DIARY


   




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Photo:「ぷかーり ぷかり ―仏アルカッションの海辺にてー」  by Yoko.Y


 
 2002年7月31
 Wed. いずれにしても

 ご、ごめんなさ〜い。先週いっぱいはおろか、今週もおさぼりモード全開で、いよいよ7月はおしまい。実は先週、一度日記にとりかかった日もあるのだけれど、完成を見る前に睡魔に負けてしまった。今日こそは、と思いつつ、書きたい気持ちとは裏腹にやっぱり眠いぞお。

 とにかく、7月は怒涛のように過ぎたというのが、正直な感想だ。終ってみれば、どれもそれなりの成果があった。
父も手術を乗り越え、退院の日を待つばかり。5年間の経過観察は必要なものの、大手術を耐えた父にとっては、何よりの朗報だっただろう。いただいた余命をどう生きるかは、父の心ひとつだけれど、娘としては「この先は神様のごほうびだと思って、楽しく生きてほしい」と思うばかりだ。

 義母についても、あれほど拒んでいた介護保険サービスを何とか受け入れてもらえそうなところにまでこぎつけた。思えば3年前、義父母が住んでいる市の保健婦さんに病状を訴え、自宅訪問をお願いした、あの頃のスタートラインにもう一度立った感じ。奇遇というべきか、今日はその時に話を聞いてくださった担当者にもお会いし、まさに振り出しに戻った気がした。その間、義母の状態はかなり悪化してしまった。それだけは悔やまれるが、何でもそこに至らなければ動かない、ということなのだろう。

 娘の発表会モードも一段落。ただ、その疲れがボディブロウのように、じわりじわりと効いている。しかもこの暑さ。今日こそは一番の暑さだ、と毎日言っているような・・・。

 一番割りを食ったのは、わがSO−TAI−KI。決して忘れていたわけではなかったのだけれど、後回しにしてしまった心の弱さは大いに反省せねば!

 さあ、8月はいよいよ私の誕生月! そう言いつつ、来週からまたは母親モードも要求される日々ではあるのだが、こうなれば、不在の日以外はたとえ1行でも、日記その他更新を進めていきたい。歳をとる辛さもある・・・。

 なんか、言い訳だらけな日記に相成り候。それにしても世の中はもっと奇奇怪怪。本来ダブルブッキングに非があるはずなのに、驚異の大移動をレポートし、レポートされて喜ぶ和泉流二十世宗家とマスコミのハイエナ根性。さて、皆さん節子ママの手をご覧になっただろうか。よくもまあというほど、ほとんどの指に指輪がギラリと光っている。その趣味の悪さ、自己顕示欲の強さだけを見ても、ただもんじゃあないことは一目瞭然だ。心ある人なら、その辺見抜いていると思うけれど。政治であれ、犯罪であれ、とにかく、あまりにもしょうもない男たちが世の中を騒がせている。その向こうに見え隠れする母親の影。背後に父親不在。いきつくところは男と女の関係なんだろうけれど。

 
 
 2002年7月27日 Sat. こもごも
 一週間のご無沙汰でした。いやあ、すっかり玉置宏(笑)してしまったワタシ。今週も怒涛のような毎日でありやんした。メインイベントがあった月曜日は、朝から夜までほとんど娘の発表会に追われて、新聞もTVもあったもんではなかった。まるで浦島太郎状態。いろいろ書きたい話もあるけれど、以下省略。

 火曜日は急に現実に戻され、父の病院へ。手術後初めて医師からの説明を聞いた。「摘出した腫瘍はきわめて早期ガン。予後の抗がん剤治療も放射線照射も必要なし、5年間の経過観察だけは続ける」との話に胸をなでおろす。せっかく命拾いしたというのに、父は大好きなタバコも「控えま」と宣言した、その舌の根も乾かぬうちにタバコを吸うのだった。「やめろ、とは申しませんが、ご本人もそこのところはよく考えて」なんて、遠回りな物言いをする医師に思わず、「先生もタバコを吸われるんですか」と聞いたら、彼は神妙な顔で「たくさん吸います」と白状した。無精ひげに左手薬指のデザインリング。白衣でなければ、おそらく医者には見えないだろう。その上、ヘビースモーカー。医者の無用心とはこのことか。

