花裏
ずいぶん歩くな、とイルカは思った。
ひょろりと細く見えカカシの背中をみつつ、歩くことニ十分ほど。とうに木の葉の繁華街は通り抜け、賑やかしい通りももう遠い。今、歩いている通りはやけに静かで、人通りはあるものの、なぜか足音も気配も希薄だ。明かりも心なしか薄暗く、そのなかをカカシの背を頼りについていくのは、正直心もとなかった。
第一、この先を進めば、色街に入ってしまう。
まさか花宿で晩飯を食べるつもりだろうか。常識を疑う。
真後ろからでなく、一歩二歩の距離をあけて斜め後ろからみるカカシの背。里随一の忍びと聞いて思うよりは細く、だが隙はない。殺意を片鱗でもみせれば、その瞬間に首が胴体から飛ぶに違いなかった。
まぁ、付いていくしかないか、と心中で嘆息する。
なにせ、出会ったときから失礼と非礼と無礼が、己の周りを、手と手を繋いで踊っているのだ。
今、自分が生きているのが実は不思議なぐらいだ。
カカシはよほど寛容か物事に頓着しない性なのだろうか。
普通、中忍に自分のような態度をとられれば気分ぐらい害すのだが。
「ああ、こっちですよ」
不意にカカシが呼ばわった。
「え?」
それにイルカは考えに耽っていた自分に気づいた。
カカシは道から入った、暗い小路にいた。明かりも、目を凝らせば奥のほうにあるぐらいの、塀に挟まれた細い路地だ。考えたくはないがやはり何かしらの報復があるのかと、一瞬で考えて足の先が迷った。
ふふ、とカカシが笑った。イルカの躊躇いを正確に推測したのだろう。
「この奥に、俺のお薦めの店があるんですよ。表から入ると女が付いてくるからね、今日はこっちから入ったほうが良いと思って」
「はあ…」
いまいちイルカには把握できない説明で、カカシはそのまま路地を進んでいってしまった。しょうがない、とイルカもそれを追った。嘘でも誠でも、どうにでもしてくれ、といた気分だった。
はたして、カカシの背に追いついてみれば、あったのは小さな提灯に照らされた、これも小さな門構え。先ほどまでいた通りから、コの字に奥まった場所にあり、知らなければ一生気づかぬような出入り口だった。
提灯の柔らかな明かりの下には、一輪挿しが白い花を添えていた。
一見して、『うお弥』とは全く別の客層を相手にしている店構えだった。
「ここ、ですか…?」
「ええ」
言ってカカシは白木の門扉を押し、その奥の暖簾をくぐった。扉を横に引くのと同時に、イルカの目と耳に、明るい光と威勢よい声が飛んできた。
「あれ! カカシさま! またそんなところから入ってきなすって、まあまあ!」
賑やかな女の声に、暖かな湯気と美味そうな匂いが一緒にやってきた。カカシの肩越しに覗けば、間口と同じ幅で奥に続く廊下の左、そこから湯気と声が聞こえてきていた。厨房、だろうか?
「悪いね、今日も腹が減っちゃって」
「そりゃ御贔屓にして下さんのは嬉しいですけどね、あたしゃ、またお密の泣き言をきかなきゃならない」
「また来るからって謝っといて。いつも食わせてもらって感謝してるよ、美味しいから癖になる」
「まぁ嫌ですよ!」
嫌といいながら嬉しげな女は、見てみればからの大きな四十女。厨房の頭を務めているのか、カカシと喋りながらも後ろ手の室内に向かって、椀物を白椿のお部屋に、などと声を響かせていた。
いったいここはどこだろうと戸惑うイルカを置いて、カカシはひとり、サンダルを脱ぎ、下働きのようである少女が持ってきた盥で足を清めている。どうすればいいんだろうと、カカシをみれば、視線に気づいたカカシは、ちょいちょいと腰をおろしている横を指し示した。座って、同じように足を洗え、ということのようだ。大人しく、その横に腰をおろし、少女が盥にぬるま湯を張り、イルカの足元に差し出すのをみていた。
まさかまさかと、イルカの頭が状況を考え始めていた。
先ほどの会話、かむろ頭の少女。それに先ほど、カカシは「表から入ると女が付いてくるから」などと言ってはいなかっただろうか。
「…カカシ先生、あの」
「ここの飯は美味いですよ。二階に婆さんの部屋があるんです、そこで頂きましょう」
にこ、とカカシは笑った。胡乱だと思ったその笑顔で。
イルカの目の前が、嘘ではなくクルリと一回転したような気がした。
