そば切り発祥を探る  < 次へ < サイトへ

発祥説に登場する地域

 そば切りについて最も古い記述が残る木曽・大桑村の定勝寺は須原宿(現在:国道19号線の旧道)である。甲州説・信州説ともに伝聞の域を出ないとは言え、発祥の地と書かれた本山宿も同じ中山道木曽路であり、甲州街道(現:国道20号)との合流付近で、甲州・天目山棲雲寺へも通じている。
ここからさらに中山道木曽路を松本に入り北上して犀川沿いに辿って行くと長野の善光寺に至る。ここから山側に入り込めば現在もそばの里で有名な戸隠山信仰の地・戸隠神社に到達する。
中山道から北国街道に辿れば信濃町柏原を通って新潟へと至る。

 木曽・須原宿 定勝寺山門
 定勝寺は木曽氏にまつわる古刹
   木曽・須原宿 定勝寺山門

 常勝寺のある須原宿のすぐ北隣が上松宿で木曽八景の景勝地・寝覚の床があって、ここには寛永元年(1624)創業という寿命そば越前屋がある。定勝寺の記録と越前屋が創業したという年数の開きは50年しか離れていない。
これらの時代、寺でそば切りが振る舞われ、かたや商いとしてのそば屋が存在した地域となる。
 さらに、寛永13年(1636)の中山道・贄川宿では、日光東照宮の遷宮式に尾張藩主に随行した儒学者・堀杏庵は紀行文「中山日録」に大根の絞り汁・たれ味噌・薬味で食べたそば切りの食べ方について初見を残している。これは、蕎麦きりの製法が初めて記述された寛永20年の「料理物語」に書かれた「汁はうどん同前、其上大根の汁くはへ吉・・」よりも7年遡る出来事である。
かつて蕎麦切り発祥の地と書かれた本山宿も、甲州・天目山棲雲寺もこれらの地域からさほど離れていないことを考えあわせると信濃周辺一帯は諸国に先駆けて「そば切り」先進地帯であったことだけはたしかである。
  現在の寝覚の越前屋

  寿命蕎麦・越前屋の行燈看板
現在はR19  寿命そば・越前屋   05年10月5日撮す
*宿場が栄えた頃の越前屋は旧中山道沿いであった  


 多少本論からは逸れるが、ここにあげた越前屋は元々旧中仙道沿いにあって江戸時代からの木曽路名物で、ここを通る参勤交代の諸藩の大名も味わった老舗蕎麦屋である。当時の賑わいを浮世絵師・歌麿は「寝覚蕎麦越前屋の図」でそばを食べる商人や旅人を配した店の様子を描き、十辺舎一九は「木曾街道続膝栗毛」で「寝覚蕎麦越前屋」について「それより寝覚めの建場にいたる。此ところ蕎麦切の名物なり、中にも越前屋といふに娘のあるを見て、名物のそばぎりよりも旅人はむすめに鼻毛のばしやすらむ・・・」など書いている。
 島崎藤村は「夜明け前」の第二部上第三章でこの「寝覚の蕎麦屋」を登場させている。文中では主人公の半蔵と中津川本陣の景蔵が店内で出くわすが、木曽路を往来する旅人の多くは「木曽の寝覚で昼」を目指すほどの名物そば屋であったと書いている。(主人公・青山半蔵は馬籠本陣・庄屋で、藤村の父がモデルになっている。)


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