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蕎麦切り誕生の背景と伝播

 ソバの実は、粒食や粉に挽いてそば掻きや団子などの粉食で食されてきた歴史は長い。そしてそれが麺状に工夫されて初期の「蕎麦切り」が誕生した。おそらく、当初は原始的な技法のために太くてしかも短かかったが、製粉技術の革新もあってそば粉の質の向上と、麺に作る技法もさらに熟練されて、多人数にも振る舞える料理としてその地域に定着し、さらに広い周辺の地域へと普及していったと考えられる。
このようにして「蕎麦切り」が誕生し普及していく過程にはさまざまな環境や条件が必要であったことは言うまでもない。
ここでそれらを整理すると下記の事柄が考えられる。
@米や麦よりも雑穀に依存した食環境があって、豊かなソバの産地を有していた。
A収穫した(ソバなど)穀物の品質を保持するための経験や保存設備を備えていた。
Bそば粉を扱い慣れた長い食の経験にそば粉の改良が加わってそば切りの素地になった。
C当時としては新しい製粉設備と技術を備えることができた。(時代に先駆けた石臼の保持)
穀物を杵で叩き潰して粉にする胴搗(どうづき)製粉から石臼製粉へのそば粉の技術革新に恵まれた。
D蕎麦切りの出現と新しい製粉技術(石臼)が、同時タイミング的に普及・伝播していく時代背景に恵まれた。 信濃一帯は良質のソバの産地という点では、他に類を見ないほどに適した気候風土であり、逆に稲作への依存が低く、米にかわるソバやヒエ・アワなどの雑穀を主食にすることが多かったため、当然のこととしてそれらを積極的に食生活にとりいれて加工する工夫がなされ、なかでもソバは製粉され、ハレのときの食べ物として調理の工夫をされてきたことは見逃せない。
「ハレの食べ物」や「馳走」とはその材料が貴重であったり珍しいことの場合もあるが、身近な食材の場合には調理の過程でさまざまな手が加えられたり日常よりも工夫された料理であることが大切である。
したがって、製粉技術が改善されて上質のソバ粉が現れることによって、「ハレ」の時や「馳走」「もてなし」の際の調理法がいままでより一段と工夫の巾が広がり、蕎麦切りが編み出されたとしても不思議ではなかったといえる。

 わたしの仮説では、蕎麦切りは信濃で誕生したと考える。その根拠は、蕎麦切りの初見から江戸期を通じて信濃地方は、他の地域には見られなかった多くの蕎麦関係の事例が登場する蕎麦の先進地帯としての地位を確立してきたことに他ならない。
そして、信濃で誕生した初期の蕎麦切りは、熟成・洗練されながら信濃一帯に普及し、さらにはいくつものルートを経ながら各地へ発信していったのではなかろうか。木曽路を通って美濃、草津から近江を経て京・大坂へ到達する「中山道:上方ルート」。 もう一つは草津で中山道から分かれて、「名古屋・江戸に至る東海道ルート」。信濃を発信し甲州街道によって上諏訪を経由、甲州に至り江戸に到達した「甲州街道:江戸ルート」。
この他、糸魚川街道を辿る「越中・越後に至るルート」も当然であった。
勿論、食文化などの伝播を単純なルートのみで推理出来るわけではないが、ひとつの大きな流れとしてそれぞれのルートを考えた場合、中山道:上方ルートからは風俗文選」の中で蕎麦切り発祥の地と書かれた本山宿も通り、木曽大桑村・須原宿の定勝寺などへ広まりながら、さらには大坂にも根付くことになって砂場などの登場を促すこととなった。 また、「東海道ルート」からは「蕎麦覚書」があったという尾張一宮の妙興寺報恩禅寺、そして甲州街道ルートでは甲州の天目山・棲雲寺などに伝わるとともに、江戸の地へも伝わる。

 当時、経済・文化の中心は京都にあり、大坂は本願寺寺内町として成長し、やがて太閤秀吉の大坂城築城と城下町の造成で、結果としては商業都市と天下の台所へと発展していく。
一方江戸は、上方よりも遅れてはいたが十六世紀の末から政治の中心になり、やがて百万都市に向けて成長してゆく過程の初期にあたる。
いずれの地域でも同じ麺類では既に普及していた素麺やうどんの素地があって蕎麦切りもゆるやかに受け入れられていったと考えられる。

 江戸に蕎麦切りが入って、それが庶民の嗜好とも合い、あたかも昨今のファーストフード的な受け入れられ方で普及して、蕎麦文化を形成していったかのような錯覚があるが、実際にはそれはもっと後の江戸中期以降のことなのである。
江戸っ子や江戸前という言葉も18世紀後半の表現であり、江戸の食文化の大半はこの頃に開花したのであって、蕎麦切りもその例外ではない。

 江戸の早い時代、慈性日記に登場する常明寺については依然として不可解ではある。家康が江戸城大改造(1604)に取りかかって十年足らずの慶長十九年(1614)にそば切りは登場してはいるが、改めて慈性日記を読み解くと、江戸で蕎麦切りを作られたことは事実であるが、日記の記述を詳しく読み解くと、蕎麦切りを打って振る舞ったのは江戸に逗留していた天台僧のグループであった。(余談かも知れないが慈性の身分を多賀大社の社僧と解釈したことに問題があると言わざるをえない。)
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