 木曜日、今度は義母のお見舞いへ。ICUと名づけられてはいるが、普通の病室に、義父と二人で尿印していちゃ\\\

 水曜日は学校のプール当番。約1時間、プールサイドに立ち、子どもたちを監視するというだけのことだけれど、子どもをプールに参加させる家では、必ず当番もやらなければならない。そのせいかどうか、参加する子どもの数は予想以上に少なかった。昼からは娘と映画『スチュワート・リトル2』を観る。前作をレンタルで観て、親子ともどもパート2のロードショーを楽しみにしていたのだ。シネコンスタイルの小さな映画館だけど、客入りは芳しくない。でも、これは大人の鑑賞にも堪えうる子ども向け映画。吹き替えの軽妙な面白さも特筆ものだ。

 その『スチュワート・リトル2』を、今日は字幕版で観てきた。もともと実写とアニメの合体SFX映画。オリジナル版でも主人公、スチュワートの声は、マイケル・J・フォックスが演じている。パーキンソン病と闘いながら、声だけの演技をしているのだ。ちなみに日本語版は藤原信也。こっちも
 
 2002年7月20日 Sat. へとへと系

 だいたい、今までだって平気でほらを吹いてきた私ではあるが、今度こそ、我ながら落ち込むほど、大ほら吹きを自覚した。この3日間で掃苔記を完成だって? ちゃんちゃらおかしい。何ひとつ手につかないまま、約束の3日が見事に過ぎていくのだ。ははは。笑っちゃうぜ。

 考えてみれば、それはかなり希望的観測。「そうしたい」「そうしなければ」という気持ちがないまぜになった苦し紛れな発言だった。しかし、この目論見の甘さはどうにかならないだろうか。

 翻弄されているのは、娘のこと。おけいこ事というのは、発表会というヤツがついてまわる。7月はまさに発表会月。しかもダブル。こういうとき、母親は最大限のエネルギーを子どもに注がねばならない。父親なんぞ、今のところ運転手役にもならない。去年もそんなことはあったけれど、今年はその比ではなかったのだ。いやあ、ここを話し始めたらグチも際限がないので、もうやめておくけれど・・・。

 第一弾は先週終った。メインエベントはこれから。だから、この3日間も、思えば大変だったのだ。しかし、やってみてわかる能天気さ。そもそも、身体はすぐに疲れるっていうのに・・・。

 そんなわけで、実はもうヘトヘト状態。かといって、頭の中はなぜか覚醒状態。ぬるいお風呂に入ったら、少しはほぐれるだろう。明日は朝寝坊してまえ、の境地である。

 その一方で企てる夏休みの計画(なーんや、そら)。ここでも夫はほとんど何の役にも発たない。あらゆる旅は私任せなのだ。まあ、行きたいところに行きたい私だから、夫任せにはきっと鼻っからできないけどさ。

 日記も実は来週前半はまた滞りそうな予感。これには能天気に実行したりして・・・。

 

 2002年7月18日
 Thu. うんざり系

 昨日は、嫌な出来事があった。冗談だと笑って済ますこともできるし、考えようによっては生命の安全にもつながる話なので、不安に思えばどんどん怖くなって、ベッドに就いても寝られなくなった。思い余って、隣でグーグーやってる夫を無理やり起こし、話を聞いてもらった。真夜中の3時頃のことだ。おかげで寝不足である。

 誰が何のために、と考えるとますます気持ち悪い。でも、SO-TAI-KIにはおそらく関係ない。単なるいたずらであろう・・・なーんて、読んでいる人には何のことだか、分からないでしょうが、ここでは詳細を言えないのである。

 しかし、世の中嫌なことばかり。心から「素敵」とか「素晴らしい」「いいなあ」と感じられる人もモノも、めったにお目にかかれなくなった。自分自身だって、あまり誉められたもんじゃないけど・・・。

