黄金の月







 悩みわずらうことが多くて、このところカカシはまいっていた。

 上忍待機室は昼下がりのいま、誰も居ずがらんとしている。冬の乾いた室内は音一つなく、窓の外からの話し声や遠くの物音がときおり聞こえてきていた。
 ぼんやりと、懐からちいさなカギを取り出す。
 手のひらにのせて、眺めてから、人差し指でつついたり、持ち上げたりしてみる。そうしたところでカギが喋るわけでもないのにバカみたいな行為だ。けれどカカシは、このカギをもらってから、なんども同じようなことをしていた。

 このカギはイルカからもらったもの。
 もらったときは、信じられなくて、どういうつもりなんだろうと思ったものだった。
 手のひらにすっぽり収まりきってしまう小さなものが、ほんとうに手の内にあるのが信じられず、なんども確かめてしまうのだ。
 つついたり、ひっくり返したり、目の高さに持ち上げて眺めてみたり。

 そうしたところでカギがイルカの気持ちを喋りだしてくれるわけでもないのに。


「あら、カカシひとりなの」


 扉があいて、女が顔をだした。紅だ。今日も唇をきちんと染めて、気の強そうな顔をしている。アスマとは上手くいっているんだろうか。
 部屋に入ってきて、自動販売機から飲みものを買い、カカシの斜め向かいに座った。
 紙カップのふちに口をつけながら、紅が笑む。苦い匂いがすこしだけ漂ってきた。

「また見てるの、それ。飽きないね」

 からかう口調にカカシも反応しない。むきなればよけいにからかわれるだけだ。それに、紅やアスマのまえではこのカギのことはもう知られていることだから、とりたてて隠すこともない。

「ついね。見ちゃうんだよね」
「そんなものなの。私には分かんないね」

 たしかにさっぱりとした気性の紅にはなかなか分かんないだろうなぁ、と思ったが口にだして同意するのは止めておいた。

「そういえば、明日にでもあんたに依頼がくると思うよ」
「どんな」
「幻術」

 端的すぎる答えに、カカシはカギを手のひらにのせたまま紅をみる。カカシはそれなりに幻術は使えるが、それが得意というわけではない。どちらかというと目の前の紅のほうが、幻術で名を通している。その紅から話がくるというのも不可解だ。

「俺、幻術はあんまり得意じゃないよ」
「ふふ、嫌な男だね、あんた。まぁそういうんじゃないんだよ、ほら、覚えてないかい。去年の今ごろだったかしら、大きな滝のある国さ」

 いわれて、ああ、と頷いた。そういえばそんな任務もあった。あの任務の最後に、幻術を使ったのだったか。

「それでなに。あんまり後味よくなかったんだけど、あの任務」

 自分の指揮で仲間を失った任務は、やはり自戒となって記憶に残るものだ。他人をせめるならまだしも、自分を戒めるからついつい口調も素っ気無くなる。紅は視線をカカシに流したが、すぐに窓の外へとはずした。

「そうつんけんしないでよ、これはあんたの功績よ。あの国の文化人がね、あの夜にみた竜をもう一度再現してくれないかっていう依頼。なんでも、新しい国になったことを象徴する大きな壁掛けにするらしいからね。つくる職人が、実物を見たいらしいよ」
「ふぅん、…面倒だね」
「あとから聞いたんだけど、ほんとは潰す話だったらしいじゃないの」

 カカシは肩をすくめて、カギを懐にしまった。

「まぁあの時はいろいろ考えてね。でも結果的には上手くいったからいいじゃない。占領に時間かかったって話もきかなかったし街もそんなに壊れなかったし」
「そうね、幻術もこじつけに使ったらしいわよ、主は変わるべくして変わったのだ、みたいなね。街の人間にしてみりゃ、滝も無事で生活が変わんなきゃ、そこらへんはどうでもいいのかもね」
「あー…面倒」
「ふふ、自然は大切に、だっけ」

 心底、面倒なおもいでいっぱいになってげんなりしたカカシに、紅は綺麗に笑う。

「サポート、入ってくれる」
「わからないけど、最初は私にって来た話だから、はいれるとは思うわ。要るの?」
「できれば」
「わかったわ」

 それで話は終わりで、あとは沈黙がおりる。ぼーっと窓のそとをみてみる。遠くから子供の声がきこえてきた。意味のなさないはしゃぎ声や名を呼ぶ声。駆け回っているのだろう、声はこちらに向かっておおきく聞こえたり、やまびこのようにぼんやり掠れて聞こえたりもした。それらをぼんやりと聞く。里のなかに居る実感。
 子供の声と重なって大人の声も聞こえた。
 ふと紅が呟く。

「最近、どうしてるの。何人か、私に訊いてきたわよ」

 視線だけ紅にむけると、女はなんともない顔で紙カップを傾けている。ふー、と紅がカップに息を吹きかけると、白い蒸気がたち、また苦い匂いが香った。たぶん中身は黒いままのコーヒー。

