人気





 イルカはたいそう人気がある。
 老若男女を問わず、一部例外はあるものの、およそ人気があるといえた。
 アカデミーの同じ年代で働く教員にいわせれば、ときおりみせる意固地なところをのぞけば本当に良いヤツだと、二言目にはそう言う。また、女性に視点をかえれば、誠実で真面目、冗談もたまに言うしそれになにより優しい、と口をそろえた。一皮むけば刺さるような鋭さを隠し持つ忍びは多いが、そのなかでイルカは、心の底からほっとするような温かさがある、と評判だった。だから、子供にも懐かれ老人にも信頼を置かれていた。ひとえに人格の勝利、とでもいえようか。
 この日も、受付の処理時間を終えて退席しようとしたイルカを、同僚が呼び止めた。曰く、このあと木の葉病院の看護婦たちと親善飲み会があるという。ようはコンパだ。イルカが参加するといって誘った女子もいるらしく、笑って手を合わせられた。

「頼む、出てくれよー」
「ったく、しょうがねぇな」

 イルカも苦笑して、頷いた。付き合っている恋人も居らず、ムリに断るのも気が引ける。そういった酒の場はあまり、好きではないのだが…。
「じゃあ七時に、『うお弥』ってとこだからな!遅れずに来いよ!」

 それにはいはいと返事をして、今度こそイルカは席を離れた。


 言われた飲み屋の場所はすぐにわかった。最近できた、洒落た居酒屋だった。店先に、今日のお薦めとかかれた小さな黒板が、椅子に置かれ、下からぼんやりとライトアップされていた。いかにも恋人同士でくるか、若い集まりで使われそうな雰囲気がある。
 その店先で、しばし足をとめて、イルカはぼんやりと黒板をみる。黒板には、今日のお薦めは鰯のタタキと豆腐田楽、ささみの豆板醤味噌和えなど、幾種類もの惣菜の名前が拙い字で書かれている。黒板は白くなって線も所々残っていて、安物の板だなと思う。
 正直、足が重かった。
 別に誘われて嫌というわけではない。ただ、女性と一緒となると大抵、必ずといっていいほど言われることがあるから、それが聞きたくなくて足が鈍るのだ。
 は、と吐き出す息と一緒に、溜息も紛れさせた。
 それに被さるように、『うお弥』の店内から、笑い声と注文をとる声が聞こえてきた。賑やかで楽しそうな声だった。
 イルカは街頭の時計を見上げてみた。約束の時間より二十分も遅刻している。早く行かないと、あとで文句をいわれそうだ。彼女も居ないんだから嫌がる理由もないだろうと、からかわれるだろうか。それも嫌だなと思いつつ、それでも入り口の黒板前より、イルカの足は進まない。
 別に彼女がどうしも欲しいわけでもなし…前の彼女とはいつ別れたっけ。
 ぼんやり思って、ややあってから、二ヶ月前だっけと答えがでる。確か、ごめんねと笑顔で別れ話を切り出された気がする。やっぱり私にはイルカは勿体無いわ、といっていたと思う。イルカにはその理屈はさっぱりわからなかったが、つまりはもう特別に会ったり話をしたり、夜を過ごすことは止めましょうということなんだと了承して、寂しく思ったが、彼女の話に頷いた。
 彼女がいないのは、というより恋人が居ないのは、正直、寂しい。
 特別に時間をともに過ごす相手がいないのは、居ないと気づいたときが一番寂しい。
 だがそれも慣れれば別段、どうということもないよな…とイルカは思う。
 むしろその方が、自分には楽でさえある時があって、と考えたとき、不意に声がかけられた。

「イルカ先生?」

 振り向けば、片目を隠し、覆面をした銀髪の男。上忍。
 この間、深夜の廊下で会った。

「……ああ、どうも」

 イルカはそれだけをいう。
 その他に言い添えることはない気がした。その名前は知っている。知らないほうがおかしい、とさえ言われるだろう。はたけカカシ。里随一の忍びだ。
 カカシはゆっくりと歩み寄ってきて、イルカの傍にたった。何をしているのか不思議そうな気配だった。それでもカカシが呼びかけたまま無言でいるから、イルカも無言で、そのまま黒板を見つめていると、呟きがきこえた。