 たとえば、TVを賑わす人々の軒並みうさん臭いこと! もう大人しくなるだろうと思われるサッチ−も田中真紀子も、ますます疑心暗鬼な行動に打って出るし、ご他聞に漏れずデヴィ夫人は脱税を報道されて開き直ってるし、ゴージャス叶姉妹は何だかんだと現れてはスキャンダルを栄養にしてるし、御宗家問題の和泉元彌は相変わらずダブルブッキング問題でで喧しいし・・・。どれもこれも、コトの本質とはまったく無関係な手垢のついた「ネタ」としての存在。そういう人たちに共通するのは、「名誉毀損だ」とメディアや批判した側を訴えたりする逆の攻撃性。それを喜々としてさらにネタにするメディアの品性。

 この人も忘れていた。一国の長ともいえる小泉首相の、いい加減さには、こっちもいい加減彼にもの申すエネルギーも「もったいない」気さえする。しかし、彼も上記の人たちに共通している。自分を攻撃する人には、かなり激昂する。感情論でとらえるし、自分に不利なことには核心を見事にはぐらかす。

 田中康夫前長野県知事を見るまでもなく、皆さん「対立構造」がお好き。でも、対峙するものが完全にずれているのだ。あるいは見えていない?

 小泉さんの人気凋落に乗じて、今度は早くもメディアは石原慎太郎待望論を持ち出しているけれど、いつまで同じバカをやるつもりなんだろうね、日本は。どいつもこいつも、もう「う・ん・ざ・り」であーる。

 そういえば、やめなさいよ、ハイヒールのモモコ。お腹の中の娘(もう性別が判明しているとか)に「シャネル」と命名するという話。本質もへったくれもないブランドおたく。他に考えることはないのかねえ。

 16日の日記に『ソウルスタイル』のことを延々書いたので省いたのだけど、国立民族学博物館(通称『みんぱく』)
の常設展示も、実は目からうろこの面白さだった。世界中の民族学的な展示物がところ狭しと並んでいる。まさに人間の智恵と歴史のるつぼ。その中に佇むだけで圧倒された。私たちは今の時代に生きているけれど、「今」が突然現れたわけじゃなく、連綿と続く人間の営みの中でつながってきたからこそ、今があるのだ。過去をすっかり無視し、大きな顔して今を消費尽くしている私たちへのしっぺ返しはいつくるのだろう。

 1日見ても飽きないだろうと思いつつ、時間がなくて文字通り駆け足でぐるっと回ったけれど、今度は娘と一緒にじっくり見てみたい。歪んでしまった現代人に疲れたら、みんぱく。私は自信をもってお奨めする!
 
 それにしてもいつも不思議なのは、叶恭子の縦巻きカールと叶美香のバサバサヘア。どっちも全然キレイじゃなあい。うっとおしいし、ワンパターン。そして改造しているとしかいえないあのバストを露出させるためだけに着ている陳腐なドレス。不自然な眉。彼女たちを本当に「おしゃれ」だと思っている人はいるのだろうか。彼女たちを持ち上げる根拠がどこにあるのか、分かる人がいたら、教えてほしい。

 今夜から3日間で何とか掃苔記の更新を完成させたい。宣言すればやるでせう。
 
 2002年7月16日
 Tu. アイゴー、ネ、パルチャヤ

 台風一過。空は徐々に晴れ、風がカーテンをそよがせている。そんなわけで、関西エリアはまたしても肩すかしな展開だったけれど、よその地域では前回の猛威に死者まで出たし、地盤が弱くなっている中では、新たな被害が心配される。それにしても、梅雨がまだ終らないうちにこんなに台風がどんどんやってくるというのは、やっぱり気象異常に違いないのだろう。

 昨日、万博公園内にある国立民族学博物館へ行った。特別展示『2002年ソウルスタイル』展を観るためだ。実は今日でおしまい。5月ぐらいからずっと行きたい、行きたいと思いながらなかなか時間がつくれず、最後の2日間に賭けていたのだが、台風接近におじけづき、あきらめかけた。昨日も朝、いきなり雨が降り、「こりゃ、だめだ」と断念必至だったのだけど、「出かけなさい」といわんばかしに、その雨がさっと上がり、揺らいだ気持ちを強力に後押ししてくれた(と勝手に解釈している)。

 結論。面白かった! 実はそこで韓国式のお墓が展示されているという新聞を見て、行く気になったきっかけだけど、実際行ってみて、とにかくド肝を抜かれた。まさに企画の勝利!といえるだろう。

