そばの歴史   <  サイトへ
 大阪の蕎麦  
 大坂城と大坂の町の賑わいを描いた「大坂市街図屏風」があって、よく見ると 「八けんやはたこ町」(八軒屋旅籠町)の町名貼札があって、その近くに楕円形のうどんか蕎麦を麺棒で延している図が見て取れる。
 この屏風は近世初期の作と言われ、慶長(1596〜)・寛永(1624〜)どの時期にも通じるイメージだと言われている傑作である。

女性が蕎麦かうどんの麺生地を長い麺棒で延している
画像をクリックすると少し広い場面が開きます)
 大坂を描いた中で、麺棒でうどん又は蕎麦を打っている風景は非常にめずらしい。特に、延しているのは女性である。長い麺棒で「丸出し(麺を打つ工程)」をしているのであろう。この時代はすでに商いとしての蕎麦切りがあったと考えられるので、うどんとも蕎麦切りとも解することが出来る。
全体としては相当大きな屏風絵の中のごく小さな一部分ではあるが、細かく観察すると座って前屈みで体重をかけて延している図はとてもリアルである。

 大坂では天正12年(1584)に新町でそば屋「砂場」が開業し、江戸では慶長19年(1614)に多賀大社の社僧(正しくは、多賀大社別当不動院で尊勝院の住持である)慈性が常明寺に行った日に蕎麦切りを食している。
 京都では、権大納言・日野資勝の日記「資勝卿記」のなかで、元和10年(1624)2月の条で京都の大福庵において蕎麦切りを馳走になったことを記している。(この人は、江戸で蕎麦切りを振る舞われたと「慈性日記」に書き残した慈性の父である。また、大福庵は慈性日記にもたびたび登場している。)

 もっとも、慶長から延宝ごろ(1596〜1680)までの江戸の風俗見聞を記した「むかしむかし物語」という随筆によると、寛文4年頃(1665)には、麺類を扱うほとんどの店の看板が「うどん蕎麦切り」だったと書かれている。さらに、天保12年(1841)に戯作者・柳亭種彦が書いた随筆「用捨箱」の中の下之巻十五で「饂飩(うんどん)の看版」に「昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに蕎麦きりを売る。今は蕎麦きり盛んになりて、其傍に温飩を売る。」という一文が登場している(原文の表題では「饂飩」で、文中は「温飩」、振り仮名は「うんどん」)。

何人も並んでそばを打つ職人が描かれている 左の絵は、摂津名所図会に描かれた砂場いづみやの店内風景からそばを打っている周辺だけを切り取った場面である。画面左側に何人も並んで打つそば打ち職人が描かれていて、その後ろに立つ二人の男はうどんを踏んでいると思われるが、ひょっとすると、踏んでいるのはうどん玉ではなく、大きなそば玉を踏んでいるのかも知れない。
踏んだそば玉を小分けして打つ分業体制になっていたとも考えられる。特に、この時代、これだけの人数の職人が同時進行でそばを打っている図は他に見られない。

 
長谷川光信画
の「絵本御伽品鏡」という絵草紙に、大坂の名物風俗を描いた享保15年頃(1731)の蕎麦切屋の店先風景がある。暖簾の字から享保頃のいづみやであるが、その置き行燈(箱看板)に「壱せん・そば切・八文」(一膳八文)とそばの値段が書かれ、その同じ行燈に「うんとん」(うどん)の文字も見える。
*「壱せん・そば切・八文」については「蕎麦の値段」で後述

 江戸時代 蕎麦切りが登場するようになって、上方でも江戸でも蕎麦とうどん(うんとん・うんどん)が一緒の店で扱われることが多く、置き行燈などに双方が書かれている絵がいくつも残っている。
ただ、京坂(上方)・江戸の風俗や生活を記録した「守貞謾稿」などによると、江戸時代後期の上方ではうどん屋が主になってうどん屋で蕎麦も扱われ、江戸では蕎麦屋が多くなってうどんは蕎麦屋で売られることが多くなったとされている。
江戸は蕎麦、上方はうどんという様相が出現し出したのは、どうも江戸の中期以降であったことが伺える。
*守貞漫稿の起稿は1837年(天保8年)で、約30年間書き続けられた近世風俗史の基本文献である。

