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    素麺とうどん
 
「素麺」や「うどん」より以前

 奈良・平安時代にまで遡ると唐菓子の一種である索餅(さくべい)や餺飥(ハクタク)などがあって、これらは、「めん」や「和菓子」の祖先らしきものだとされている。索餅は小麦粉や米粉を練って縄状にした食べ物で、植物油で素揚げや油引きにした食べ方もされた。縄状の形状から麦縄(むぎなわ)とも呼ばれた。やはり唐菓子の一種で、小麦粉を練って切ったものに餺飥(ハクタク)があり、ほうとう(はうたう・ばうたう)などのよみ方ともされている。
そして、少なくても室町時代(1336~)に入ると素麺(索麺)やうどん(饂飩)がいくつもの文献に登場し、その中には碁子麺などの名前もみられる。(ただし、この時代に登場する碁子麺は、小麦粉をこねて竹筒で碁石の形におし切り、ゆでて豆の粉を振りかけたもので、現在名古屋地方で名産の平打ちうどんの棊子麺とは異なる。「庭訓往来」 東洋文庫 石川松太郎校注 平凡社 による。)
 素麺やうどんは、これらの過程から練った小麦粉を引き延ばした索麺(素麺)であったり細長く切った切り麺や饂飩(うどん)として登場するようになり、きりむぎや冷麺(ひやむぎ)なども誕生したと考えられている。

素麺
 文献による索麺・素麺(サウメン・ソウメン)の初見は八坂神社の祇園執行日記」にある康永2年(1343)の記録で、
自丹波素麺公事免除之間、一兩年不上、仍素麺儀沙汰之、坊人宮仕等少々來」とあって、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている。(「八坂神社」は明治以降の社名であって本来は「祇園社」といった。)
 この「素麺」の記述部分をもう少し詳しく書くと、「社家記録」の康永2年7月7日の記録で、この日は、錦里商人などの年貢の記述から書き始められ、その中の一項目が上記の記述で、短い記録の中に「素麺公事」と「・・仍素麺儀・・(素麺の儀)」と重ねて「素麺」が書き記されている。

 いま一つの異説を書き加えると、この素麺の初見に対し、これより三年前に素麺が登場しているというのである。それは、中原師守という公家の日記「師守記」に書かれた「麦麺」とあるのを「そうめん」のことであるとしている。歴応3年(1340)正月の記述で、「四日、・・・・、今日風呂始如例、幸甚ゝゝ、山臥持参一瓶・麦麺等、・・・」とある。
 これらは、ほぼ同年代であるところからも「素麺・索麺」と同じものを指している可能性も否定しきれないのではあるが、ここでは「素麺・索麺」という表記と「ソウメン・サウメン」の訓み(よみ)を持って、「そうめん」とする立場をとるとともに、重要なことは、「素麺公事」という四字熟語は寺領や荘園での課税がすなわち公事であり、「素麺公事」もその一種だと考えるとこの史料は素麺の初見であるとともに、すでに素麺はこの時代には公事の対象になりうるようなこの地域の特産品になっていたこともわかるのである。

 一方、東福寺によると、円爾弁円(えんにべんえん 1202~80)は嘉禎元年~仁治2年(1235~1241)宋に渡航して「中国から多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与。また水力を用いて製粉する器機の構造図を伝えて製麺を興す」と伝えていて、今も素麺を供える行事が残っているという。円爾弁円の聖一国師という号は勅謚(天皇から贈られた最初のおくりな)である。

東福寺の開山堂(常楽庵) 

勅謚聖一国師の扁額

聖一国師を祀る開山堂(常楽庵)と勅謚聖一国師の扁額(部分)

 京都や奈良には、平安末期から鎌倉時代、さらに室町時代の初め(南北朝時代)にかけて朝廷や貴族・寺社の支配を背景にして、供御人や座が多く作られて、次第にそれぞれの独占販売権を持つに至る。東山御文庫記録にある素麺供御人や、中御門家の素麺座、奈良・興福寺の素麺座などが挙げられる。なお、供御人に対する課税は公事であり、座の場合は座役や座銭がかけられたが、祇園執行日記に記録されている「素麺公事」もその一種であろうか。
「中世の惣村と文書・田中克行著」によると、文明12年(1480)~文亀2年(1502)の頃、近江国浅井郡坂本の素麺屋彦二郎(長通入道)は京都の荘園領主・山科家の供御年貢を取り扱う任務を請け負っていたとある。地域でも力を持つような「素麺屋」が登場していたことがうかがえる。

 素麺が各地に広がる元となったといわれる三輪素麺は、安土桃山(16世紀末)の頃、大神神社(三輪神社)の神主によって始められたといわれ、慶長年間には小麦の粉も自家製粉するほどの設備と専門的な技術者集団を有するまでに発展していて、その素麺作りの技術が全国に広まっていったといわれている。
 新島繁著の「蕎麦歳時記」によると、三輪の恵比寿神社の祭事(三輪初市祭り)や三輪明神を祭る大神神社の卜定祭(ぼくじょうさい)では、神託によって初相場を占い、米・麦・豆などとともにその年の素麺の値段も決めたという古い行事が伝わっているという。
 宝暦四年(1754)刊行の日本山海名物図会」では「大和三輪素麺名物なり、細きこと糸のごとく、白きこと雪のごとし。茹でてふとらず、全国より出る素麺の及ぶところにあらず・・」と記されていて当時の評判ぶりが分かる。
 江戸時代に諸国名産に登場する素麺は和島(石川)や、川越(埼玉)などの東日本産もあるが、やはり西日本が多くを占めていて、三輪(奈良)、播州(兵庫)、小豆島(香川)の他、大矢知(愛知)、伊予・五色(愛媛)、備中加茂川(岡山)、島原(長崎)などが有名である。
 全国の産地をみると、良質の小麦が穫れ、良い塩が採れて胡麻や菜種の製油ができる地域であるか、それらを集積しやすいという地域背景が良い素麺を育てることに繋がったことがうかがえる。
素麺が地名になっている例もあって、山梨県身延地区には西素麺屋町や東素麺屋町があり、広島県三次市には下素麺屋一里塚という地名も残っていて、うどんやそば切りとは異なる側面を持っていたのである。

