夜気
外に出れば、ひんやりと夜気が頬に触った。
べつに褒められるのが嫌というわけではない。ただ、無責任に褒められるのが嫌なだけだ。
人に言うと首を傾げられるのは重々分かっているが、人の内面を良く知りもしないで、どうしてそんな安易に褒め言葉など合唱できるのかと、苛立つだけだ。
もとより、そんなことを他人に苛立つほうが可笑しいとは思う。
誰でも人と深く繋がり生きているわけでもなく、ただ袖触れ合うも他生の縁と一度きりの出会いでその人となりを理解した気になったりもする。内面まで分かりきって、心底の泥や屑まで掬い上げてからもなお、友人や知人になり得る人間のほうが、稀少なのだ。
だから、これは俺の我侭で、子供の癇癪のようなものなんだ、とイルカは自覚している。
カカシにわざわざ告白するようなことでも、気にしてもらうようなことでもない。
「本当にごちそうさまでした」
イルカは分かれ道で、カカシにいった。
あの店屋での払いは幾らだったのだろうと気にはなったが、言わなかった。気にしたところで、おそらく、中忍の安月給で払いきれるような額ではないだろう。
「いえ、俺も思いがけず楽しいメシが食えて良かったです」
「そうですか」
相変わらず、深読みすると腹のたつことをさらりという男だった、カカシは。
この男と付き合う良い術は、気にしないことではないだろうかと思う。風体からして読みづらいのだから、いちいち言うことも気にしていられないという風に、聞き流していれば、普通に会話が出来そうだった。
これからは廊下で会えばそういう対応でいけるな、とイルカが思ったとき、
「いろいろ話もしたし、これからは廊下で会っても、こんばんはだけで通り過ぎないで下さいね」
カカシに言われ、面食らって、イルカは目を数度瞬いた。
言った男は、また笑う。
「それじゃあ」
「え、あ」
言ったきり背を向けて、夜に溶けるように消えてしまった。イルカが別れを告げる間もなかった。消えてしまった背を追うように、中途半端に上げられた手を、のろのろと下ろす。
は、と溜息。
最後の最後まで、なにか棘を指すようなことばかり。
それでもあの笑顔がやたらに好感的だから、よけいに始末が悪い。上忍とはみな、あんな様だったろうか。
おさまり切らない感情に、イルカは括りつけてある後頭部をがりがりと掻く。
とりあえず、今度会ったときには、先日は本当にごちそうさまでした、と言わなくてはならないだろう。あの上忍の言うとおりになって、なにやら悔しく思うところもあるが、致し方ないことにする。それでもやっぱり。
…なんか、やっぱり、悔しいけど。
もう一度短い溜息をついて、イルカは帰り道を歩き始めた。
「…でもまぁ、…美味かったし」
とりあえず今日はそれでよしとしよう。
そう思い直した。
満ちた腹は温かかったから。
2002.12.31