黄金の月







 ちょっとした変調に気づいたのは、紅のほうが先だった。
 目的地まであとわずかの行程を残して、夜遅くに宿場町に宿をとった。一日歩き詰めであったから、支度金の具合も悪くないことだしと宿をとったのだった。真冬の野宿は、忍びであっても容易くはない。
 食事を取って、共同ではあるが風呂が備え付けてある宿であったので、ありがたく埃を落とそうかとしたとき、イルカがふと姿を消した。
 便所にでもいったのだろうとカカシは気にしなかったのだが、しばらくして顔をみせたイルカの顔色に紅が愁眉をひそめた。血の気がひいた色。

「…ちょっと、ずいぶんな顔色ね…どうしたの」

 そのとき、カカシはすこし離れた場所に居て、俯きかげんのイルカに手をかけてのぞきこむ紅の様子をみただけだった。なんの話をしているのだろう、と呑気に思った。

「―――いえ、すこし…腹が傷むだけです…あの」
「なに」
「申し訳ありませんが、内服薬の痛み止めはお持ちでしょうか…手持ちを切らせてしまいまして…」

 紅はイルカの頬に触れた。ひんやりとしている。外は真冬で気温は冷え込んでいたが、それゆえの低温とはまた違った冷え。肌がしっとりとしているように感じることも含めて、冷や汗をかいたと考えられた。

「ちょっと待ってなさい…いや、こっちに。部屋に戻ってもう寝なさい。薬は持っていく」

 上忍の厳しさを含んだ言に、イルカは頭を下げて部屋へと足をむけた。そのときになってようやく、カカシも傍らまで来、怪訝そうに訪ねたのだった。

「どうしたの」
「カカシ、すこし具合が悪いようね、もう休んでいいわよね」
「それは構わないけど…イルカさん?」

 後姿は振り返らずに、廊下を折れてみえなくなった。後にのこされたカカシと紅はどちらも顔を曇らせていた。
 今夜の宿は、紅の固辞によって、イルカとカカシの二人部屋に、紅の個室で二部屋をとってあった。カカシにしてみればこれも苛立ちの琴線にふれそうなものだったが、イルカの手前、何も言わずに二部屋をとった。日程は押すものの、支度金には余裕がある。

「どこが悪いの、体調によっては…」
「まだ分かんないわよ。医療は専門じゃないし。でも体温が下がってたわ、吐いたのかしら」
「薬とかいってた気がしたけど」
「ああ…そうね。そうだわ」
「なんだよ」
「ちょっと先に薬、渡してくるわ。カカシはここに居なさいよ、間違っても部屋の前で待ってたりしないでよ」

 あんまりな指示に、カカシは再び「なんだよ」と呟いて、眉を寄せた。だが紅はそれにかまわず、廊下を折れて姿を消してしまった。きっと部屋に薬をとりにいったのだろう。
 とり残されたカカシは、行くところもなく、自分の部屋にも戻り難く、そのばで佇んでいるしかなかった。ときおり、髪の毛をかき回して、重い溜息を吐きながら。
 イルカがカカシに振り返ってくれなかったことが、紅の言葉を裏付けているようで、怖かった。底冷えのする廊下は、足先から冷ややかさが沁み込んでくるようだった。



 待っていた時間は、おそらくアスマなら煙草一本吸いつぶす程度のあいだ。無為におもえる時間をただ突っ立っていることは苦痛だった。
 紅が姿をみせたとき、おもわず問い詰めていた。具合は、原因は、回復の見込みは。
 その矢継ぎ早の質問に、きりりと塗られた唇をまげて、紅は肩をすくめたのだった。

「ちょっとなに早とちりしてるの、イルカはたんなる過労よ」
「…過労?」
「本人、とっても申し訳ないっていっていたわ」

 とっても、と強調して紅は笑みに似た形に唇をつりあげた。

「でも今日の足の速さについていこうと無理もしたから、それが堪えたんだろうって言っていたけど。不摂生ががたたりました、本当に申し訳ありません、って」
「……」

 紅の目がまっすぐにカカシを見る。

「―――そういってたけど、べつにイルカの足が遅いってわけじゃないだろうしね。頼まれた薬は内服用の痛み止め。でもイルカは飲まなかった。私の目の前では。たぶん、飲むんじゃないだろうね。それにちょっとした寝不足のようね」