うどん
 文献上で「うどん」の初出とされているのは、奈良の法隆寺の史料嘉元記」正平7年(1352)の「三肴毛立、タカンナ、ウトム、フ、サウメマ、一折敷・・・」という記録で、法隆寺西室の三経院で酒の肴とともに竹の子やうどん、麩など・・が出されたとあり、フ(麩)」の初出でもあるようだ。

 文献に登場する度合いは、素麺に比べるとほんの少し時代が遅れるものの室町時代に入って頻繁に見られるようになる。索麺・素麺(サウメン・ソウメン)に比べると言葉の表記と訓み(よみ)の多いのが特徴的であり、室町時代の(古本)節用集や庭訓徃来、運歩色葉集などの古辞書でも、表記は饂飩・温飩・武飩・烏飩など、訓み(よみ)ウトムウトン・ウドン・ウントン・ウンドンなどが使われている。

 文献にみる素麺や饂飩は主として公家や寺社が遺した記録によるものであるが、その一方で、日本の各地には原始的な特徴を残し地域性豊かな素麺やうどんに類する麺が多く伝わっている。
代表的な例は、岩手県地方の「はっと」「はっとう」(例:あんずきばっと)、山梨の「ほうとう」、熊本や大分・宮崎などのほうちょう汁」「だごじる」「やせうま」などはあきらかに麺としての古い形をのこした一種のうどんの原形であり、古くから近年までの庶民の大切な主食ともなってきた。
「ほうとう」という言葉を遡ると「はうたう・ばうたう」に通じ、早い時期から記録に登場するが、ここでは戦国の武将・武田信玄が野戦食として採り入れたのが始まりとする説もある。「ほうちょう汁」も戦国のキリシタン大名・大友宗麟が豊後国領主の時、大飢饉の飢えをしのぐために食べさしたのが始まりだとする説がある。
大分では「ほうちょう汁」と、このほうちょうをキナ粉と砂糖でまぶした郷土料理の「やせうま」がある。杵築の殿様が幼少の頃の好物で、やせ(腰元の名前)に「やせ、うまを持て」と催促したことに始まるという説もあるが、本来は、手で延ばしたり握って作られた形が馬の背に似ているところから「痩せ馬」といったり「やせんま」といわれるいくつかの地域に共通する呼称であろうと考えられる。
熊本の「だごじる(だんごじる)」は手で延ばす方法と延ばして切る方法がある。
愛知地方の「芋川うどん」「平うどん」になるとすでに有名なうどんとして確立し、寛文元年(1661)の「東海道名所記」や、弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」、さらに、井原西鶴の「好色一代男」(1682)にも登場する街道一の名物となっていた。
 製法が手延べ素麺に近く、太さもうどんと素麺の中間くらいの秋田の稲庭うどんは慶長年間(1596~1615)に始まり、寛文5年(1661)に秋田藩御用となっている。昔ながらの手練りと手綯い(てない)の干しうどんの製法は現在でも引き継がれている。
 素麺と同じ製法ながら引き延ばしに油を使っていないのがこの稲庭うどんと、宮城県白石市の十数センチの短い「うーめん」で、いずれも素麺より少し太めである。北陸では富山・氷見の江戸中期に始まった「氷見糸うどん」は、素麺の技法からの手延べ天日干しである。
 上州うどんといえば群馬県であるが、なかでも水沢うどんが有名である。榛名山麓にある水沢観音の門前には400年の歴史と伝わるうどん店もあって、しごき延しの手法でうどんとしては細打ちの3ミリ幅で、季節を問わず冷たいうどん盛りで食される。

 この他にも、歴史があってその土地固有のうどんは随所にあるが、最近特に外せなくなったのが香川の讃岐うどんだ。
この地では讃岐出身の空海が1200年前に中国から伝えたとも言われる古さである。
江戸時代から讃州讃岐は上質の小麦の産地で、農家などでは日常からうどん作りが盛んに行われていた地域であったし、金比羅宮には元禄年間の終わり頃(1700年頃)の作と云われている絵屏風が伝わていて、そこには門前の風景に三軒のうどん屋が描かれている。
 香川県の調査によると同県は、うどんも小麦粉も消費量は全国一だという。
総務省統計局の統計資料では、県民当たりの「そば・うどん店」店舗数をみると、全国一位は讃岐うどんの本場:香川県がダントツで、東京は二位だという。ちなみに大阪府はどうかとなる10位以下で案外低い位置にある。
 勿論、香川県は「うどん屋」で、2位の東京は「そば屋」で軒数を稼いでいることは想像できる。その反面、大阪の場合もうどんが有名の筈であるが、その割りには軒数がさほどでないことが窺える。
こうしてみると、讃岐うどんは歴史が古く県民のうどん好きの度合いもよくわかるのであるが、こん日、過熱ブームになっている讃岐うどんは、昭和45年の大阪で開かれた日本万国博覧会の頃あたりが広く全国に知られるようになった発端で意外に新しい。
 実際に現地に行ってみると市町村の離れ離れ、具体的には、山あいや如何にも田舎といったところにもうどん屋が点在し、店舗の形態も、商売の仕方も多種多様である。共通するのは総じて値段の安いことである。

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