上忍とはみなこうなのだろうか。物事に頓着しない、とかいう問題ではなくこれはすでに、変人、とさえ呼べるのではないだろうか。よりにもよって、花宿の二階へ、裏口から入り、飯だけ食いに上がるというのだ。平凡な遊びしか知らない自分には、通すぎる遊びだと、皮肉りたくなった。
「腹が減りました、さ、早く」
邪気のかけらもないような明るい声で、カカシが急かすのを、イルカは陰鬱な気分で聞いていた。
「ほんまいっつも飯だけゆうて、カカシはんぐらいの色男、あの子らが寂しいゆうのも分かりますわ」
言って、ほっほっほ、と笑うのは七十を過ぎた頃の老女。いたってごく普通の、といえば失礼にあたるだろうか、商店の店番にでも鎮座していても不思議でないような老婆だった。もしや、「婆さん」とは名ばかりの搨キけた女が出てくるかと思っていたイルカは、反対に肩透かしをくらったような心持だった。
「苛めるのはよして下さいよ」
カカシは寛いでいる様子で、老婆に答えた。
いまイルカとカカシがいる部屋は、先ほどの廊下をすぐ右に曲がり、そこから二階に上がった小部屋だった。見た限りのこの建物の廊下は、細く長く、幾多にも枝分かれして部屋に繋がっているようだった。構造からすると、かなり大きな建物の奥。しかも花宿の奥、二階といえば、だれでも少しは考えるものがあるのだが、…いったいこの男はどうやってここまで親しげに寛げるのか。まったく不思議だった。
小さな部屋は、なぜか真ん中に火鉢が据えてあり、出入り口から奥正面にカカシ、その左隣りにイルカが座った。誰もいない部屋に二人が腰を据えるのと同時に、老女が音もなく襖をあけ、いったのは先ほどの言だった。
「そやけど罪なお人や。恨みごと聞かされるんはあんさんやのうて、わたしどっせ? えらい損やわ」
老婆は穏やかに言いつつ、後ろ手に控えていたのだろう、盆にのった杯と徳利を出した。白磁に彫りのある美しい揃いの酒器。それをカカシに差し出しつつ、老婆はイルカに微笑んで見せた。不意に関心を示されたようで、イルカは落ち着かない気分を味わったが、そんな様子も老婆は微笑みでかわして、カカシに向いた。
「カカシはん? ご紹介、してくれへんの?」
「あれ? 知らない? 有名な人だよ」
しれっとカカシが、言った。え、とイルカの口から戸惑いが零れる。こっちは緊張で堅くなっているのにそんな冗談は止めて欲しい。
「あら失礼しましたなぁ。ほんなら聞くのも失礼やし…ぇえと…」
老婆が眉を下げて言うのに、イルカは慌てて手を一振りした。
「いえ、ご冗談を。私はうみのイルカと言います。有名でも何でもないので、すいません」
言ってカカシを一睨みしたが、当人は知らぬふりだ。老婆は、ほっほっほと笑った。
「わたしはお蝶と申します。こんなトウたったんがお相手やなんてほんま申し訳あらへんけど、文句はみぃんなカカシはんにいっとくれやす。よろしゅうにお願いします、イルカはん」
老婆、お蝶がやんわりと頭を下げるのにイルカも倣った。この場所と連れてきた当人はともかく、お蝶に歓迎されているのはわかった。
「まあお一つどうぞ。お食事もすぐ持ってきますわ」
言い、小さな火鉢のうえに、真ん中の開いた台板がのせられた。黒塗りの、よく使い込まれたそれに先ほどの徳利と杯がのせられた。イルカは徳利をとり、カカシに向ける。すいませんと受けたあと、カカシも返してきたので、イルカも杯をとった。透明な酒が杯を充たす。
「じゃあ、お疲れさま」
カカシが杯を軽くかざして、干した。倣ってイルカも杯を開けると、するっと喉を下った喉越しに薫りが残った。美味かった。
あれ、とイルカはカカシをみた。その妖しげな面体を現している布が、外されていなかった。…どうやって飲んだんだろうと不思議になりつつ、イルカは徳利をカカシに向けた。
「口に合いますか」
「…はい、とても美味いです」
「そりゃ良かった。ここの飯も美味いですよ」
はい、と頷きかけたイルカに重なるように、いつ出て行ったのか老婆が障子をあけて入ってきた。
「カカシはん? ここは飯屋と違いまっせ?」
「聞かれちゃいましたね」
