赤煉瓦
その日は、午後からずっとアカデミー裏に居た。生徒が悪戯して壊してしまった、レンガ造りの焼却炉を直していたのだ。
ずいぶん前に壊したと聞いていたから、いつか直さないとダメだと思い思い、今日に至ってしまっていた。それをイルカがしているのも、頼むよ、といわれたからに他ならないが、イルカも気にしてたことだったから気安く承知したのだった。
だが、思いのほか、重労働だった。
おそらく子供がぶつかって穴が開いたのだろう焼却炉は、中にぎっしりと紙の灰が詰まっていた。壊れてから雨も降ったのだろう、それはみっしりと固まり、なまじの泥炭よりもはるかにタチが悪かった。
結局、それを取り除くのに二時間ほど。穴の空いた場所まで焼却炉を崩すのにまた小一時間。腰を屈めて伸ばしての重労働に、ふっと息をついたときがもう午後三時をまわっていた。
「…ったく、Dランクで金とってもバチあたらねぇぞ」
取り外した煉瓦を積み上げた山に、どっかりと腰を下ろし、そう呟く。実際、任務を始めたばかりの下忍たちになら、ちょうど良い肩慣らしの任務となったろう。
…そういえば、あいつたち、元気かな。
思いは、最近アカデミーを無事卒業していった生徒に飛ぶ。なかでも、ナルト。
元気と向上心が持ち前の、明るい少年。その実は、身の内に九尾と孤独を抱えている少年。合格を言い渡し、その後の上忍による選抜も果たし、下忍となった少年のことは、どうしても心配になった。どうしているのか、と。
それに…。
連鎖のように、ナルトの担当となった上忍を思う。あれからまったく顔をあわせる機会も無かったが、もうこちらのことなど忘れているかな。…選抜が終ってからまだそんなに経っていないから、ナルトたちもあの上忍の人となりに慣れるのに大変だろうな。
微かに笑って、イルカは腰をあげた。
「さて、日が暮れる前にやっちまわねぇとな!」
それからが大変だった。
じりじりと進む午後の日を背に、泥を練って乗せ煉瓦を組んで、乗せて組んで、乗せて組んで。四角い焼却炉。古ぼけていて気にもしなかったが、けっこう大きく作られていた。それを一人で泥と煉瓦から作り直しているのだから、時間もかかってあたり前なのだが、やはり疲れはたまる。
午後早いうちは重いとも感じなかった煉瓦片が、日が傾き、山の稜線がうっすら淡く染まるころになると、二の腕が攣って、どうしようもなく、重く思えてきた。それでも、今日中にはしてしまわないと、と思いながら腕を動かすも、いかんせん、疲れは全身に積もっているようで。
「…あともうちょい、なんだけどなぁ」
嘆息し、イルカは手を少し休めた。
額に滲んだ汗を、泥の跳ねた腕で拭いた。少し、頬に泥が滲んだ。
完成は八割、というところだろうか。慣れない土作業に不恰好な部分もあるが、それは良しとして、問題はあと二割ということだった。時間がない。
もう空は淡く色づき、山が徐々に薄墨を刷いている。
日暮れがもう近かった。
困ったな、と呟きイルカは焼却炉を前に眉をしかめた。
明日のスケジュールはと考えたが、確か午前午後と授業が一日つまっていた気がする。授業を放棄してまで焼却炉補修が大事かといわれれば、全く立つ瀬がないし、またそうする気もない。授業のほうが大事に決まっている。
だが、後を頼む人間も思い当たらなかった。もともと、イルカにこの補修を頼んだ人間も、考えてみれば事務作業一辺倒の職員で、たぶん肉体労働を倦厭したためだろうと分かるし。だから、頼んできた人間に任せるのもムリとして、あとはスケジュールの空いている同僚を探すぐらいしか…。
ちり、と風に泥が乾き、腕が僅かひきつった。
また溜息がでそうになった。全身がだるくて、腕も痛くて、二の腕までどころか教服もドロドロだ。あとどれだけ急いでやってしまっても、勤務時間内に終りそうない。
でもなぁ、誰かに頼むのもなぁ…。
気が引ける、というよりイルカの気分が乗らないのだった。ここまでやってしまったものを誰かに引き継いでもらうのは。中途半端が嫌というのもあるし、頼む、という作業自体も好きではないし、相手にも気を使うし…。
つらつらと埒もなく考えて、あーあ、と暮れる空を見上げた。
一旦、人の前に立てば表情で隠せるのに、こうやって頭のなかは埒もない細事でいっぱいだ。イルカとしても、考えたくは無いが、もう長年の癖のように思い巡らしてしまう。我ながら悪い癖だなと思う。まして、こんなときなどは、外面を気にしつつ、内心に違うことを考えている自分が、本当に、嫌になる。
視界に、ほおずき色の雲と空、烏も飛んでいる。それからアカデミーの校舎の裏壁。行儀良くずらっと窓が並んでいて、生徒も引いた頃の今は、おおよその窓が閉まっていた。
どうしようか。やっちまおうか。
悩むイルカの視界に、ふわりと淡い色。
あれ…――――――?
