中の大谷晃一執筆では、きつねうどん発祥の確かな年代は分かっていないが、明治10年代が有力だとしている。
 一方、【きつねうどん口伝 松葉家主人・宇佐美辰一(聞き書き) 筑紫書房】では、船場の老舗・大阪うどんの松葉家が明治26年に開店したとき初代が考えたうどんで、たいへん繁盛し「うまいもん屋」として名がとおるようになったと書いている。
いずれにしても、「きつねうどん」は江戸時代末期から明治の初期の頃に登場したことが分かる。
 「うどんすき」は、大正13年に蕎麦を主に麺類専門店として船場で創業した老舗・美々卯の先代が戦後になって考案した。昭和35年には商標登録をしているので大阪の麺類店ではわざわざ別の名前にしている例が多いのだが、すでに「うどんすき」という呼称は普通名詞になってしまっていることを考えるとこれもなんだかおかしな感じがする。(実際にはその後、平成9年に「杵屋うどんすき事件」という係争事件があって、すでに普通名称であるとする東京高裁の判決が下っている。)

 大阪のうどんを語るに際し、やはり松葉家ののれんくらいはくぐっておきたい。賑やかな心斎橋筋から二本ほど離れた通りに面していて、うっかりすると通り過ごしてしまいそうな松葉家には、中に入っても一昔前だとどこにでもあったうどん屋の原風景だけがあってそれ以外の今風で余計なものがなにもない。名代の老舗うどん屋をわざわざ訪ねた者にはいささか拍子抜けの感があったけれども、しばらく椅子に腰を据えていると、この店の風格と歴史がおのずと伝わってきてゆったりとした気分で「きつねうどん」をすすっているのである。
それと、味についても洗練された昨今の大阪の味ではなくて、懐かしい素朴な大阪の味で、だしも思ったより味も色も濃く感じられた。
昔の大阪の味なのか、生き馬の目を抜くとまで言われ忙しく働いてきた船場の味を伝えているのであろうか。


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