黄金の月







 それから日々はどうということもなく過ぎていき、ツバメが青い空を背景に飛ぶころには、イルカはようようアカデミーの雰囲気にも慣れてきていた。
 アカデミーの日々は、悪く言えば弛んでいる。良く言えば、落ち着いている。おっとりとしていて、個別の任務を引き受けていたイルカには、最初のころ、その緊張感のなさが信じられないほどだった。
 任務では気の緩みが死を招くこともある。だから油断は許されないし、いつも気を張っていることも実力の内だった。だが里の中心、アカデミーではそういった一切の実務的なことは横におかれている。
 アカデミーの空気に触れるにしたがって、イルカは、それが人を育てる場の普通の在りようなのだと思うようになった。

 未熟な知識や力しかもっていない子供たちが、たとえ失敗したとしても、神経を尖らせて注意するのではなく理をもって諭すこと。殴りつけるのではなく、過失を学ばせること。
 ときには怒鳴ることもあるし、殴ることもある。ただそれも、感情の発露でなく、子供の成長を考えているからこその行動なのだと、教師も子供も暗黙のうちに了解しあっている。

 それらの、他里からは"甘い"とされる教育が、木の葉のアカデミーでは理想とされている。里を想い、仲間を大事にする忍び。その姿が大事とされ、ある程度の「真っ当さ」が当たり前とされる空間。
 それがアカデミーだと、イルカは解釈した。

 イルカはその自分の解釈に、一定の満足を得る。
 イルカも子供は嫌いではないし、教師として距離をもって接したい、などと論をぶつわけではない。けれど、ここは忍びを育てる場所なのだと自覚しつつ、子供たちに戦い方を教えるには、「子供は可愛い、教えることは楽しい」だけでいくわけにはいかない。
 忍びは、人を殺すことも仕事なのだから。
 力の使い方を教えるのがイルカの仕事なのだから。









 よぉ。
 手をあげられて、イルカは立ち止まった。受付からアカデミーへ移動する途中だ。夏本番といったきつい日差しが影を濃くさせていた。イルカは手近な木陰のそばに寄って、歩いてくる姿を待つ。ゆったりと歩く姿も力強くみえるアスマだ。

「こんにちは、アスマさん」
「おぅ、こんにちは」

 その口調に、噴出しそうになった。きっと、わざとイルカにあわせた、お手本めいた挨拶。アスマにこれほど似合わないものはないだろう、というお手本だ。アスマが冗談めかしていうからよけいに変で可笑しい。アスマは人を笑わせる才能があると、ときどき思う。

「―――アスマさんはこれから受付ですか」
「いんや、今日はもう終わらせてきたとこさ。これから待機所にでも行こうと思ってな」
「お疲れ様です」
「お前さんはアカデミーか。どうだ、性に合いそうか」

 見抜かれているような訊かれ方だ。たしかにアカデミーのあの空気は、合うものと合わないものが分かれそうだ。だが、それを見越しているからこそ、アカデミーの教師は選任されるのだろうし。
 蝉の声を頭上から浴びながら、目を遠くへやると、ちょうど通りを子供たちの集団が走りすぎていった。かしましく、元気だ。

「ええ、なんとか。最初はあんまりのんびりしてるんで驚きました」
「そうだな、俺も最初のガキどもを担当したときにゃ、驚いたもんさ」
「へぇ…」
「まるでケツに殻ぁつけたまんまのヒヨ子に見えたもんさ」

 言って皮肉げに笑むから、イルカも苦笑した。手練の忍びからすると、妥当な感想だ。
 カカシもそのうち、同じようなことをぼやくのだろうか。

「そういやカカシのやつも下忍担当になったとか言ってやがったな」

 まるでイルカの心のうちを読んだかのようなタイミングで恐れ入った。アスマが煙草を取りだすのを見ながら、頷いた。

「おそらく来期の卒業生から、選抜に入られると思うんですが」
「そうか。あいつが下忍育成なぁ、世も末っつーか」

 イルカの鼻先を香ばしい匂いが掠める。イルカ自身は吸わないが、こういう晴れた木陰でちらりとだけ香る紫煙は嫌いではない。
 吸う姿も様になっているアスマを心持ちみあげて、イルカは小首を傾げた。イルカのなかのカカシのイメージは、とても素晴らしかったので。
 だがアスマは、不思議そうにしたイルカが面白かったのだろう、視線をイルカへ流すと、おかしそうに煙を吐き出すばかり。焦らす仕草だ。暑さに、じりじりと汗まででてくる。

「あの」
「ん、なんでぇ」
「―――…世も末、なんですか?」

 アスマの煙草が半分ほど短くなるころ、とうとう、好奇心にまけて訊いてしまった。そうすると、ぶはっと煙をはきだして、笑う大男。イルカはますます不思議になる。

「あの―――」
「悪ぃ、いやー、悪ぃ悪ぃ」
「?」

 笑う男の目には、意地の悪い色はあるが、悪意はない。好ましいものを見る色。それがわかっているからイルカも腹などたたないし、むしろ不思議になるのだ。

「どうされたんですか?」
「いやな、まぁ、こっちはあいつを青臭ぇころから知ってっからよ、俺も歳くったよなぁと思っちまうわけだ。あのガキが、ガキを教えんのかとな、いうわけだ。世も末だよなぁ、ってな」
「はぁ…」
「最近じゃ、誰かさんと上手くいってんだか知れねぇが、合鍵もらっただと見せびらかしてやがって、こっ恥ずかしいったらなかったぜ」
「ぇ、そ、それ…!」