 展示されているのは、ソウルに住む実在の家族、李(いー)さん一家の住まい。家具から電化製品、衣服に子どもの通信簿まで一切合財、李家にあるもの総てが、同じサイズ、間取り、レイアウトで再現されているのだ。これは圧巻だった。

 実は私、実際の展示物に行く前に、マルチメディアコーナーでパソコンにインプットされた李さん一家のデータを観ることにはまってしまった。かれこれ1時間半、パソコンの前でハルモニ(おlばあちゃん)、アボジ(お父さん)、オモニ(お母さん)の自己紹介や1日の生活、持ち物などをチェック。根が生えたようにパソコンの前に座りっぱなしになり、自分でも「いいかげんにせーよ」と思いつつ、面白さに誘惑されて終われない(笑)。さすがに、2人の子どもの分はやめたけど(笑)。

 最終日前日ということで、小学生や高校生の団体が大挙して押し寄せ、展示室の人口密度も凄かった。その間も私はマウス片手にパソコンに夢中。マルチメディアコ−ナーには数台のパソコンがあり、子どもたちもかなりやってきたけど、この面白さを理解するわけもなく(笑)、気がつけば、彼らはいなくなっていた。

 というわけで、展示室はゆったり鑑賞。データでしっかり予習したおかげで、再現された家の中の様子が展示物というより、生活の中におじゃましたような錯覚に陥る。手垢や埃、汚れ具合が何ともリアル(ってそのものなんだけど)
不思議なものや風景もいっぱいあり、一見日本と同じような生活も、細かく見ると、微妙に違う。

 李さん一家のお墓も再現されていた。パソコンのデータによると、妻は夫のお墓のそばにはいけないそうで、離れたところから手を合わせるんだそうだ。男尊女卑的な儒教思想が浸透している韓国の風習。妻が亡くなったら同じお墓に入れるのだろうか。

 2階には韓国人の一生を紹介した展示も。韓国人には「死んでも健康になりたい」という考え方があるそうだ(笑)。李さん一家のオモニも、39歳にしてはお肌ツルツルだった。あれも、キムチなんかの効能なのだろうか。一方で度の強い焼酎を暴飲し、実態のライフスタイルは決して健康ではないというから、おかしい。その証拠に韓国人の平均寿命は、男性68.8歳(日本は76.8歳)、女性76.0歳(同82.9歳)。日本が超長寿国とはいえ、これはかなりの差だといえる。

 2階の展示でひときわ目についたのが、棺。日本の棺には顔が来るあたりに小さな窓がしつらえてあり、杭を打ちつけた後でも故人の顔を拝むことができる。ところが韓国式にはそれがない。キャプションには「杭を打ちつけてしまうと、二度と顔を見ることができません」などと書かれ、やたらに恐怖を誘っている(笑)。2階には韓国の民族衣装が試着できたり、写真を撮ってもらえたりするコーナーがあるのだが、「死」にまつわる一画では、棺に入ることもできるという。そこには、「あなたも死者の気持ちになってみませんか」なんて書かれている。日頃、「死」だ「お墓だ」と言っている私ではあるが、一人で観に行った展覧会で棺に入って死者体験という誘いには、さすがに乗れなかった(笑)。

 しかし、やっぱりそのあたりのコーナーは、俄然興味津々。なんでも韓国では病院でお葬式もできるという。法律的に病院が葬儀場を運営できるのだ。家の外で亡くなった人は自宅に連れて帰れないという昔からの風習が根底にあるそうなのだが、曲りなりにも回復を願って入院した病院でお葬式まで出してしまう韓国人の合理精神に、何か複雑な思いを抱いてしまった。でも、わが友林檎は、かの地で亡くなった時、病院内にある教会で葬儀が行われたと聞いた。カトリックの国では、祈りの場である教会が病院の敷地内にあっても不思議ではない。「死」を前にして、神父さんが祈り、「選ばれて天に召される」祝福を与えられるから、そういうこともあり得るだろう。

 韓国のお墓は土葬が長く一般的だった。とはいえ、もはや国土の1%がお墓という状況では、国をあげて火葬が推奨され、ようやく火葬率50%にまでこぎつけたという話もあって、ここも日本とは事情が違う。