三階、だろうか。イルカからみてちょうど同じ位置の、三階のあたりの窓に、誰かの影が見えた。校舎裏、だから日当たりも悪く、それに今はたそかれ時。その頭髪が白く淡くみえる以外は良く分からず、イルカは少し目を凝らしてみた。
そして、それが何かと判別するまえに、それ、から声が降ってきた。
「あれ、終るんですか?」
カカシだった。
「カカシ先生?!」
「はい」
驚いた。
どうやら腕から上、半身を窓から乗り出しているようだった。白っぽく見えたのは、俯き加減の銀髪で、それに重なるように、白く見える本の背表紙があったから、直ぐにはカカシだと判別できなかったのだろうが。それでも、こんなところで、そんな格好で、何を?
イルカの頭に疑問符が次々浮かんで、渦まいた。
そうすればカカシがまた。
「で、終ったんですか?」
ほんの暫く、訊かれた意味が分からず、カカシを見上げたままだったが、ハッと我に返って、とぎれとぎれに答えた。
「え、ぇえと、まだ…、どうしようか、考え中で、終っては…」
「そうですか」
「あの……―――」
「はい」
「…カカシ先生は、そんなところで、何を…―――」
恐る恐る、問うた。
そんなにアカデミーのテストで良い点をとったことは無かったが、少しは考えたのだ。先ほどの会話の間に。
まず昼寝をしていたとしよう。でも今は日暮れ時。それにあんな、窓から上半身を出したような格好で昼寝はないだろう。日当たりも悪いし。同じ理由で、読書。これも却下。目が悪くなりそうだ。
あとは、ただ外の空気を吸っていたか、景色を見ていたか。…だが、それもイマイチな理由だ。それがしたいなら、イルカだったら休憩室に行く。そちらのほうが、こんな裏校舎よりも、良い景色と良い空気が吸える。
だから、少しは考えてみたが、カカシがこんなところでこんな時間に、そんな窓から腕をだして、窓枠に頬杖ついて読書のような格好をしているのか、さっぱり、分からなかった。元々、変な人だけど、とは思ったが。
日暮れ間近。
薄闇に判別しにくくなる景色のなか、カカシの声が降ってくる。あの美声だ。
「イルカ先生を見てましたよ」
「…―――は?」
どういう意味か分からず、首を傾げた。
「だから、それを作ってるイルカ先生をみてました」
「え、あの、…いつから…」
その手にもってる白い表紙の本は? 読書してたんじゃ?
自分で却下した仮説をまた蒸し返しつつ、思う。
だって、自分を見る有益さと、日陰で夕暮れに読書をする有益さでは、後者の勝利だと思ったから。
「そうですねぇ、少し前ですよ。四時前に報告書だしに来て、それで見かけたんで」
今は五時半すぎ。今度は呆れてしまった。暇で暇で仕方ないのだろうか。
「そう、なんですか…」
それだけ言って、イルカは他にいうことを無くしてしまった。まさか、暇なんですか、とは言えないし。
「別に暇じゃないんですよ、待ってみてもいいかなぁって思ったんで」
「え」
なんだろう、カカシは人の心でも読むのだろうか。少し吃驚した。
「今ねぇ、吃驚しました? でもさっきのは分かりやすかったですよ、呆れたっぽくて」
声と一緒に、くすくすと笑いも降ってきた。イルカは憮然となる。
どうしてだろうか、この上忍と会えば、いつも一度は、むっつりしている自分が居る。
いつもはもっと、他の人間と居るときはもっと、笑顔をふりまいていられるのに、この上忍の妙な間で、まず真顔に戻ってしまって、それからムッとくる。酔った状態から素面に戻るときのようだ。
「…―――そうですか、それでは俺はまだ、…後片付けが残っていますので」
話は終わりとばかりに、首を下に戻して、イルカは足元の目地ごてを拾い上げた。レンガハンマーは向こうにおいていたし、均し用ごては泥桶のなかに突っ込んだままだ。残った泥は集めておこう、こてに付いたのは洗い落として。ああ、俺も風呂に入りたいなぁ。
思っていれば、声。
「そうですね、それじゃあまた」
見つけたときの唐突さと同じ、ふいと気配が消えた。
え、と呟いて上を見上げればもうカカシは居ない。少し、眉を顰めた。そっけない態度を取った自分を自覚できるから、罪悪感のようなものを感じたからだ。
…態度、悪かったよな。今。
少なくともカカシは、言葉はともかく態度は好意的といえるし、省みて今の自分はつっけんどんで、世辞でも好感的ともいえない。普段、外面のよさを努めて作っているだけに、余計に悪く思えた。
別に今と言わなくても、カカシといるときは、仏頂面や表情をなくしているときが多い気はするが。
「今度、会ったら…」
もう少しましな対応をしよう。苛立つことを言われても、我慢する。
あの笑顔に騙されない。
そう心に決めて、イルカは「よし!」と気合を入れた。
悩むのはやめた。
後片付けだ。
つい言ってしまったが、カカシにも、この目の前の状況にも、明日のことも悩むのは止めよう。
後は誰か、暇な同僚に押し付けてやる。ここまで一人で出来たのだから、後は午前中からかかれば充分出来上がるだろう。誰に頼むかは明日の朝、考えよう。この間、ナルトのことで云々いってきたヤツ、次の日やたら謝ってたけど、あいつに頼んでもいいしな。
だから、もう今日はコレで終わり。
カカシにも、後片付けが残っていると言ってしまったし、有言実行。有言実行。
心で思って、イルカは何かしら軽くなった気のする腕を、大きく回した。
「さーて、帰って風呂入るか!」
伸びをしたら、肩がゴキッと鳴った。
2003.1.10