黄金の月
「ん? お前ぇ…」
自分の前に立った人物を見上げて、イルカは笑顔をつくった。イルカは彼を覚えていたし、彼も自分をおぼろげにでも覚えていてくれて嬉しかった。
「お久しぶりです、アスマ隊長」
いつかの任務で通っていた呼称をよべば、髭の大男は苦笑した。
「隊長は止めろよ、そうか、お前さんか。なんだ、受付担当か」
「いいえ、教務のほうへ今年度から」
「ほう、見込まれたもんだ、頑張んな」
「はい」
アカデミー勤務と兼任で、受付も担当することがあるのはわりと知られていることだ。とくにアスマは先ごろから下忍担当になっていたこともあり、アカデミーの「先生」が受付に座っていればすぐに気づく。イルカはまだ準備と研修をうけている段階で、教壇にたったことはなかったが、そのうち授業を受け持つようになればこの受付とアカデミーを往復する日々が始まるだろう。
「そういやお前さん、任務以外で…そうそう、けっこう前だが里近くですれ違ったっけな」
「…?」
言われたが、すぐには思い出せなかった。
「いつのことでしょう、アスマ…さん。里近くですか?」
「ああ。お前さんがあんまりきつい匂いをさせてたんでな、こりゃおもしれぇとけっこう後まで覚えてたぜ。こう、鼻に傷があるだろ、お前ぇ。それで余計に覚えやすくてよ」
「きつい、匂い…あ、ああ…! あのときのっ、そんな、忘れてください!」
焦ったあまり、声がすこしばかり大きくなってしまった。受付にならぶ他の担当の目がちらりと流れて来、イルカはあわてて声を落とす。
思い出した。
半年ほどまえの冬前に受けた任務のとき。女を買い、その帰りにアスマとすれ違った。湯も使わず、一路に里へ帰ってきていたものだから、体中から女のお白粉の香がしていたのだろう。それをすれ違いにからかわれたことは恥ずかしく、そう忘れられるものでもなかった。
「悪ぃ悪ぃ、お前さんがそんなに気にしてるとは思ってなかったぜ」
「気にしているというか」
「なんだ、まさかと思うが女にばれたか」
意地の悪いアスマへ苦笑しそうになる。アスマのいう「女」とはつまり恋人のことだろう。イルカにとっては、それは違う。
「そうではないんですが」
いいかけたとき、アスマの体向こう、入り口のほうになぜか注意を引かれた。視界はアスマの体にほぼさえぎられているから、とくに何が見えたわけでもなかったが、おそらく気が引かれたのは気配のせい。誰かが受付に入ってきたようだ。
そしてその気配は、受付をまっすぐにやってきた。ちらりとみえた銀色の髪。驚くより先に、イルカは口早に言い切った。
「ただなるべくなら、知ってもらいたくないと思っています」
受け取って印をおしたアスマの報告書を、手の中で揃えた。アスマが「まぁそりゃそうか」という後ろからの気配。
イルカにとって、誰とも間違えようの無い気配。
声。
顔にも態度にもださす、ひそやかに待っていた声は、「アスマじゃない」といかにもあっさりとした声音で訪れた。
昼間のことをおもいだすと、いまでもイルカは頬が照るような心地がしてくる。
あのとき、カカシが「俺たちの問題」だといったことが忘れられない。
それは浮き足立つような気持ちだ。いけないと思いつつも、たったそれだけの言葉で、嬉しくなる自分。可笑しいほどに簡単だ。
アスマはカカシとの関係を知って驚いていたが、イルカもカカシが当たり前のようにアスマに話しているのをみて驚いた。いぜんにイルカのことをアスマに話していたようだった。しかも、そういう相手だとして。それを深く考えると居たたまれなくなるが、それよりもカカシがイルカのことを、ただの「知り合い」としていなかったことが、驚きとともに、嬉しく―――。
こんな喜びは要らないものだと思いつつ、どうしても嬉しい。
単純な単純な自分。
カカシがイルカを見てくれているようで、嬉しい。
存在を認めてくれているようで、嬉しかった。
だからなにやら頬どころか体全体が暖かくて軽くて、おもわず声だって機嫌よさげになるのは当然だった。
ところが。
「…イルカさん、機嫌がよさそうですね」
対して、日が沈んでから訪ねてきたカカシはどうも機嫌が悪いようだった。虫の居所が悪いとでもいうのだろうか、むっつりとしているようにみえる。いままでそんな様子をみた覚えがないのでさだかではないが、たぶん機嫌が悪い。
「そう…でしょうか。…カカシさんは機嫌が悪いですか?」
湯からあがったイルカは、ベッドに腰掛ける。カカシは先に湯を使っていて、ベッドで壁を背にして本を読んでいた。カカシはしおりを挟むことなく本をとじて、イルカをじっとみる。
「いいえ? 悪くないですよ」