「楽しいです?」

 いいえ、とイルカは呟きのほうを見もせずに返す。
 そうすれば、ややあって、また。

「入らないんですか」

 今度は質問のようでなく、確認のような言い方だった。まるで、黒板をみるのが楽しいとはいわないがとにかく居酒屋の黒板をぼんやりと、入る予定でもないのに見るのが趣味なんです、という事項を了承したような言い方だった。誤解を招くような自分の行動は、たしかに納得するものがあるが、納得してしまうほうもどうかと思い、イルカはカカシに躯半分だけ向き直った。

「何か、御用でも」

 充分失礼な言い方であると重々承知の言である。仏頂面であるだろう。そして愛想のない言い方。普段のイルカを見るものなら、少々驚くことは違いなかった。せめてもう少し愛想良く、そうでなくても名の知れた上忍相手に…といっただろう。
 だがカカシは気分を害した風でもなく。

「いいえ、この店にもあなたにも用事は特にありませんよ」

 けど、と続けた。

「そんな魚の死んだような目で何してんのかなあと思って」

 飄々とした言い草で、カカシはざわりとイルカの怒りを逆撫でた。
 初めてあったときも確かそうだった。
 いつになく苛立っているときに、タイミング悪く出会ってしまった。後から考えて、よくも命があったものだと自分ながら思ったものだった。今も、先日の失礼を謝りもせず、また向こうも気にした様子もなく、むしろ神経を逆撫でするようなことを平気で告げてくる。じわりと腹の奥が熱くなるのを、一から三まで数えて、イルカは口を開いた。

「…ぼんやりとしていたものですから」
「そうですか」

 言ったきりイルカは口を閉ざしたのに、カカシは立ち去る気配を見せない。先日の非礼を責めるでもなく、今の状況もごく自然に受け取っているようであり、イルカには訝しいばかりだ。上忍と中忍の差から考えても、一般的な人付き合いのセオリーから考えても、少しはイルカが感じている不快を、カカシも感じていて不思議でないのに。

「…あの」

 立ち去る様子のないカカシに、イルカが耐え切れず声を発しかけたとき、カカシが言った。

「入らないんだったら、メシ、食べに行きましょうか」
「え」
「メシ、晩飯。食べてないでしょ?」
「え、あ、ああ、はい」
「じゃあ行きましょう。訊きたい事もあるし、奢りますよ」
「え」

 さっき、用事はないって言ったばかりじゃ。
 それを言い立てる間もなく。

「そんなえ、え、ばっかり言ってないで、ほら」

 また腹のたつようなことをさらりと言って、カカシが歩き出した。その背中を、呆気に取られて見ていると、振り返って「早く早く」といわれた。イルカは、黒板とその顔を交互にみる。そうすれば言われた。

「入る気、ないんでしょ? だったら行きましょうよ、俺と」

 ニコ、とカカシが笑った。それは顔の半分以上が隠れているために、その右目でしか分からなかったが、それでもはっきり笑ったとイルカには分かった。その笑顔は、いやに好感的だった。今までの、飄々とした態度に胡乱な視線、癪に障る言葉も一瞬、吹き飛ぶほどに、やたら「マトモ」に見える笑顔だったのだ。
 ほんの束の間、笑顔に気取られて、反応できなかった。
 そうしているとカカシがまた、「早く」と急かした。
 イルカの足が動いた。
 そう、このまま嫌な気分のままで店の前にいても仕方のないことだった。
 あとで同僚には叱られよう。

「…どこに行くんですか?」
「まあ、どこでもいいですけど、適当に」

 言った通りに、いかにも適当にというふうに歩くカカシに付いていきながら、イルカは内心で、聞きたいこととは何だろうと思う。やはり叱られるのだろうか。先ほどの笑顔には騙されないほうがいいだろう。激しく胡乱だ。
 だが、そう思いつつも、先ほどよりはまだこちらのほうが建設的な時間の使い方のような気がしていた。また、いつものように女性と喋りながら鬱な思いをするよりは、すこし命の危険と神経を逆撫でする思いがあったほうが良いような…とそこまで考えて、いややはりどちらもどっちだろうと自分で思い直した。
 さて、どんな展開になるのか。
 少なくとも飲み代は持ってくれるらしい。
 高給取りだというから、誘われた手前それぐらいは役得があってもいいだろう。
 腹の底で覚悟を決めて、イルカはカカシに付いていった。
 イルカの背後で、『うお弥』のざわめきが遠ざかっていった。



2002.12.24