 血が音をたてるように顔に上った。合鍵。それは夏にはいるまえから頻繁に訪れるようになったカカシが欲しがったもの。
 はじめは、夜遅くに任務がおわったときでもイルカが居るかどうか見に来ることがある、ということをカカシが言ったのが始まりで、それにイルカが、起こしてくださってかまいません、と答えたのだ。  変なところで気を使う上忍は、眉を下げて、それは申し訳ないです、言った。そして、独り言のように「寝ているとお邪魔できないからちょっと残念です」と微笑った。
 イルカにしてみれば、これまでの人生のなかでいちばん、渡す勇気が要った品物だった。イルカの家の合鍵。照れ隠しに、必要ないと思いますがこれをご自由に使ってくださってけっこうですよ、と素っ気無く渡した。カカシは驚いた顔をして、それから手のひらのうえで何度もひっくり返したりして眺めていたようだった。
 イルカは、いいんですか、と訊いてきたカカシに、別にかまいません、と答えた。恥ずかしさでたまらなく、顔を赤くしないようにと、それだけで精一杯でカカシの顔も見れなかった。

「見せびらかしたって…!」

 あのときの頑張りは、カカシに赤い顔をみられないため。イルカの心情を悟られないため。いまは相手がカカシではないから、もうイルカの顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
 アスマが、腹を抱えて笑い出す。

「ア、アスマさん!」
「悪っりぃ! 嘘だ、嘘! 見せびらかしてなんかねーよ! おっまぇ、顔、真っ赤だぜ!」
「…! そ、そんな笑わなくてもいいじゃないですか!」
「ひゃっはっは! 悪い悪い!」

 むー、とイルカは口をつぐんだ。人が悪い。

「あいつが、ちょっと浮かれてやがったからよ、探りいれたらすぐ吐きやがった。まぁ最近、疑り深くなってやがったから、よけいに嬉しかったんだろうなぁ」
「? 疑り…?」

 俺もいろいろ探られて面倒臭かったぜ、とアスマは以前を思い出す顔をして付け足した。
 引っかかる。カカシが、イルカへ疑い? なんのことだろう。
 問おうとした先、道向こうからの姿に、アスマが片手をあげた。イルカが背後をふりかえると、見知らぬ忍びだった。上忍だろう、気配がそれを分かる。

「じゃあな、イルカ。カカシによろしく言っといてくれや」
「あ、はい。それでは失礼します」
「おぅ」


 けっきょく、そのまま。 浮かんだ小さな疑問は、アスマと会うことが一週間、二週間、と無いままにぼんやりと忘れていき、やがて夏が終わり秋がすぎ冬に入るころにはすっかり忘れてしまっていた。










 寒い寒い、と夏の暑さを忘れて、歯を鳴らしながら家路に着いた。冬の日暮れは早く、普段どおりのアカデミー業務にくわえて、受付まで回って帰宅すると、もう空には星がでている時刻だった。
 今日の晩飯はなんにしようと考える。
 足早に通りを歩きながら、そういえば半年ほどまえからすれば、ずいぶんと家に居着く時間が長くなったとおもう。以前なら、自分ひとりの夕食など面倒くさくてラーメンを食べて帰ることが多々あった。
 しかし、最近は違う。カカシが訪れるかもしれないからだ。

 カカシはまだ下忍担当にもなっていないが、どうしてかここ最近、よくイルカを訪ねてくる。ともすれば連日、あいても三日や五日。一週間や一月をまたぐときはイルカに告げていくほどだ。

 そんな変化を不思議とはおもったが、カカシにより多く会えることに、素直に喜んでおくことにした。問いただすのも、それはそれで変だとおもったというのもあるし、もし問うて嫌がっているのかと思われるのも遠慮したい。顔にはださず態度にも表さないが、イルカはカカシが頻繁に訪れてくれるのを嬉しがっていた。

 だからなるべく夜は家に居る。
 ときおり、早くやってきたときはいっしょに食卓についてくれるから、飯もちゃんと作ろうという気になる。

 遅くまでやっている店により、すこし考えてジャガイモとほうれん草と卵を買った。家にはニンジンと玉ねぎがあるから、クリームシチューにでもしようとおもう。それでは腹が足りないから、ほうれん草で卵とじをつくって飯を食う。
 無意識に、言い訳なくカカシに料理をだせるような、鍋ものの料理をメニューに加えてしまうようにもなった。
 けれど、何にも言わないし、問わない。
 カカシに心を寄せる自分は赦すけれど、カカシに期待はしない。
 そう決めてからずいぶんと時がたったけれど、いまでも変わりはない。
 このごろ、イルカは、自分は表情を取り繕うのが上手くなったと感じる。それは―――カカシのまえで、自分の気持ちを取り繕うのが上手くなったせいだろうか?



2004.06.27