イルカは内心、困ってしまった。ここを訪ねるときのカカシは、機嫌が良いも悪いも、関係がない場合が多い。たいていがそのまま性交渉にもつれこむからだ。その流れのなかには機嫌が悪いから止めましょう、などと言い挟む余地がない。
洗い下ろしの髪を、なんとなくタオルで拭いながら、イルカは視線をさまよわせる。カカシがじっと視線をイルカから外さずに、かといってなにかしかけてくるわけでもなく、ただ黙ったままで見つめているから、どうも落ち着かない。
ぽつりと雫がたれて、着替えたばかりの支給服の膝に落ちた。この家にはカカシ用の寝間着、などという上等なものはないから、カカシはいつも湯から上がれば、もとの忍服を着ているか、イルカの予備の忍服を下だけ借りる。だからイルカも自分だけ寝間着をきることに躊躇して、けっきょく二人とも、風呂から上がっても見た目は同じ格好だ。
違うのは、ふわりとただよう水の香や、石鹸の匂い。
カカシが目を眇めた。
「イルカさん、こっち、おいで」
軽く手招きされたのは、カカシの膝のあいだへと。すぐに反応できずに躊躇すると、手首をとられて動かされた。ひっぱられて、背中からカカシの膝のあいだに収まってしまう。恥ずかしく、くつろぐことも出来ない体勢で、イルカは肩を硬くした。
柔らかく触れる、背後からの温もり。
カカシの指が、肩にかかっていたタオルを持ち上げた。
「イルカさん、アスマと知り合いだったんだね」
髪の毛の流れを追うように、タオルが水気をぬぐっていく。イルカは、カカシという背もたれにもたれることもできず、窮屈な姿勢のまま、軽く頷く。
「はい。かなり前ですが、任務でご一緒させていただきました」
「そうなんだ」
聞こえたきり、沈黙が降りる。柔らかな仕草は相変わらずイルカの髪を撫でているけれども、なんとなく落ち着けない沈黙だった。
「あの、」
「ん?」
「カカシさんは、アスマさんとは…」
沈黙に負け、訊いてみる。なんとなく、上忍同士であるし、察しはついていたが他に話題もない。
「ああ、俺も同じ。任務でたまにね」
「そうですか」
「面倒見良いでしょ、あいつ」
ええ、と頷きながら、気安そうな口調からアスマと仲が良いのだなと思う。
「でも口癖がいっつも、面倒臭ぇ、だからおかしいって言ってんだけど直してくれないんだよね、あのオヤジ」
イルカは小さく笑った。カカシが、子供のように拗ねた言い方をするのが可笑しかった。
「アスマさんは最近、下忍担当にもなられた方ですから、面倒見は良い方だと俺も思います」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった。じゃあ、イルカさんもアカデミーの先生になるし、これからよく話すようになるかもしれないね」
「さぁ…それはどうでしょう、アスマさんは上忍でお忙しい方ですし…話すことはあまりないと思いますが…」
実際、下忍担当になればよく顔をあわせるようになるというわけでもない。アカデミーの教師は、いわば、下忍レベルにまで生徒を引き上げ、そして下忍担当の上忍師にあとを引き継いでもらう、といった感があると思う。多少は、顔見知る程度になるだろうが、受付にでも回されない限りは、そうそう会うわけでもないだろう。
そう思っていると、タオルの柔らかさが遠のき、かわるように背中全体に、体温がかぶさってくる。カカシの温もりに、イルカの心拍数がわずかに上がった。首筋に重みがのり、美声がイルカの耳朶をくすぐる。
「そういえば、俺もそろそろ下忍担当はどうかっていわれましたよ。今日、あのあと呼び出されて」
ただでさえ美声なのだから、間近で囁かれると落ち着かない。イルカは身を捩って、すこしでも離れようとしたが、いつのまにか腹のあたりで抱きしめられていた。離れようが無い。
「俺も、里に居るのも悪くないって思ってたところだったから、お引き受けしますって言いました」
「そうですか。じゃあ来期の卒業生から選抜ですね」
「ええ、本当に担当になるかはその子供たち次第ですけど」
下忍になるには担当上忍の選抜をうけてからになる。カカシがもし順当にいって来年の子供たちから下忍担当になれば、カカシは里に留まるようになるだろうし、受付にも、もしかすればアカデミーにも姿を見せるかもしれない。
先ほど、アスマについて言ったこととはまったく逆のことを考える。里にカカシが居るようになれば、もっと会うことが容易になるのだ。いまよりたくさん、カカシの姿をみれて声をきけて、一緒に居れる。
「カカシさんの選抜に合格、する子供がいればいいんですが」
「うん、俺もそう思います」
イルカも、本当に合格すれば良いのに、と思った。
そして、いつのまにか直っていたカカシの機嫌に、すこし首をひねったのだった。
2004.06.27