 国立民族博物館のサイトに面白い連載ヘページがあったので、ご紹介しておこう。これも今日までなのかな。

 「トドリのフィールド雑記」  http://www.minpaku.ac.jp/exhibitions/special/200203/todori/

 「こりゃKOREA!E-News バックナンバー」   http://www.minpaku.ac.jp/2002seoul/

 
 ワールドカップで一気に近づいたような日韓友好ムード。歴史の壁はまだまだ高い部分があることも否めないけれど、昨夜NHKのフランス語講座で紹介されていた長野在住のフランス人記者の女性の言葉を思い浮かべた。「日本人は他国との違いばかりを気にするけれど、同じ人間としての共通点に着目すべきだろう」
 李さん一家が韓国人として思い出も込みで家財一式を提供し、日本人にその生活を紹介することに協力されたことに賞賛を送りたい。今回の展示は、違いを発見し、日本の生活を見直しつつ、どこかでつながり、影響を与え合ってきた韓国に共感できる素晴らしいチャンスだったと思う。

 たとえば、日本人の家庭に一切合財を提供して、自分たちの暮らしを韓国の博物館で紹介することに協力してくれと言われたら、果たして「いいよ」と言えるだろうか。 何しろ、下着まで含まれているのだよ。第一、今、ステレオタイプの日本人家庭がどんな人たちなのか、どういう生活ぶりを紹介すれば日本人のことを分かってもらえるだろうか。

 今日のタイトル、「アイゴー、ネ、バルチャヤ」というのは「あー、私の運命よ」という、韓国人はよく使う台詞なんだそうだ。というか、考え方の基本。 詳しくは「トドリのフィールド雑記」で調べておくんなさい。ちなみに、今の私の気分もこんな感じ?(笑)
 2002年7月11日 Thu. リラーックス 
 娘の学校の講演会に出かける予定を反故にして、日記を書いている。小学校は何かと行事が多い。特に1年生の間はできるだけ参加しておきたい気持ちもあるし、「親」としては教育関係の講演会でありがたい話を聞いておかなければ、という気になっていたから、当然のように参加申し込みをしたのだが、最近は午前中はからだがなかなかシャンとしない。(つい、この間まで毎朝颯爽と歩いていたのに・・・トホホ)そんなわけで、今日は生真面目に予定をまっとうせず、家にいることを選んだのだった。

 「頭痛が痛い」なんて、おかしな表現だけど、頭痛がするとついこう思ってしまう。ついでに思い出すのは「白い白馬にまたがって」(笑)。どこで覚えたのだろう。お笑いの好きな学生時代の友人の受け売りだったような気はするのだけど・・・。

 インターネットで調べると、今の症状は「片頭痛」に当たるらしい。パソコンの時に休憩を入れなくちゃいけないのに、ついぶっ続けでやってしまうのもいけない。昨日は、目の中で像がびろびろと波打ってまともに見えない状態に陥った。要するに頭皮の血管(動脈)の拡張が原因らしく、鎮痛剤を飲むのもいいけれど、規則正しい生活とリラックスが大切だという。

 夫にもよく指摘されるのだけど、とにかく本でも新聞でもTVでも、私は常に情報をとろうとしているようだ。なにしろ、リラクゼーションカプセルの中でもあれやこれや考えて、ちっともリラックスできなかったし(笑)、気功治療もバリア張りまくって受け付けなかった。つまり、頭から身体全部がいつも緊張状態なのだ。すでに肩はコリコリ。頭も痛くなるはずだ。まあ、これはほとんど癖(「ヘキ」と読んで)だ。でも、こう頭痛が痛いと(笑)、頭の血管が切れる前には、やっぱりリラックスしなくちゃだめかもと思い始めている。

 講演会に行ったら、まず講演者の話をよく聞こうと思う。だた、それ以上に気になるのは、おしゃべりしている人たちなのだ。春以来数回、PTAがらみの行事に参加し、そのたびに私語でざわめく会場の雰囲気にストレスを感じてきた。そもそもどうして、人の話を聞きにきて、隣の人とムダ話ができるのだろう。その声が講演者の声を聞こえにくくさせ、他人の迷惑になっていることに何故気づかないのだろう。「親の顔が見てみたい」と思うのだが、ご本人が親だったりするから、どうしようもない(笑)。子どものお行儀の悪さを笑えやしないのだ。でも、それは私が過剰反応しているからかもしれないけど・・・。

 そんなわけで、今日はリラックスを心がけたい。そういえばここの写真も新しくなったBGMも水玉模様の壁紙も、なーんか、リラックスムード醸し出してるざんしょ? 

