黄金の月
音もなく扉をあけて、部屋に入ると室内は暗かった。窓から、欠け始めた月のあかりがカーテンをとおして部屋をぼんやりと照らしていた。
寝ている気配に気をつかい、静かに空いているほうのベッドに腰掛ける。
イルカは体を丸めて、カカシが寝るベッドのほうへ背中を向けて寝ていた。そのシーツの丸みを月明かりが縁どっていて、なんとなくそれをカカシは見つめる。はっきりとイルカが寝ているかは分からない。
体を丸めているということは、どこか痛む部位があるのかもしれない。しかしそれを確かめるために声をかけることも躊躇われた。
音のない室内に、夜光だけが明るい。
吐息をゆっくりと吐き出して、カカシは額当てを外して口布を下げた。銀の髪をかきあげ、一日の疲れを癒すように掌を額にあてる。温もりをもった額に、手の冷ややかさが心地よかった。
「―――申し訳ありません」
ひっそりと響いたそれに、カカシはすこしだけ驚いて、そちらを見た。背中は変わらずにシーツにくるまったまま。
「イルカさん」
「ご迷惑をおかけして、本当に…すいません。自分が情けない」
「イルカさん、それは違います。たしかに体調が悪かったのを言い出さなかったのはイルカさんの読み違いでしょう。けど、その原因は俺なんだよね? だから言い出せなかったんでしょう?」
月明かりの縁どりがゆっくりと動き、シーツのなかのイルカが起き上がった。表情はたしかに見えないが、声はしっかりとしていた。
「だとしても、俺の責任です。申し訳ありませんでした」
ベッドに上半身を起き上がらせた状態で、イルカの頭が深く下がる。その姿をみて、カカシは胸が痛むように感じた。痛い。叩かれたわけでもないのに、イルカに、差し伸べた手をしたたかに振り払われたような気がして、とても痛く思えた。唇を噛む。
「明日の出立までには回復させます。こんな失態はもう二度と―――」
「…明日は昼までここに居ます、あなたはゆっくり寝ていてください」
「―――…ッ、それは…俺のせいですか」
「そうです。早く良くなってください」
ベッドの上で、イルカが弱く身を乗り出した。
「止めてください。いえ、どうか俺を置いて朝のうちにご出立を。依頼は時期を急いでいるのでしょう。半日でも遅れれば―――」
「もう決めました」
「ではご再考をッ」
「決めたんです」
「……ッ」
イルカの上半身が、不意にベッドに崩れる。反射的にカカシの体は動き、イルカの肩に掌がかかる。触れた肌は暖かく思えたが、それはいつもより高いように感じた。紅は体温が下がっていたと言っていたが、休むうちに発熱したのかもしれない。
「熱があるんですか」
「…平熱と変わりません。一晩おけばおさまります」
「強がりは言わないで。こんなときぐらい、俺を頼ってよ」
暗く、月明かりが輪郭ていどを照らす室内で、ふとイルカが顔をあげてカカシを見たことがわかる。イルカの声もなく、まじまじと見られている感覚。
「―――なに。…良かったら俺の解熱剤を出すけど、俺用だから強くてちょっと効き過ぎるかもしれない。それでよかったら」
見られている気配に落ち着かず、早口で言うと、イルカの影がゆるゆると首を振った。
「いえ、俺も自分のものを持ってきています。ありがとうございます」
また、だ。
カカシは痛くなる胸をおもう。
「あとで飲んでおきます。お気遣いいただいて申し訳ありません」
違う。
きっとイルカは飲みやしない。飲む気もないのにうわべだけで言っている。
その慇懃な言葉も、カカシを苦しくする。
申し訳ない申し訳ないと言うが、じっさい、カカシがなにより苦痛であるのは、イルカがカカシになにも告げてくれないことだ。
「―――あなたは、なにも言わない。隠すばっかりだ。俺になにも言ってくれない。嬉しいとか、嫌だとか、どうして言わないの。俺に…―――俺に、なにを隠してるの」
脳裏に紅の声が響いていた。隠すことはたしかにあるだろうけれど、それが全てでないこと。訊けば教えてくれるのではないかと、紅は言った。
わらにも縋る気持ち、というのを実感した。
紅の言葉に縋って、カカシは吐き出すようにイルカに問うた。隠していることはないか、と。イルカのみせる表情や言葉に、曇りがないこと。偽りがないことを信じきれない自分に嫌気がさしながらも、それでもイルカの内情を量ろうとする自分が居る。
感情と思考が渦をまいて、自身への鬱屈もいっときどこかへ行ってしまうほど、心がイルカのことでいっぱいだった。どこにも行き場の無い熱量が、くすぶってカカシのなかで留まっていた。
それが、今夜のイルカの態度で堰を切った。
「アスマと何があったの。あいつに聞いてもあなたに訊けってぜったい教えてくれなかった。でもあなたに訊いても教えてくれないと思ったから訊けなかった。訊く資格もないと思ったから。でも気になってた。気にしないようにって思ったけど、俺の居ないときのあなたがあんまり…、あんまり違うから、やっぱり気になった……」
「カカシさん―――」
「俺は―――…あなたに本当のことを」
なにを言おうとしているのか。
警鐘のような痛みが胸の奥で疼いていた。けれどいちど口に出した言葉は戻らず、返らないのならいっそのこと、憂いを吐き出してしまうほうが良いように思えた。
