気分
どんな、気分だろうか。
カカシは己の胸のうちに問うてみる。
それは心地良くふわりとして、それでいて敵を前にしたときのような昂揚感があって、愉快ともいえるし、締め付けるような具合もある。
イルカと共にいるときに、よく、そんな気分になった。
それがどういった理由によるものかは分からないが、あの夜に、イルカの眸をみて面白いとおもったときからのような覚えがある。あの、周りの意見に迎合するようで、全くしていない男。自分がしたからするのだ、と取り巻く逆風に顔を真向ける男。その姿を良いと思ったときから。
だから、偶然にその背中をみたときに声をかけたのも、その姿を良くおもったことを自分が覚えていたからだ。少し、話してみたくなったというか。
名前はイルカ、アカデミーで少し評判を聞いてみれば、驚くほど名の知れた男だった。忍びの才能よりもその人柄の良さで。一度耳にした噂では、九尾のことと覚えていたが、別の意味でも充分、有名な男らしかった。それにしても、忍びが人の良さで名を売るなど、信じられないほど稀少なことだ。
ほんとのとこ、物騒な人、だと思うけどね。
ゆっくりとその背中に近づきながら、心で呟く。
知らず面布の下で唇が笑む。さて、どんな反応をするだろうか。
「イルカ先生?」
実際、話してみるとますます面白かった。
こちらを上忍と分かっているだろうに、まったく媚びる様子もなく、淡々としている。別に、媚びないからといって気に入るというわけではないが、その平坦とした態度とは裏腹に、こちらの言葉に反応して時折ちかりと光る眸が、楽しかった。それに、カカシとしては褒めているつもりの言葉にも、なぜか苛立つように睨んでくることがあったが、それも楽しかった。
だが、カカシが自分に対して驚くのには、楽しいと思う意外にも、不思議な昂揚感が常に付きまとってくることだった。それが一番顕著だったのは、イルカが笑ったとき。
「俺なんて女子供には逃げられるクチですから。怖がられて」
言ったとき、暫くきょとんとして目を瞬いていたイルカが、不意に笑い出した。始めは小さく笑っていたのに、しまいには腹を抱えて喉の奥で笑っていた。顔を悪餓鬼のように顰めて、おかしくて堪らない、といった風に笑っていた。
それを見たとき、何で笑うかなとちょっと憮然としたが、どうしてか、腹の奥のほうから暖かくて、本当にどうしてか、―――嬉しかった。
ああ、俺の言ったことで笑ってるんだと思ったら何故か嬉しかった。
本当におかしくて笑っているその顔が、柔らかい光の小部屋のなかで、やけに目に付いて、だからそのあとの「作り笑い」には直ぐに気づいてしまった。
彼は驚いていたけど。
それからどんな話をしただろうか。
大してとりとめもない話だった気がするが、ずいぶんと楽しかった気がする。帰り際、お蝶にいわれた言葉も、奮っていた。
「なんや、可愛いおしたなぁ」
言われたときはイルカのことかとおもって首を傾げたのだが、すぐにお蝶は笑い、あんさんのことでっせ、と言い足した。それを聞いて、なんと言っていいのか直ぐには分からず後頭部を掻けば、まだ老婆は笑っていた。
「またご贔屓に」
どうもからかわれた感があったが、あの老婆はいつもなにかを見透かしているようで、カカシは半分布に覆われた顔を撫でてみたりもしたものだ。多少、顔が弛んでいたかな、と思わないでもなかったので。
イルカ、という人物の人となりを考えてみれば、一等にまず「人当たりの良さ」がくるだろう。それから次に「頑固」。
考えてカカシはくつくつと喉を鳴らす。
あの男の底辺に流れるものは、他人にどう言われ干渉されようと、己の想いを貫く「強さ」だ。それをあの男は、その想いが他人には安易に同意してもらえないことを悟っていて、触れれば激を発するそれを、人当たりの良さでオブラートに包んでいるだけだ。有り体な擬態。
だがそれが、当人にも分からぬほどに上手くいっていることが、当人にとっての不幸なのか、幸なのか。
カカシは少なくとも幸だと考える。あとはイルカが開き直るだけで、イルカにとって世界はもっと住みやすくなるだろうから。
だが、イルカはそれをしない。
多分、一生。
それは不幸だ。
不幸だった。
「カカシ先生」
「はい」
「昨日は本当にごちそうさまでした」
丁寧な口調に、ちかりちかりと。眸が光る。
実は怒ってるのかな?
思いつつ返事をすれば、今度こそイルカは傍らをすり抜けていってしまった。
一瞬の近接に、体温を感じたようで、言いようの無い昂揚感が、また。
どうしたんだろうな、俺。
こんなにも一人に対して、考えに及んだり反応をしたりする自分は知らない。
それでも、あの眸は忘れ難い。
イルカの去った場所は熱量の去った空間で、カカシはふらりとまた、目的地を探す。本当は火影に呼ばれているのだけれど。多分、もう暫くしたら持つはずの、下忍三人についてのこと。
だがもう少しあとでもいいだろう。
今はこの昂揚感を無くさぬように、どこか、向かう。
あの体温に、触れてみればどうなるのかと想いながら。
2003.1.6