「だれ?」

 どうでもいい気がしたが訊いてみると、覚えのある名がいくつかあがった。過去に、任務中に相手をしてもらったことがある。情の深い女もいるのだな、と感想を抱いた。

「最近、長い任務にはあんまり出てないからねー」
「そうなの。どうでもいいけど、知らない、って答えておいたわ。気づいてる子もいたみたいだけど、あんたが居着いてるところ」
「ふぅん。そうなんだ」

 また、懐の小さなものを取り出してみたくなった。あんまり小さくて軽くて冷たいから、触れていないと不安になる。在ることが幻のようで。

「ねぇ」
「ん」
「上手くいってないわけ」

 直球で訊かれた。こういうとき、女って凄いとおもう。紅の気風のよさも凄いとおもう。

「―――どーしてそう思うわけ」
「なんとなく。アスマはあんたが浮かれてるって言ってたけど、私はそう思わないな」

 女の直感は本当に凄い。そして怖い。
 返答する言葉も自分のなかに見当たらず、返事を探しあぐねていると、ふいに外からの声がひどく明瞭に耳に届いた。
 顔をあげて、身をのりだして窓の外をみる。
 居た。
 ちょうど上忍待機所の軒のした、建物からでてきて大きな声で子供を呼んでいる。イルカだ。背筋をのばして、額当てをきちんとしめて、日の光を浴びている。

 大声で呼ばわれた子供たちは、どこからやら走り寄ってきて、イルカにまとわりついた。
 カカシは身を乗り出したまま、その一連をじっと見ていた。
 紅も、カカシの様子に、わざわざ腰をあげて窓をのぞき見る。あらイルカじゃない、と呟いていた。二人のいる待機所は下からみれば軒も大きく、窓も閉めたままなのでイルカも二人に気づかないのだろう。

 視線のなかで、イルカは子供の頭をぐしゃぐしゃと大雑把に撫でて、笑っていた。子供の一人が差し出した肉まんのかけらを口に放り込み、熱い熱いとあわてたあと、子供らの背中をおして建物のなかへ入っていった。

 それら一連を、じっと眺めて、カカシは動けずにいた。
 紅はそのカカシを眺め、無言でコーヒーを啜った。
 奇妙な沈黙が降りて、だが二人ともに気にするようすはない。紅が腰を戻して、コーヒーを最後までのみきり、紙のカップを手持ち無沙汰に折っていると、ようやくカカシがぽつりと零すように言った。

「あんまり、笑わないんだよなぁ」
「そうなの」
「いや、笑うのは笑うし、喋るし、怒るし、飯もつくってくれるし」

 でもな、と続ける。

「なんか俺に隠してる感じがするんだ、いろいろ」
「いろいろって何よ」
「分かんないけどいろいろ」

 紅の手のなかで紙カップはどんどん小さくなっていく。底が折り曲げられて、二つにたたまれ、端から順にぐるぐると巻かれていく。
 カカシはけっきょく、再び小さなあのカギを取りだす。ひんやりとしていて、わずかな重みしかない、それ。指の腹でおうとつを撫でて、体温でぬくもる端から室温で醒めていく。
 そういえば、手慰みを無意識にしてしまうのは、幼児性の表れだったか。それとも寂しさの表れだったか。記憶は定かではないが、いまのカカシには充分当てはまる気がした。紅も、寂しいのだろうか?

「あとさ」

 なんとなく言ってみる気になって、付け足す。
 紅が、手元から目をあげずに短く促してきて、カカシもぼんやりと言った。

「断られたことがないんだよね」
「は? なにが」
「…」

 言うのもなにかはばかられて、カカシは答えなかった。それゆえに紅は気づいたようで、そして呆れた顔をしたのだった。

「バッカじゃないの」
「そうかな」
「そうよ」

 紅は美しい手腕をひねらせ、離れたところにあるゴミ箱に、無残にぼこぼこになった紙クズを放りこんだ。カツン、と軽い音をたて、ゴミはゴミ箱にちゃんと入ったことを知らせる。

「何が不満なのよ。あたしとしちゃイルカを褒めてやりたいわ、それって凄いことよ。断ったことがないなんて」
「うーん…」
「合鍵だってもらって、なにを隠してるっていうの。あんたの考えすぎじゃない?」

 たしかに、合鍵をもらうということは、そういうことなんだと思う。いつでも来てもいいということ。イルカの領域に立ち入っても構わないということ。何かを許してもらえているようで、合鍵をもらってからは、たまに朝まで一緒に寝てしまったこともあった。
 それでもイルカはなにも咎めなかったし、邪険にもしなかった。
 何を隠しているんだろう、と思うほうが変なのかもしれない。けれど、アスマはけっきょくイルカとの内緒話を聞かせてはくれなかったし、あいかわらずイルカの態度はなんだか紙一枚、あいだに挟まったような齟齬がある。

「うーん」

 考えて考えて。
 思い煩うことが多くて、カカシはほんとうに最近、まいってしまっていた。  紅はもう呆れて、何も言ってくれなかった。



2004.06.27