 いわんとするところを理解して、カカシは気まずく視線をそらした。痛み止めも患部によっては、直腸からの摂取も行うことがある。

「普段なら、きつくても付いてこれるところを、今日は無理だったみたいだね。理由は聞き出せなかったけど。さあ、いったいどうしたことだろうね。忍びは体が基本なのに。やっぱりイルカの不摂生なのかしら?」

 カカシは両手を挙げた。ちいさく、降参の意。

「悪かったよ。俺です。たぶん、俺だ、原因。俺が無理させました、昨日も今日も」

 昨日は深夜も遅くの台所で。今日は日中の強行軍で。もし任務に同行していなければ、アカデミーの業務をすませ、受付の座り仕事をすませ、多少体調が悪くても、滞りなく家路につけただろう。それが朝から大幅に変更された。しかも、断ろうにも断わり難い顔ぶれだった。イルカの立場にたって考えるなら、カカシのまえで体調不良は言い出せず、また火影の厚意を袖にできなかっただろう。
 紅はカカシを見て、溜息をひとつ。眉間のしわがやんわりと減った。

「…私も悪かったのよ。急に任務を回しちゃったし、アカデミーの教員任務についてるうちは任務は回らないものだし、イルカがちょっと無理してアカデミーに出てきてるなんてわからなかった。断りにくい任務の回し方だったしね」
「それいうなら俺でしょ。俺が分かんなきゃいけなかったのに、ぼんやりしてた」

 あぁもう、とカカシは後頭部を苛立たしげにかきまわす。

「それはいいんだ、俺とイルカさんの問題だから。イルカさんが言い出さなかったことも含めて、俺が謝るから。それより問題は予定だよ、明日の」
「そうね」
「イルカさんの具合はどれぐらいで回復しそうなの」
「いまは水と兵糧丸を飲んで寝ているけど、イルカも中忍だし、早ければ明日の朝には回復するんじゃないかしら。といっても、どれぐらい悪いのかはっきりしなかったから、推測でしかないけど。体を考えるなら、明日の昼まで寝させたほうが良さそうね。…なに、待つの?」

 すぐには返答ができなかった。
 いつもなら、しばらく考えはするが「待たない」と返事ができるはずだ。普段のカカシなら、確実にそうだ。依頼人が時を急いでいることを知っている。加えて、たとえ二人でも時間をかけて仕掛けをつくれば、龍を作り出すことは可能だ。どうしても三人でなければいけないということはない。
 ここで待つ時間と、向こうで費やす時間を量りにかければ、おそらくこのままイルカを置いて、一足先に二人で現地入りし、依頼人に面通しをしてから任務につく。イルカが到着してから術を発動させる頃合を計る、といった運びのほうが効率的だ。時間がうまく使える。依頼人にも日程の変更を伝えなくてもすむ。滞りはないだろう。
 だが、分かっていても、返事を躊躇った。イルカを宿に置き去りにすること。
 しかも原因はおそらく自分だ。
 不調をカカシに伝えなかった責はあるとはいえ、同行者の体調を無視していたカカシの責もある。それに、伝えようにも、カカシに不調を訴えることは気まずかったに違いなく、そう推察するとイルカを責める気持ちは起こらなかった。
 すまないと思うだけで。

「――――――ずいぶん考えてるわね、驚いた」
「…なにを驚くことがあるわけ。普通でしょ」

 むっとして言い返した。すこしばかりの虚勢もはいっていたが、仲間を置いていくかどうかを考えることは、木の葉の忍びとしては普通だろう。カカシも冷血で名をとおしているわけでもない。たしかにこれがイルカでなければ、それほど長くは悩まないだろうが、それでも悩むことは悩む。紅の言いようは不本意だとおもった。
 だが、紅は言葉を続ける。

「だって聞いたわよ、私」
「なにを」
「昔、あんたをかばったくのいちのこと」
「かばった―――? 昔っていつの…、…ッ。あのときの!」

 それは関係ないだろう、とカカシは声を荒らげた。紅が静かに返す。

「あるわよ。似てんじゃない、今の状況と。あのとき、あんたは彼女を宿に置いて、任務を優先した。当たり前といえば当たり前よ。当然の行動だわ。じゃあ今回は? 今回も忍びとして当然の行動をとるわよね。イルカを置いて、任務先へ出発するわよね」

