あの夜





 翌日、イルカは同僚にこってり怒られた。
 待てどもこないイルカを待ちきれず、女性たちの大半は一次会でさっさと帰ってしまったらしいのだ。それは言いすぎだろうとイルカがいうと、同僚はまたがなり出すから、しまいにはイルカも「はいはい」と頷いておいた。こんな風采の上がらない中忍を目当てにしてくれる女性が、言うほどいるとは思えず、やっぱり笑ってしまったが。

「でも、じゃあお前、そのまま帰ったのか? 家に」

 え、とイルカは言葉に詰まる。

「仕事終った後だよ。一人で。…まさか、そんな嫌だったのか?」
「あ、いや、違うって」

 慌てて否定してしまった。もともと、人付き合いのよさで好評を得ているイルカゆえ、たとえ心で望んでいなくても、つい口がそれと反対のことを言ってしまうのはよくあることだった。が。

「じゃあ…」
「え、と…店の前でさ、上忍の…ほら、はたけ上忍にメシ、誘われてさ」
「はたけ上忍!?」
「そ、そう。断れないだろ?」

 苦笑しながらも言ったとき、なぜか疚しい気持ちがした。嘘はいっていない。言ってはいないが、まるで誘ってくれたカカシをダシにしたような気になった。
 だが今まで不審げに眉をよせていた同僚は、その説明で腑に落ちたらしく、二度三度と頷いた。

「だからかー、なるほどなぁ」
「あ、ああ」
「けど凄いじゃないか、イルカ!」
「? 何がだよ」
「バカ、あのはたけ上忍にメシ一緒させてもらえるなんてさ、なんかやったのか? お前」

 同僚の言うことが、暫し飲み込めずにイルカはその顔をまじまじと見つめてしまった。

「おいおい、なんだよその顔」
「いや、そういえば、そうだな、と思って…」
「おーい! 前からそうだけど暢気なヤツだよなぁ、お前は!」
「ははは」

 遠慮の無い言葉に、とりあえず笑っておく。確かに、言われるように「暢気」であったきはする。どうして誘われたかなどと考える暇がなかった。つまりは、カカシといる間中、気を張り続けていたということなのだろうが、それにしても、やはり「暢気」だ。
 言うだけ言って気がすんだのか、そのまま移動していった同僚を見送って、イルカも一日のスケジュールを考え始める。教務室入り口の、教員配置表をみれば今日は屋内授業のち受付だった。
 授業の内容を確認しながら、イルカは先ほどのことを考えていた。

 どうして、だ。

 特に歓心を買った覚えもない。不快にさせただろう覚えはあっても、だ。それが不思議だった。
 嫌われている、とは考えにくいだろう。嫌がらせを受けたような気もしないことはないが、おそらくあの腹に刺さるような物言いは、彼の独特の言い回しだろうと思う。少しのあいだ食事を共にしただけだったが、それぐらいは推測できた。だから、きっと嫌われてはいないとおもう、今のところ。第一、虫の好かない相手をわざわざ食事には誘わないだろうし。
 何か、用事でもあったのだろうか―――?
 考えてみるが、すぐにその推測は放り出した。カカシ自身がいっていたではないか、「あなたに用事はないですよ」と。
 それなら只の気まぐれ、としか…
 と、そこまで考えて席を立ちかけたイルカに背後から。

「へぇ、断れなかったんですか、そりゃ悪いことしました」

 ぞくりと、背筋に痺れが走った。思いのほかの美声で、耳元で言われたから。

「―――――――――…っ、カカシ先生…!?」
「そうですよ、俺です」

 バッと振り向けば、引いた椅子のすぐ後ろ、飄々とその男が立っていた。昨夜と変わらない出で立ち、斜め掛けの額充てに顔半分を隠した面布。それから猫背気味の痩身と、銀の髪。昨日と違うのは、一向にその表情が読めない、右目だった。昨夜はもっと、…もっと分かり易かったような気がする。

「いつから…そこに…」

 驚きに声が滞ったが、どうにかそれだけ言う。そうすれば、男はさらりと。

「そんなに嫌だったのか、のあたりですかね。ちょうど通りがかったんで」
「……」

 それなら、後の一連の会話を聞いていただろう。イルカは咄嗟に頭を下げた。

「すいません!」

 カカシの言葉を待たずに続ける。まだちらほらと周囲にいたものが、興味ありげに視線を向けてくるのを感じたが、そんなものより、なぜか目の前のカカシのほうから感じる圧迫感が怖かった。先の夜も、昨夜も感じなかったような圧迫感だった。