怒られたように首をすくめ、カカシがイルカに笑って見せた。それはやはり、腹のたつ言葉や妖しげな風体を吹き飛ばすような、子供のような、良い笑顔で。このときはイルカもつられて、少し笑ってしまった。お蝶に叱られるカカシが、上忍と忘れさせる仕草だったから。
「さあさあ、カカシはんお墨付きのお料理、腕によりをかけさしてもらいましたえ、とっくり食べとくんなはれ」
確かに、料理はほんとうに美味しいものばかりだった。酒もまた美味で、いつもイルカが口にする安いカクテルや蒸留酒などとは一線を画す、上等の酒だった。
その料理と酒に舌鼓をうつうちにイルカの肩の力もぬけ、小さい部屋とカカシと、朗らかな老婆。落ち着いた心地になってくる。ただ、相変わらず、いつ食べているのか不思議なほどカカシの面体はつけられたままだったが。
「そういえば」
そんなころだった、カカシがおもむろに切り出したのは。
「はい」
「どうして中に入りたくなかったんですか?」
少々面食らった。イルカにとって、それはもうどうでもいいことだったので。同時にこの上忍にとっても些細な、どうでもいいことだと思っていたのに、今更そんな質問をされるとは思ってみなかったのだ。
「どうして、って…」
「酒が嫌いってわけでもなさそうだし、用事、あったんでしょう?」
ええ、まあ、とイルカは言葉を濁す。あそこで佇んでいたのは、イルカの一身上の都合で特に話して聞かせるほどのことでもない。単に、"ある言葉"を聞きたくない、と思ってのことだったのだから。それでも言葉を濁して困っているイルカに、カカシが促すように、徳利を傾けてくる。
それを受けて、ちびりと飲む酒は美味い。
そうだな、この酒代ぐらいは話に応じるか、と少し思う。
「今日、同僚に、その…飲み会に誘われまして、それがあそこでだったんです」
「ああコンパですか」
言い当てて欲しくないことを、あっさりと言う。イルカは、まあそんなもんですと言い継ぐ。
「あまり気が乗らなくて、それであそこで渋ってたんですよ」
「恋人に怒られるからですか」
「…いえ、恋人は居ないんで」
「じゃあなんで。もったいない」
あからさまな言葉だったが、カカシの言いようには裏が無くただあっさりしていた。だからイルカは苦笑し、杯をおいてカカシに徳利を傾けた。
「あまり…ああいう場は好きというわけではないので」
「ふぅん。イルカ先生、人気あるのに意外ですね」
いや、だから苦手なのかな。
と上忍は笑って、料理にも手をつける。それを見るともなしに見ながら、イルカは内心驚いていた。カカシが、自分を聞き知っているようなことをいったからだった。
カカシの名は知っている。里きっての実力者の名をしらない者のほうが可笑しいだろう。だが、省みて自分は、お世辞にも能力的に優れているとはいえない忍びだ。とくに重要な役職についているわけでもなく、ただのアカデミーの教員だ。唯一つ、ナルト、という子供を目にかけているという理由で、一部の心無い人間の間では名を知られているのかもしれないが、…カカシはそういった理由ではないだろう。
「…人気、なんてないですよ。ご覧の通り、ぱっとしないんで。カカシ先生のほうこそ」
「いえいえ、俺なんて女子供には逃げられるクチですから。怖がられて」
はぁ…と返事をして、イルカはその様を少し想像してしまった。片目を額宛てで隠し、顔半分を覆う面体。加えて猫背で背が高くひょろりとして、胡乱な目つきで、得体の知れない上忍。
それは確かに、女はどうかはしらないが子供は逃げていくだろう。泣いて逃げるかもしれない。その様子を想像していまい、イルカはぷっと吹き出してしまった。こうやって酒を飲み交わす男、花宿の老女に叱られ首をすくめる男が、子供に逃げられるんですといっていることが、ただ面白かった。
吹き出してしまった笑いは止まらず、くすくすとイルカは笑う。もしかすれば酒が入り陽気になっているせいかもしれなかった。
「…笑いますかね、そこで」
カカシが呆れ半分恨み半分の声音でいうのも、可笑しかった。
「す、すいません、ちょっと、想像してしまって…」
止まない笑いにイルカは謝る。とはいえ、笑いながらではあったが。
「でもカカシ先生は人気ありますよ、俺、聞いたことがあります」
「へぇ」