 掃苔記の原稿も亀の歩みながら、ぼちぼち書き進んでいる。図書館で借りっぱなしの資料の返却だけは気になっているけれど、もう少しお待ちください。LETTERSに続編をUP。長らくストップしていた「ルシイドの部屋」も、まもなくUPの運びになりそうだ。私も楽しみ。

 違う話を書くつもりが、こんな日記になってしまった。また明日以降・・・。
 

 2002年7月8日 Mon. 話は前後

  すみませんが、まずは7/6からお読みください。土曜日の夜、とある事情から充電したパソコンを寝室に運び、日記更新にいそしんだのだけど、メールチェックなどをしていたらあっという間にエネルギーを消耗し、日記を書いている途中でバッテリーがアウト。眠気も手伝って、途中までを保存し、そのまま寝てしまったのだ。

 というわけで、どうぞ。

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 ほんでもって、7/8分にようこそ。月曜日の朝は定位置で日記更新中。バッテリーも切れることなない。といっても、朝から体調最悪だ。身体はダルく妙に熱っぽい。頭も痛く、後頭部とまゆげの上をいつまでも指圧していたくなる。

 先に読んでいただいたであろう7/6でも書いたとおり、先週はもう大変だった。その慌しさは週末の昨日まで続き、実はへとへと状態。途中までの「掃苔記」を書き上げたい気持ちは山々なれど、気がつけばすでに学期末に近づき、今週は娘の下校時間も早い。ひえー、どうする?夏休みがくるぜ。

 ありがたいことに父は回復傾向にあり、あんな大手術をした後とは思えないほど、病院内を歩き回り、昨日はさすがに看護婦(今は看護士が正しいけど)から安静を言い渡されたそうだ。「長生きしとうない」と強がる人ほど、結局は長生きするんじゃないかと、笑い話になるぐらいだった。ただし、身内に病人は1人ではない。義母の方が実は深刻なのだ。

 ここでまた中断。歯医者やら居眠りやら(笑)

 で、続き。

 新しい病院でもらった薬の副作用なのか、食欲だけは旺盛だった義母が食べなくなった。顔は無表情。話しかけても一点を見つめたまま反応がない。かと思えば、急に歩き出して何やらもそもそやりだす。「歌が聞こえる」と言ってきかない。幻聴だ。畳の上には意味不明の言葉を書きなぐった紙が花吹雪のごとくちぎられ、ばら撒かれている。その前に、力なく義父が佇んでいる。窓から差し込む陽差しは暑いのに、何とも荒涼とした風景に、私自身何と言っていいのか、分からなかった。確かに顔は無表情だけれど、その目にはえもいわれぬ「怒り」の思いが滲んでいるように、私には思えた。思い通りにいかない体と心。訴えたい気持ちが胸のうちには充満しているのに、言葉が見つからない。あれは錯綜した自分自身への怒りでもあり、そういう自分を分かってもらえない身内への怒り。私たちが帰る時には寝室に入ったまま、あいさつもできなかった。

 その義母からさっき電話がかかった。この間、私がしまったガーゼと脱脂綿の場所を聞いてきたのだ。「いつも、お世話をかけて」と義母は言う。呂律はやや回っていなかったけれど、昨日とうって変わって穏やかな声だった。精神疾患の人たちはいつもいつも錯綜しているわけではなく、波があるのだ。そして症状がひどいのは、たいてい薬のせいだ。かれこれ6年、義母を見ていて、私にもそれが分かるようになっている。人に気を遣い、優しい義母はまだ消えてはいない。それでも、昨日の状態を見るのは、辛いものがあった。ある部分を治そうとして飲む薬。けれど、薬には必ず副作用がついてまわる。別の不調に襲われ、結果的には治そうとしたい部分が悪化することさえある。けれども、飲まなければ治すこともできない。本当に薬は難しい。