 まるで言い含めるように紅は言った。静かな口調ではあったが、目は強くカカシを見ていた。

「…知り合い、だったの」
「違うわ。あんたを気にしていた人が居るっていったでしょ。そのときにご本人から聞かせてもらっただけ。知り合いってわけでもなんでもない」

 バサッと長く黒い髪を、鬱陶しげに肩からはらって、紅は強い視線で続ける。
 ふと女の容姿が思い出された。もう遠く過去のことで、顔も姿もかすんでいたが、燃えるような赤毛と気弱そうな瞳は、まだ記憶に残っていた。見舞いに行ったあとはすれ違うことも無かった女。

「そう…そうか。聞いたんだ」

 あの当時の自分の馬鹿さ加減を。どんな風に彼女は紅に話して聞かせたのだろう。酷い男だと詰っただろうか。命までかけてかばったというのに、見舞い一度で、あとは顔もみせない薄情な男だと。任務任務で、人の気持ちも量れない人間だとでも。

「―――ちょっと、誤解しないでよ」
「は?」
「言いたくないけど、彼女、やたらあんたのこと…あー、ほんと言いたくない。いい? これ絶対、私がつくったなんて思わないでよ。そのまま言うから。でも言わないでおくと彼女に悪い気がするから言うけど」
「なんだよ。早く言えよ。気になる」

 不機嫌になってカカシは促した。紅もまた渋い顔だ。言いたくない、という言葉が嘘でない表情。あー、ほんとに恥ずかしい、と紅は続けた。

「"わたしを放っていったのは、あの人が優しいから。あの人が本当に強いから、わたしを放っていって正解だったの。優しくて強い人。今でもきっとそうなんでしょうね"よ!」

 カカシはまじまじと紅の顔を見た。紅になにかをいいたいわけではなかったが、それ以外に反応のしようがなかった。
 優しくて強い。
 なんて馬鹿みたいな言葉だ。
 カカシにこれほど似つかない言葉も無い。

「…なんだ、それ。―――変なの」
「なに人に恥ずかしいこと言わせといて、その気の無い返事! 最低ね」

 案の定、というか予想できる反応ぶりで紅は怒って、カカシは無意識に目を廊下のさきへ向けた。あの角を折れていくと、カカシとイルカの部屋にいける。いまはイルカが寝ているだろう部屋。

「んなこと言っても、変なもんは変なんだよ」
「もういいわ。そういうとこは似たものなのかしら」

 意味をつかみそこねた。カカシは紅に目を戻して「なにが」と訊く。

「あなたとイルカよ。人に底を掴ませないところ。いつかイルカが何かを隠してるって言ってたけど、あなただって隠してることあるでしょう。たしかにいくらかは無きゃ変だけど、それを嫌だって駄々こねて。―――そのくせ、自分の都合で考えて、自分で完結してる」

 おそらく、紅は言ったあとに後悔した、と思う。強い眼差しが、一瞬ふせられて、廊下の床に落ち憂いの表情になったことを、カカシは認めた。

「―――悪い。言い過ぎた」
「いや、いいよ」

 掌をひらりと泳がせ、カカシはこの話題を終わらせた。とにかく、今はそんな話をしているのではなかった。明日の予定だ。

「明日―――」
「ええ」
「明日は昼までここで休むことにして、イルカさんの体調をみて出立。明日の朝にでも向こうさんに鳥でも飛ばそう」
「―――そう、待つの」
「思い出せよ紅。火影さまは何て言ってた、実践も大切だって言ってたろ。今回のはあの人の経験値になる。その目的もある。最初から参加させたほうが良い」
「向こうに着くのが遅くなるわよ」
「しょうがない。一昼夜と少しで着くところが二日になっただけだ」

 ふと気づけば宿の明かりは消え、二人の居る廊下でさえ薄暗くなっていた。足元からの底冷えも加えて、ひどく寒々しく感じる。宿についた時点ですでに消灯時間であったので、宿のものを責める筋合いはない。

「…じゃあそういうことで、今日はもう休もう。明日は出る前に声をかけるよ」
「―――わかったわ。了解」

 完全に背中を見せる前に、紅がためらいを含んで言った。

「あのさ、―――誰でも隠したいことはあるよ、けどあんたたちには言葉が足りないと思うよ」
「言葉が足りない…?」
「話し合い、ってことよ。隠したいことのなかには、隠さなくていいこともあるんじゃない? …そう思うよ」

 言うだけ言って、こんどこそ紅は足早に去っていった。一日のうちに二度も紅の背中を見送ることになったカカシは、しばらく、その場にとどまって考え込んでいた。



2004.07.20