「アカデミーでも、カカシ先生は格好良いって評判ですよ」
「ふぅん」
興味なさげな相槌。信じていないのかもしれない。そんなことはないのにな、とイルカは思う。事実、カカシの始終外さない面体の下の素顔は、想像されるとおりに整っているという。話す言葉も、その内容はともかく丁寧だし、女性に乱暴するという話も聞かない。となれば女性教員の関心も集まろうかという話だ。その力のゆえに気安く近寄れないことはあっても、好かれていないことはないだろう。
「イルカ先生は優しい、って聞きますね」
カカシが言った。何気なくいったのだろう、その言葉にイルカはどきりとする。
「そう、ですか?」
「ですねぇ、俺もそうだと思いますよ、そう思われるなんて羨ましいと…」
「ありがとうございます」
イルカは笑顔で礼を言った。褒めてもらえれば礼を言うようにしている。
「光栄です、でもそんなことないで…」
「すいません」
「え?」
「俺、なんか失礼なこと言ったみたいですね、申し訳ない」
唐突に謝られて、吃驚した。杯を持つ手が止まってしまった。それにカカシが徳利を傾けてきて、少し慌てて、杯を添える。
「なんのことですか? 俺、なにも…」
何か失礼なことをしただろうかと、反対に考え込んでしまう。自分はただ礼をいっただけだ。不快を表したわけでもないし、声を荒げたわけでもない。他になにか?
「いえ、あなたの顔が変わったからね、嫌なこと言ったのかと思って」
「…そうですか…?」
イルカは自分の頬を、掌でなでてみた。かといって自分の表情がわかるわけでもないが、それでも自分で顔が変わったとは思えなかった。いつものように、笑って礼をいっただけだが、それが変な笑顔に見えたのだろうか。…こんな、知り合って間もない上忍に、作り笑いなど、分かるはずないだろうし。
「そんなことはないですよ、俺の方こそお気を使わせてすいません」
「いえいえ」
ふ、とカカシが言った。
「イルカ先生って、嘘つくとき左の眉が下がりますねぇ」
「え」
言われた言葉に、おもわず手をやった。
カカシが喉を鳴らして笑い出した。
ひっかけられたと気づいたのは一瞬後。
「カ、カカシ先生!」
確かに、自分は気分を害していた。サボってしまった飲み会でも、誰にでも、言われたくない言葉があった。優しい、ということ。
「作り笑いでしたからね、すぐわかりますよ」
不思議なほど優しげに言われ、イルカの肩がゆるゆると下がる。
…そんなに、すぐに分かってしまうのだろうか、自分の作り笑いは。
「優しい、って言われたくないですか」
確認のように言われてイルカは頷く。
「…褒めておいてもらってなんだとお思いでしょうが、俺はそういわれるとバカにされているような気がするんですよ」
イルカは目の前の箸をとり、料理をつまむ。豆腐からゴマの味がして、あんかけの出汁味とよくあっていた。
「へぇ」
「人からはそう見えるんでしょうけどね。俺はあんまり言われたくないと思っています、でもそれは人には関係ないことでしょう? だからお礼をいっています。それだけです」
以上証明終了、の勢いで言い切って、イルカは杯をとって干した。
カカシが徳利を傾ける。半ば以上入って、御終いの一滴だった。
「あれ、お蝶さん、酒、お願−い」
障子の向こうにカカシが声をかける。暫くすればお蝶がまた酒をもって入ってくるのだろう。そう考えながら、イルカは半ばまで入った杯をおく。
「だから、入りたくなさそうにしてたんですね」
まだ拘っているのだろうか、カカシは話を起点に戻した。
「ええまぁ、酒も女性も嫌いじゃないですが」
「はは」
酒も適度に入って、あけすけに答えたイルカに、カカシが声をたてて笑った。また、だ。
また、そんな良い顔で笑う。
イルカは思う。
カカシのほうこそ、イルカにいま見せるような笑みを、例えばアカデミーや普段に振りまいていれば、充分に人が寄り集まるだろうに。無表情というよりは、表情を意図して消している普段からは想像できないほどに、その変化は好ましいのに。勿体無いな、と素直に思った。
「イルカ先生は」
その声でイルカは手元から、カカシの面に目を移した。やはり優しげに笑っていた。
「褒められるのが嫌なんですね」
2002.12.29