 義母の姿に教えられることは多い。結局、人は心が健康でなければ何もできない。歳を取れば取るほど、心の健康は重要だ。それには、若い頃の後悔を引きずらないこと。自分のうちにある不満や不安、怒りは、大きくなる前に爆発させておくこと。義母の人生は家族のために我慢してきた人生だった。いや、大正末期の女性たちは、どのみち自由に生きることなど叶わなかっただろう。若い盛りを戦争と貧困の中に生き、子育てに苦労しながら、いつかは報われると信じてきたはずだ。病気がまだ軽かった6年前、義母は自分史を書こうとした。けれど、原稿用紙数枚書いて、自分の記憶がうまく文章にできないことを理由にやめてしまった。一時は、私が聞き手になって義母を取材し、彼女になりかわってまとめたいという思いもあったのだが、それもできないまま、義母の思考回路は正常に働かなくなってしまった。今となっては叶わない話だ・・・。ただ、その時代を切り取って、何かを書くことはできるかなという思いもある。私の母は昭和5年生まれで、終戦の年は15歳だった。実はその前後の人の人生にも興味がある。向田邦子、須賀敦子、曽野綾子といった人たちだ。そして、自分が生まれた1960年という年も。とはいえ、ただでさえ掃苔記でさえ手一杯なんだから、あまり大ボラを吹くのはやめとこう。

 最近、ついつい身内の話に終始してしまう。たまには小泉さんやら、政治がらみな話題にも手を伸ばしたいのだけれど、それは明日またってことで・・・。

 2002年7月6日 Sat. やれやれ
 父の検査結果が出たのが火曜日。水曜日に病院に出向いて担当の医師から説明を聞いたのが水曜日。そして木曜日には手術。この3日間の出来事は、それぞれに通常もう少しインターバルがあるはずなのだけど、病院の都合や医師の説明不足が重なって、検査に3週間待たされたわりには、すぐさま手術に立ち向かわなければならず、本人にも家族にも心の準備をするどころではなかった。なにせ、「やっぱりガンでした」と言われた翌朝には4〜5時間かかる手術によって、お腹を2箇所ぱっくりと切り開かれ、腎臓摘出という一世一代の大事。ガンであることは最初から分かっていたけれど、経験の浅い担当の女医さんが父にまともな説明をしないばっかりに、父は「もう手術しなくてもいいんだ」と勝手に思い込んでしまったから、さあ大変。おまけにその女医さん、「ご本人にお伝えしてもいいでしょうか」と打診してきて、家族はますます混乱。「そんなに悪いのか」と、不安だけが増殖する。だからといって、こちらには意見できるだけの持ち駒もなく、ただ手術が無事成功するのを待つしかない、という展開にあいなった。

 手術から2日目の今日、父を見舞った。付き添った母によれば、術後、病室に戻ってきた父は「痛い、痛い」を連発し、かなり辛そうにしていたそうだが、その痛みも日ごとに弱くなっているとかで、昨日すでに歩いたらしく、今日もベッドで身体を起こしたり、寝たりするときに傷口が痛むほかは、それほど苦痛もないという。口調もはっきりしているし、私らがいる間にも二度起きたり寝たりして、予想以上に元気なので、こっちが驚いた。大きな手術をしたばかりだっちゅうのに・・・。

 その間にもPTAの行事がいろいろ入ってくる。そんなこんなで、パソコンに向かう時間そのものが今週はほとんどなかった。

 「別に長生きはしとうない」というのが父の口癖だった。ヘビースモーカーに業を煮やして、母が「いのちとタバコ、どっち取るの」と聞いたら、父は「タバコや」と答えたという愚か者(笑)。今にして思えば、病気の兆候は6〜7年前からあったそうだ。当時は母がいろいろと病気して、自分のことどころではなかったのだろう。自覚症状も少なく、痛みもなかった(手術前でさえなかった)から、ほったらかしにしていたそうだ。「あの時、もう少し詳しい検査を受けてたら、切らんでもすんだかもしれんなあ」と病床でつぶやく父。なんだかんだ言っても、生にはまだ執着している。まあ、人間なんて、元気なときほど「生」に無頓着なもの。でも、「放っておいたら1年以内に死にます」と言われたら、それでも「死んでもかまへん」とはならなかったのだろう。
 
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