「あなたに本当のことを言ってほしい、…―――俺は、あなたに偽らないで居て欲しいんです」
苦しかった。イルカの笑みが偽りではないかと疑うことが。イルカの示してくれる、カカシに寄り添うような好意も、疑えばあまりに簡単に否定することができて、苦しくなった。
抱き合うときの、苦痛だけでない声も顔も体も、心がなくても成り立つ。口付けに応じてくれていても、瞼のうちでは違う面影を追えるだろう。
疑い出せばきりなく、気が滅入り、自分に嫌気がさした。
イルカに本当のことを言って欲しかった。
あなたなど嫌いです、でも良い。
最低に自己中心的で我侭でどうしようもない男だと詰っても良い。
イルカがそう思っているなら、言いたいことを言ってくれるなら、カカシの苦しみは救われる。
偽りは無いと、信じることができるから。
「俺はあなたに…嘘など…―――」
「ごめんなさい」
戸惑ったようなイルカに、とっさに謝った。
自分の欲求が、どこまでも自分の苦しみのためだと自覚している。
「いえ、あなたに…謝っていただくことなんて…」
「……」
カカシはイルカの肩をおし、ベッドへ横たえた。シーツや毛布を、体へかけてやる。
「―――今日は無理をさせました、ごめんなさい」
「それも、謝っていただくことではありません」
「…そうかな」
額当てのないイルカの額を、掌で撫でる。感じたとおり、いつもの体温よりいくばくか高い。うっすらと汗もかいているようだ。
「水を飲んだほうがいいね」
イルカの返事をまたずに、備え付けの保冷機を探す。ささやかな月明かりのおかげで苦もなく見当たり、扉をあけると、人工的な眩いばかりの光が部屋を照らした。暗闇になれたカカシも刺されるような光に、目を眇める。攻撃的におもえるほどに、明るすぎる光。
水のボトルをだして、扉を閉めれば、光の筋は収束して、ふたたび闇の世界に戻る。月明かりは、人工的な光をまえに、しばらく遠のいてしまったようにさえ感じた。
光に焼かれた目は、さきほどまで見えていた月明かりの輪郭をけして、カカシは記憶を辿ってイルカの傍らへ戻る。枕もとに瓶をおいて、囁く。
「ここに置いておきますから、喉が渇いたら飲んでね。それから、これ―――」
腰のポーチをさぐって、薬包をひとつ、瓶のそばにおいた。
「解熱剤。朝までに熱が下がってなかったら、夜までここで待機にするよ」
「はい―――分かりました」
脅しのような言葉に、イルカが異を唱えずに返事をした。肩の力をぬき、カカシは「おやすみなさい」と言う。
自分のベッドへ向いた背中に、ひそりと声が届いた。
「―――俺の言葉は、信じられませんか…?」
「イルカさん…」
「あなたに嘘ばかりついていると考えていますか…?」
いいえ、と首をふれたら良かった。だが、カカシはいいえと答えることもできず、また首を振ることもできなかった。振り返って、月影に表情の隠れているイルカを見る。手をのばせば届きそうな距離が、とても遠く感じた。
「―――もし、俺があなたに嘘などついていないと言っても、それさえ嘘だと思われるなら、きっと、なにを言っても無駄でしょうね」
静かな沁みを落とすようなイルカの声。
寂しさや悲しさなど、いっさいの情緒的なものを含まない、淡々とした呟きだった。イルカがイルカ自身に確認をとるかのような、独白。苛立たしさも、失望も無く。
たとえるなら、まるで清水のように無味無臭の、なんの澱みも甘みもない色。つまらない、なんの意味も無い清らかさを思わせた。
カカシは呆然と立ち竦んだ。
つまらない?
その何色にも染まらない清水のごとき清らかさこそ、慕わしいと思っていたはずなのに。
どうしてつまらないなどと自分は思いついたのか。
「イルカさん…―――」
「おやすみなさい、カカシさん」
声はそれきりで、室内は無音に戻った。しんしんと月明かりだけが冷たい室内に降る。
捉えどころのないイルカ。
たった数歩分の隔たりが、ベッドふたつのあいだだけの距離が、とてつもない遠さに思えた。
カカシに対して、怒りも嘆きもしないイルカが、遠く思えた。
先日に見たイルカは子供相手にあんなにも笑い大声をだし、感情を表にだしていた。ただ、そのイルカが見たいだけなのに。
いや、違う。
一瞬前の自身の思考を否定した。
無味無臭のごときがつまらないのではない。
カカシの前で感情を抑え込んでいる、イルカが嫌なだけだ。
さらりと手ごたえのない様子は、カカシにたいして感情を抑えているからこその。
力なく、カカシは自分のベッドに座り込んだ。
笑い出したくもあり、泣きたくもあった。
一つの部屋で、ベッドを並べて居るというのに、どんなにか心は離れているんだろう。
そう思えば、イルカに振り払われたと感じた瞬間よりも、いっそう胸が痛んだ。
なにより、カカシの苦しさを辛くさせるのは、それでもなお、イルカから離れずにいる自身の心で、またその苦しみを和らげるのも、イルカへと向かう想いだった。
すべてがイルカからの感情で、涙さえこぼれそうだったが、瞳はかすかに潤んだのみ。
乾いた室内は、わずかな水分をすぐにさらっていった。
2004.07.20