「その、せっかく誘っていただいたのに、上手く、言えなくて…、その…っ」

 自分に感じた、先ほどの疚しい気持ち。
 カカシに何も非はないというのに、それをわざとそのままにした。自分の保身のために。カカシに聞かれたことで、申し訳なさと恥かしさが襲ってきた。

「すいませんでした…っ」
「えぇと…」

 イルカが頭を上げると、カカシが右掌を頭の後ろにやって、困ったようにしていた。
 先ほどまでの威圧するような気配が、僅か、和らいでいた。

「…何を謝ってるんですか?」
「それは、さっきの、断れないから行った風に言ってしまって…カカシ先生も先ほど仰ったじゃありませんか。だから…、俺が悪いんですが、誤解されているようで…」
「あれ、じゃあ、あれって嘘ですか?」
「はぁ…、だから、本当にすいません。せっかく誘っていただいたのに、あんなふうに言ってしまって…」

 なんだ、とカカシが呟いたような気がした。

「カカシ先生?」
「いや、それならいいです。行きたくないのに無理やり誘っちゃったかと思って、ちょっと心配しました」

 言って、カカシの右目がニコリと笑った。それを見て、イルカの肩から力が抜けた。やはり、カカシも怒ることがあるのだ。先ほど、気のせいでなく感じた圧迫感は、カカシが言葉に出さないまでも気分を害していたのだろう。

「本当に…、すいません」

 三度謝って、イルカは不意に思う。もしかして、この上忍はとても「良い人」なのではないだろうか。たかが一介の中忍に、ここまで気を回すなど普通はしない。カカシを誤解していたのかもしれない。  そう思っていれば、カカシが笑顔のまま、またさらりといった。

「協調性が高いのはいいことですよ」
「……―――」

 やはり、前考撤回。
 「良い人」はこんな捻くれた物言いはしない。

「…それでは、俺はこれで」
「ああそうですね、授業に遅れちゃいますね」

 カカシが、すいと椅子の後ろから身をひいた。その脇を通り過ぎる手前、不意に思い出した。

「カカシ先生」
「はい」
「昨日は本当にごちそうさまでした」

 この男を前にすると、ついつい、いつもの人当たりがよく温厚な自分が剥がれて、短気で礼を逸してしまう自分がいるが、それでもこれぐらいは忘れずにすんだ。とはいっても、昨夜の、カカシの別れの言葉がなければ、やはり忘れていたような気もするが。

「いえいえ、口にあったようで良かった」

 笑むカカシは、文字だけ捉えればずいぶん、控えめで謙虚なことをいっているのだが、いかんせん、たまに零れる一言二言が問題なのだ。
 イルカはぺこりと頭を下げ、今度こそ脇を通り過ぎた。

「失礼します」




 昼。
 アカデミーの屋根のへりで、イルカは昼食をとっていた。今日は天気で、風も心地良くかったから、久しぶりの野外の食事だ。ただの握り飯も美味く思えるし。
 そういえば。
 朝の出来事がふと浮かんだ。
 やっぱり、怒ってたんだろうなぁ、あの雰囲気。
 何も苛立ったようなことは言わなかったが、あの威圧感を思い出せば、感じたことは間違いでないと思う。
 まぁ、「普通」は怒るか。
 あの人はどうやっても「普通」の規格からは外れてるけど、と付けたす。
 だが、同僚に言ったことは確かに自分の「協調性」からくる保身のためで、あの人が怒らずとも、聞かれていたのであれば謝ってはいただろう。恥かしさとともに。

 一つ、溜息がでた。
 飲み込んだ飯粒が喉もとで引っかかっているような気がして、水を含んだ。
 するりと落ちる冷たさが心地良かった。

 …あの花宿の飯も美味かったな。
 酒も飯も美味かった。女を抱くための宿で、飯を味わうなど思いもしなかった。カカシに感謝、だ。  そう、感謝。
 いまいち、人となりが引っかかって素直に感謝できないところがあるが、それでも有り難いと思えるようなことだろう。
 美味い飯を食わせてもらって、気鬱になっているところを連れ出してもらって、それに…楽しかった。
 だから感謝こそすれ、迷惑などは感じていなかったが。

「まぁ、気まぐれだろ、気まぐれ」

 縁のなさそうな中忍を、その奇妙な人の良さで面倒を見ただけだろう。
 最後の握り飯を口に放り込んで、イルカはそう結論づけた。
 ただ、あのふとした美声が、耳内に残っているような気がした――――――。



2003.1.5