 大坂周辺の蕎麦の記述を紹介すると。
「守貞謾稿」には「鶴屋のまんじゅう、川口屋蒸蕎麦、椀屋の蒲鉾・・・」とあり、元禄の頃(1688〜)からの名店・大坂川口屋の繁昌振りが書かれている。
この後、「瓢箪町しなのや」も繁昌する。
「浪華の賑ひ」のなかでは大坂の今宮戎の参道にあたる戎橋筋の様子を記した文があって、「四季の茶屋 白酒屋 ・・・饅頭 菓子 饂飩 蕎麦 切鮨・・」とあって、ここではうどん屋と蕎麦屋がそれぞれ別個に登場している。
浪華百事談」という書でこんな記述がある。
ひとつは「大手筋錦蕎麦」で、錦蕎麦と呼びて商う蕎麦舗は、大手通り谷町筋より少し西の北側にありしなり。錦蕎麦は古き名にて、その製よろしきを以て大手蕎麦ともいいて、人賞して求めしものなり。とある。
もう一つの「田葉清の蕎麦」については、心斎橋南詰の東半丁ばかりの処に、天保中田葉清(てんぽうちゅう)といえる蕎麦屋あり、尤も尋常の麺類店にはあらず。という。
ただ、いずれの注釈にも、大坂市中で蕎麦のみ打ちて商う店は少なかったとなっているところからも、蕎麦とうどん、更には素麺など麺類全般を扱う店が多かったことがうかがえるのである。

「摂津名所図会」巻之六に「猪名川」の川べり風景があって、網を持って小魚を追う子供や投網を打つ人、行き交う旅人などが描かれていて、客がキセルで一服している葦簀張り(よしずばり)の茶店に貼り布があって「新そば」の字が読みとれる。
秋の「新そば」の頃には、あちらこちらで見られたであろう極くあたり前の風景として描かれていたのである。

 元禄頃の名店であった大坂川口屋が「蒸しそば」で売ったという記録が残っているが、同じ元禄の8年(1695)創業から続く大阪・堺の「ちくま」は、蒸籠で蒸して出す熱盛りを現在に伝えている。
 宝永・正徳頃(1704〜16)大坂「瓢箪町しなのや」が繁盛していたが享保になって失火によりなくなっていたり、安永6年(1777)刊の富貴地座位・下巻 浪花名物のなかでは和泉屋砂場の賑わいとともに、寂称(じゃくしょう)のそば切という紹介で「新蕎麦の早きしらせ」として登場している。
また、地方からの進出組では天保5年(1834)信州川上そばから心斎橋筋南下町に出店した信州屋などが記録されている。
 大坂よりもう少し範囲を広げてみると須磨の敦盛蕎麦、京都本願寺の法要蕎麦、大江山の鬼蕎麦、滋賀の伊吹蕎麦など当時から有名で、兵庫の出石蕎麦も蕎麦処として健在でいまに伝わっている。
また辛味大根や大根のおろし汁で食べる蕎麦について、明和4年(1767)、小浜の町人学者・板屋一助が著した「稚狭考(わかさこう)」巻六に「大根の汁にて麺を喰うを丹後・但馬・丹波にて若狭汁といへり」と書かれている。
こうしてみると、いたるところで蕎麦が商われ食べられていたことがわかる。

 商家などの晦蕎麦の習慣はつい最近まであったし、大晦日の年越し蕎麦は多くの家庭に残っている蕎麦についての習わしである。
もともと蕎麦屋の少なかった和歌山でも、年越し蕎麦の習慣は昔からの大切な行事であり、大晦日には家族が揃ってだいたいは温かい蕎麦を食べることになっている。
その和歌山、紀州の付家老水野土佐守の侍医の原田某が、幕末の江戸勤番中の見聞記「江戸自慢」で紀州と江戸の食べ物の味くらべを遺している。
 蕎麦では、「蕎麦は鶏卵を用いず 小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く 胸につかへ 三盃とは食ひがたし 汁の味は至極美にして 若山の蕎麦を江戸汁にて食ば 両美相合して 腹の裂けるを知らず食にや有らん」とある。このことからも当時の紀州では、蕎麦は玉子つなぎであったこと、一方江戸には「まじりなしの生蕎麦」と言われるような評判の良い蕎麦もあったが、大半が小麦粉つなぎの割合の多い蕎麦で、そば粉一升・小麦粉4升(1対4)や1対3などもめずらしくなかった町場蕎麦屋の時代背景がうかがえる。
また紀州の湯浅は、醤油誕生の地ともいわれて江戸時代には92軒もの醸造業者がある醤油の名産地でありながら、まだつゆの味が不味かったこともわかる。
 江戸のほうはすでに、醤油や味醂を使った洗練された蕎麦つゆが出来上がっていたのである。
味醂はもともと蜜淋酒(酎)とも書かれた甘い飲用酒であった。「守貞漫稿」にはみりんについてこんな記述がある。「美淋酒は多く摂津の伝法村にて醸す 然れども京阪では用いること少なく 多くは江戸に漕して諸食物醤油と煮る」とあって当時流行しだした鰻の蒲焼きのたれや蕎麦つゆなどにも使われだしたことを記している。
 さらに、「江戸自慢」には「鉢に入れ汁をかけしを掛と言 小さき蒸籠に盛り 素麺の如く食うを盛という」とある。この文面から、紀州では冷たく食べるセイロに盛ったモリはめずらしかったことがわかる。

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